希望



496  ルガーノ高校での古典語、英語授業風景



1日スイスの進学高等学校を訪れたことがあります。

学生の4割は卒業できないそうです。1クラス20名ぐらいの編成で、授業の内容、密度、レベルの高さは日本の比では
ありません。校舎も古く、1904年に最初から学校としてつくられたもので、天井は高く廊下や階段も広くゆったりしてい
て、本当に素晴らしいものでした。
古典ギリシャ語クラスを見学すると、聖書の文章を朗読していました。この先生が、古典ギリシャ語とラテン語を兼ねて
教えているそうです。両国語ともインド・ヨーロッパ語のファミリーに属していて,共通点が多いそうです。ヨーロッパ人に
とりラテン語も古典ギリシャ語も今に至るまで、文学、歴史、神話、医学、分類学など多方面の分野で影響を与えてき
ました。さしずめ日本で例を探すとすれば、古文とか漢詩文に当たるのでしょう。
残念ながら明治維新で、過去の文化遺産、伝統を否定してしまいました。言葉も試行錯誤しながら明治以降、欧米の
進んだ技術、思考方法に対応出来る表現可能な新しい日本語をつくる必要がありました。司馬遼太郎さんによると、や
っと誰もが理解できる共通の(医学であれ、ビジネスであれ、文学であれ、機械用語であれ)日本語が整ったのは、昭
和30年ごろだそうです。
韻をふんで音楽の如く耳に心地よい会話をするヨーロッパ人と比べると、現代日本人は伝統ある表現法を持っていた
過去の日本人とは比較にならないほど貧しい言語民族になっています。
英語の授業(高校4年)では、英国のオスカー・ワイルドの戯曲をテープで聞いていました。19世紀のビクトリア朝時代
の背景を学んだ上で、シニカルな新しい文学の波を創造したワイルドの表現をみんな集中して学んでいます。授業中
の会話もほとんど英語でしていました。指導教師(スイス人)は、毎年夏になると英国に勉強に行くそうです。
この生徒たちは学校で英語に接して6年目であり、週に3時限の授業を受けるだけです。
これだけの成果を生み出せる秘訣はどこにあるのでしょう。



497  水のある所には植物が育ち、そして文化が生まれる



ペルーの太平洋沿岸はほとんど雨が降りません。

乾燥していて、砂砂漠が連なっている風景です。しかし、所々には背後のアンデス山脈から流れ出る川の水がオアシス
をつくっています。そんな一つにナスカの地上絵の残る、ナスカ文化(千年以上前)が生まれました。
5人乗りの小さなセスナ機に乗り、地上1400〜1500米の上空から見える薄茶色の大地の上に、引っかいたように
見える動物や幾何学文様の白い線は、明らかに意図して描いたものもあれば、偶然に自然に出来たのでは?と思わ
れるものもあり、想像力を必要とします。右に左に旋回しながら足早に飛ぶ機内からは、とても砂漠野中に
深くらせん状になった人が水を汲む為に上り下りする階段の井戸を掘り、地下水の流れを管理する高度の土木技術を
見ることは出来ません。
1時間20分の飛行の後、イカの飛行場の待合室の中にある映写室で見たビデオフィルムを通して,どのように井戸が
つくられているのかや内陸には岩肌に刻まれた地上絵の残る所が更にあることを知りました。
乾燥した土地であればこそ、水の神様(雲や雷、稲妻の起る)の住む空へ向かって、恵みを頂けるよう、地上に生きる
動物を描き知らせようとしたのでしょうか?



498  トウモロコシこそ大切



マチュピチュとは古い峰、ワイナピチュとは若い峰という意味だそうです。

空中都市あるいは聖なる町といわれる遺跡マチュピチュは、古い峰若い峰やその他のトウモロコシの形をした山々に
ぐるりと囲まれていました。土地勘のない者は、決して知ることの出来ない場所につくられました。この遺跡の発見者は
ハワイ出身のハイラム・ビルグ博士で、1911年の快挙でした。空からでも捜さない限りは、不可能と思われる中、崖を
よじ登って、土地の人の案内で辿り着いています。
マチュピチュ遺跡の背後の丘の小さな分水嶺に登ると、眼下に遺跡が広がり遺跡の前方にはワイナピチュの峰が大き
く姿を見せています。現地のガイド女史が写真入の本を広げ、このワイナピチュの山姿の中にピューマやコンドル、そ
してインカ族の高貴な特徴のある鼻を持った人物が見て取れることを説明してくれました。

