希望




481  低地族(日本人)が高地族(ペルー人)に挑戦



27時間の飛行機の長旅の末、やっと海岸の町リマへ到着、翌朝から5日間内陸の高地帯(ウルバンバ、アグアス・カ
リエンテス、マチュピチュ、クスコ、プーノ、ティティカカ)へと挑戦しました。

注意された通り,腹式呼吸、ゆっくり歩く、タバコや酒を控える、風呂に入らない、食べ過ぎないなど守り実行しました。結
果は、頭がボーとして、お腹が張り,筋肉痛を感じ、体全体がだるく,咳が出るし微熱もあり、少々下痢気味でした。これ
が高山病の症状でしょうか?海抜2千から4千米間での体験です。空気圧も違うし酸素も少ないのでしょう。
マチュピチュ遺跡(2400米)から少しだけインカ道を登って、太陽の門(2760米)へと1時間半かけて休み休み挑戦し
ました。息があがり足がふらつき頭がさらにボーとしていました。
クスコ(3400米)からはバスに乗って峠の頂上(4300米)を越え、プーノ(3900米)の町へと旅を続けました。びわ湖
の10倍以上あるティティカカ湖畔の町です。
湖上浮き草の上で生活するウロスの人達を訪ねての帰る舟の中で、当地出身のガイド女史は、ショルダーバッグの中
からビニール袋に入ったコカの葉を取り出して、コカの葉講義をしてくれました。彼女によると、コカの葉はジャングル
(ペルーの半分はアマゾン河と接するジャングル地帯)で育つ木から取れるといいます。高地に住む人達にとり必需品
であり、友人同士が出会うと、まずは互いのコカの葉を交換し合って口に入れ、唾液と共に楽しむのだそうです。コカ茶
として湯に入れて飲んでもいいそうです。コカの葉(姿見のいい)3枚を扇状に広げて四方に向かって葉に口付けをしな
がら、コカの神様(?)に感謝しました。そして、この3枚の葉は湖へと投げてやりました。
それが終わると、押しつぶして粉にした石灰石をコカの10数枚の葉で包んで口の中に入れ,頬の片側に置き唾液とと
もに楽しむのだといいます。やがてしばらくすると、コカの葉を入れた側の頬が神経が痺れてきました。丁度歯医者に
行き、虫歯の治療前に歯ぐき注射で部分麻酔が効くのと同じ状態でした。世に言う、コカインとは違い後遺症や依存症
にはならないそうです。30分も楽しめば、役目終了ですので、そのまま吐き出せばいいそうです。唾液と一緒に飲み込
むのは一向に差し支えないそうです。後で行った丘の上のシルスタニ石墓遺跡(4000米)は、しばらく歩いて登らなけ
ればなりません。ガイド女史はしきりに袋からコカの葉を取り出して、口へと運んでいました。
体全体がだるく血の巡りが悪くなり、ゆっくりするリズムの中でコカの葉の果たした役割は大切だったことがわかりま
す。
彼女によると、麻薬のコカインは50キロのコカの葉が化学的につくられた石灰と混ぜ合わされて加工蒸留された末、と
れる30グラムの粉を言うのだそうです。低地に住む者が教わった高地の生活の知恵でした。



482  パイオニア(開拓者)精神は何処から?



ボストン郊外のタラ岬にある原子力発電所を見学しました。

その夜は発電所のお世話になった方々を招待して、プリマスの町のレストランで夕食会をしました。発電所に勤める男
性の奥さんは幼稚園の先生をしておられ、食前酒が終わり食事が始まるころ、私たち5人の日本男性の席にやってき
て、メイン・ロブスターを食べるのに使う、ビニールのエプロンを一人づつ首につけてくれました。そして、何度も私たち
の手を握りハッグやキスをしてくれました。初めて会ったにもかかわらず、感動の極に達していて制御がきかない親切
そのものの人でした。差し上げた小さな扇子が気にいった様子で、幼稚園の子供たちに見せるのだと言っていました。
月曜日の夜、こうして夕食をレストランで盛大に頂くことはないそうで、いろんな事が一気に喜びへと変化させたようで
す。幼稚園の先生は、一般に国を越えて優しく、表情も豊かで気持ちの明るい人が多いものです。
それにしても、私たち中年の日本人男性5人は、またとないおこぼれに預かり、アメリカ最後の夜が最高の楽しいもの
となりました。
プリマスの港町の入り江には、50年前に再建されたメイフラワー号(1620年の秋に102名の清教徒が乗ってこの新
天地へとやってきた)が,ありました。そして、ピルグリム・ファーザーズ(この船に乗ってやってきた人達を、敬愛を込め
て後日そう呼ぶようになる)が上陸してつくったプランテーション(部落)が、当時の生活そのままに再現されていて、言
葉も服装も住まいも畑の作物も木の塀も物見の塔も、なにもかもでした。大人から子供に至るまで全員ボランティアー
だそうです。囲炉裏の火のそばで働く女性に声をかけたところ、400年前に使われた言葉で答えてくれます。チンプン
カンプンでした。
原子力発電所で働く人も若かったころ、この村で働いたことがあると言っていました。



