希望




521  玄奘のインドへの旅



627年の秋に甘粛省の玉門関を出発、ハミでは高昌王の世話になり、ヤンギ国、クチャ国、そして天山山脈やイシク
湖、スーヤブ、タラス、タシケント、つぃでサマルカンド(西トルキスタンの大オアシス都市)に至ります。さらに、アム河を
渡りバクトリア(ヒンズークシ山脈の南麓)、バーミアン、カブール盆地、ペシャワールを経て、628年の冬にインドに入
りました。

帰りは641年で、ガズニからバクトリア、バダフシャン高原(汗血馬で有名)、パミール山脈を越えて、カシュガル、ホー
タン,オーランを経て644年に中国長安に帰りました。
26歳で国を出てから43歳で帰国しています。後日、西遊記の主人公になりました。
中国における三大旅行家といえば、司馬遷,玄奘そして元の時代の長春真人となります。
長春真人は、晩年のチンギス・ハーンに会い不老不死の秘訣を問われて、摂生のみと答えたエピソードの持ち主で
す。



 522  情報の伝達はかくも大変であった



13世紀の情報の伝達がいかに大変であったかを知る一つの手立てとして、ローマ法王庁がモンゴル帝国に送った手
紙及びその返書について見てみましょう

1245年4月15日リヨンを出発したフランシスコ修道会の高僧カルピニは,法王イノセント4世の親書を持ち、1246年
の夏、ボルガ河畔で憩うバドゥ(ジンジス・ハーンの息子)の本営に至りました。同じ年の6月28日カラコルムにあるモ
ンゴル皇帝の本営に向けて出発します。しかし、オゴタイ・ハーン(2代目)は死んでいて、次のグユクの即位を待ってグ
ユク・ハーン(3代目)からの返書を大臣から貰い、1247年夏に無事リヨンに帰ったそうです。
返書はサラセン語、タルタル語、ラテン語で書かれていました。ローマ法王からの親書はラテン語で書かれてあり、バト
ゥに謁見した際には、宮廷の通訳がラテン語からロシア語、そしてペルシャ語、最後にモンゴル語に通訳して伝えたそ
うです。



523  ウマイヤ王朝とアッバス王朝の違い



7世紀の半ばから8世紀の半ばまで、およそ百年間シリアのダマスカスに都を置いて、イスラムの覇者になったのがウ
マイヤ家で、初めて教祖マホメットとは血の繋がらないカリフが指導者になりました。

アッバス家の人達も同じアラブ族の出ですが、ウマイヤ王朝を倒した後はイラクのバグダッドに都を移し、モンゴル族に
侵略された13世紀に滅びました。

概して、ウマイヤ王朝は故郷アラビアの風習を残し、砂漠の中に離宮を営むとか、蛮勇を好んだり、飲み食いも騒々し
く女性も共にはしゃぐといった風だったようです。アッバス朝はイランの北方から反旗を翻して興った経緯もあり、地理
的にもイラクはイランに近く、イランの神秘主義的な都会的な面を受け継いだようです。
あるいは、シリアはヨーロッパにルーツを持つ古代ギリシャ・ローマの千年に亘る伝統文化の上に成り立っていますが、
イラクはメソポタミア、アッカド、アッシリアなどセム系先住民やアケメネス・ササン朝などのペルシャ文化の上にのって
います。
ダマスカスとバグダッドはそんなに離れているわけではないのですが、できた王朝は随分と違ったものになりました。
カリフ自身もウマイヤでは、未だ庶民と膝を交えて共に語り合う仲間の一人というものでした。アッバスではカリフは、庶
民とは遠く離れた存在になり近寄りがたい神秘性を帯びたものとなりました。



524  明日は我が身



サンフランシスコのフィシャーマンズ・ウォーフでシーサイド再開発のモデルになったのが、39番桟橋(ピアー39)です。

そこにアザラシ(シーライオン)が多く集まっていて、観光の名所になっています。
ガイドの説明によると、ここに集まってくるアザラシは全てオスだといいます。アザラシ世界では、最高の権力を握った
オス1頭が群れのメスを独り占めするそうで、意気地のないあるいは競争に負けたオスが失意のうちに、ここに集まっ
ているのだそうです。
そういえば、何ともいえず悲しげな泣き声で鳴いているように思えます。人間界も生まれる時と場所を間違えると、それ
に近い運命になるのですから他人事とは思えないことのように思いました。



525  アラブ人によるイスラム拡張は何故可能に?



アラブ民族が7世紀に突如としてアラビア半島から躍り出て、周辺を支配していた東ローマ帝国(ビザンツ帝国とも呼ば
れる)やササン朝ペルシャに対抗できたのは何故でしょう?

そして、アラブ民族内部にあれだけの火種(最初のカリフ4人のうち3人は暗殺されています)を抱えての偉業であった
ことを思えば、不思議な気がします。
ユダヤ教やキリスト教に対しては、同種同根とみなし兄弟に近い処遇をしています。さらに他の民族に対しても、必ずし
も右手に剣だけではない、抵抗しなければ土地や商売を取り上げることをせず、税だけで済ましています。異教徒を無
理に改宗することもしていません。寛容な政治を行っています。人数は少なくても優秀な軍司令官のもと、機動性(馬や
ラクダを使い)と死を恐れない勇敢な戦い振りが、何百年も前から存在し倦んでいて目的意識を失った東ローマ帝国や
ササン帝国の指導者や軍人とは比べものにならない力量を発揮しました。領土を拡張した際の支配方針もしっかりで
きていて、アラブ人の軍人が骨抜きにならないように監視されていました。カスバという名で残る特別区に彼らは住み、
質実剛健さを培うよう指導されました。生活と信仰が一体となったチャレンジ精神に富んだアラブ・イスラムの活躍は,
他の民族に大いに刺激を与えたことでしょう。

  
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