ピューマは地上の動物の王であり、コンドルは空の王、地上の支配者としてのインカ族となれば、自ずからこの山姿を
正面に見る開けた台地こそ聖なる町に相応しいと考えたのでしょうか?
喘ぎながら登ってきたインカ道の残るこの分水嶺には、太陽の門という名の過って物見の塔として使ったかも知れない
崩れた石造りの建物があります。朝一番の日の光がここを通って,眼下の遺跡を照らすといいます。
マチュピチュ遺跡登頂への麓の町アグアス・カリエンテスの広場には、インカ帝国9代目皇帝マンコカパが、右手にトウ
モロコシの実が先端にデザインされた杖を持ち、トウモロコシそっくりの鼻をした仁王立ちした銅像がありました。


そして、トウモロコシは聖なる植物、食物であり、山の頂に至るまで栽培されていました。



499  女性の下着を売っている店の天井には昔のフレスコ画が



オーストリアの山間のグラーツの町はずれに、近世の時代この地方を支配した領主の城があります。

エッケンブルグ城といいます。重厚な建物で、室内装飾はバロック・ロココ様式になっていて、日本や中国の陶磁器も
多くあります。権力者の住まいの豪華さを今に伝えています。
グラーツ市内には世界でも珍しい武器博物館があります。17世紀当時の重厚な厚い石壁の武器庫だった建物で、当
時の武器の数々が展示してあります。その武器の量もさることながら、重量挙げの選手でなければ持ち上がらないと
思える重たい大きな武器を使用して戦ったことが分かります。16〜17世紀にかけてバルカン半島での支配力を強め
たオスマン・トルコ回教帝国に備える為に,グラーツに鍛冶屋や武器弾薬製造職人を全国から集めました。実際には、
ここは戦場とはならずじまいでした。
市民の心のより所である大聖堂も見ごたえのある立派なものです。旧市街には、女性用の下着を売っている店の天井
に、何百年も前に描かれたフレスコ壁画が残されていて、物見遊山の観光客であっても自由に出入りできるようで、グ
ループの何人かが入りましたが、美人の売り子は愛想好く対応していました。また、王室ご用達という格式ある店構え
のパン屋では、菓子パン一つ買いましたが120円ほどでした。
旧市街の歴史ある建物の中で現在生活している人が、一体化して自然に生きているリズムはなかなか真似の出来る
ことではありません。市民皆で古い町を守り着実に歩いています。
こういう環境(過去から現在、そしてその延長線上に未来を捉える)に育つ若者は、自己認識に早くから目覚め、責任
ある考え行動を身につけることでしょう。



500  オーストリアとは



マース川のほとり、19世紀末につくられたホテルの中、ユーゲントスティール(世紀末様式でフランスではアール・ヌー
ボーと呼ばれた)の内装の美しい大広間で、グラーツ(ウイーンにつぐ第2の都会)の先生方と歓談しました。

オーストリアとは何かと問えば、かって神聖ローマ帝国の皇帝を輩出したハプスブルグ家、そしてナポレオン以降はオ
ーストリー・ハンガリー両帝国の支配者として君臨した歴史を持つと答えが返ってきそうです。あるいは、淘汰方式で第
1次、第2次世界大戦後独立していった民族や地域を除いた部分が、オーストリアであると表現した歴史家もいたそう
です。また1930年代末から第2次大戦終了時まで、この国出身のヒトラーによりドイツに併合されました。戦後も195
5年まで4カ国(アメリカ、英国、フランス、ソ連)の共同統治下にありました。国家を歌うこともなく、僅かにサッカーの国
際試合などの際に、愛国心に似たようなものが生まれ、国家を歌うことがあったそうです。

平和の大切さを日本同様感じていて、小学校から英語教育をしています。EU(ヨーロッパ連合)加盟により、ヨーロッパ
全体を見渡した広い視野を持った人材を育てる為に、他の国々の学校との国際交流プログラムが盛んに行われてい
ます。
  

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