483  死の直前ほどメッセイジを伝えたい思いが強くなる



暗闇の中死が迫る中で、妻に思いを綴ったバレンツ海底でのロシアの原子力潜水艦の船員も、あるいは急降下する
旅客機の中で、手紙を書き続ける乗客も同様でしょう。

人は死の直前まで、愛する人に思いを伝えたいようです。
人の人たる所以は、書き言葉を知ることでより一層強化されました。
大陸に住む人達が、詩や歌に感動する度合いは、現在の我々日本人が言葉をぞんざいにしがちなのと,好対照をなし
ているように思います。
私達は、柿本人麻呂や平家物語の琵琶法師の語りに耳を傾けた人とは、異なる人になってしまったのでしょうか?
愛する人や心の通い合う友人が、減ったせいでしょうか?



484  ミネラルウオーターを買いに行き、フリオ?カリエンテ?と問い返される



征服者スペイン人は、太平洋の港に近く生活用水の便を考え、背後に川が流れ見晴らしのきく高台のリマの地に首都
をつくりました。

現在では700万人を超す南米有数の大都会となっています。ホテル近くの人で賑わう通りの一角にあるキオスクで水
(アグア・シンガス)を2本と云ったところ、売り場の中年の女性は、フリオ?(冷たい)カリエンテ?(暖かい)と考えても
見なかった質問をニコニコしながら発しました。さて、本当に夏のこの時期(2月)アグア・カリエンテを売っているのでし
ょうか?
数日後には、天空に残された聖なる空中都市と云われる、マチュピチュ遺跡の登頂口の町アグアス・カリエンテス(暖
かい水)に私はいました。温泉も湧き出ています。ウルバンバ川の水が渓谷の小さな町の傍を、雨期の最中ということ
もあり、茶色の濁流となりごうごうと音を響かせながら流れています。この水は、さらに長い旅をしてアマゾン河に到達し
ます。泊ったホテルのロビーの壁には、非常時(川の水の氾濫の際)の逃げていく避難場所の地図が掛かっていまし
た。普通、ホテルの非常時の掲示は火事ですが、ここでは水が最重要課題になっていることがよく分かりました。



485   江戸の庶民文化に似ているとチャンカイ文化を評した天野芳太郎



リマの新市街の一角に天野芳太郎(1898〜1982)が、1代で陶器と織物を中心にペルー各地で蒐集した小さな博物
館があります。

特にインカ人以前に地方で栄えたチャンカイ文化と呼ばれる、庶民の墓から出土した土器や織物のレベルの高さ、独
創性にいち早く目をつけ,私財を投げ打って買い求めました。
ほって置けば、きっと朽ちて日の目を見ることはなかったことでしょう。雨の滅多に降らない土地柄であったことも幸いし
て、古き素晴らしい染物や手の込んだ刺繍、織物その他デザインのユニークな品物が見つかりました。
盛時には、1千万人を傘下に置いたと考えられるインカ帝国(14〜16世紀)時代は、誰一人として飢えることがなかっ
たといわれ、それを伝え聞いた英国人トーマス・モアは楽園と讃えたそうですが、むしろインカ以前に栄えたこの庶民の
墓に入れられた埋葬品を通して、このチャンカイ文化こそ階級差のない豊かで平和な社会であったと思うと大胆に切っ
て見せた研究員女史の弁舌は冴え渡っていました。
  

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