希望




476  コスタリカは素晴らしいと語ったアメリカの白人青年



マチュピチュ遺跡に向かう乗り合いバスの中で、アメリカの青年と座席が隣になりました。

カメラマンとして生計を立てているそうで、白人支配のアメリカ社会の中に浸かっている限りは、そのほかの人種や
人々の気持ちは分からないと思い、自分を旅の中で一人、身をおいてみて初めて、自分が少数派(マイノリティ)になっ
てみて、人の気持ちが分かるようになったそうです。
年に2度は、1週間から10日ほどの単独の旅を、もしくは学生たちの安いツアーに加わって、旅をすることで自分の知
らない世界を見て、違った生活に触れることができ、ものを見る眼が少しづつ広がっていくのを喜んでいると語りまし
た。
これまで旅した中では、コスタリカが良かったそうで、もう1度行って見たいといいます。
そこには、自然が豊かにあり植物や生きもの、そして人々も優しく憩えるところだったそうです。



477  安全確保(セコム)から始まった浮き草生活のウロスの人々



今から4千年もの昔、陸地での縄張り争いに終止符を打ち、水の中(ティティカカ湖)に活路を求めて、移り住み出した
人々がウロス島の水上生活者の先祖だそうです。

湖に生えている葦を引き抜き、水に浮かぶ性質を利用して、葦を厚さ1米ほどの生活空間となる土台をつくります。こ
の水に浮かんだ土台の上に、葦の家をつくり傍には葦の舟がつながれていて、何から何まで葦だらけです。また葦は、
皮を剥くと中は白く口に入れるとスカスカとして、食べられます。
長く使ううちには、水に浸かっている床下は水を含み沈んできますので、さらに上に葦を積み上げていくそうです。流さ
れないためには、何箇所かに木の杭を打ち込んで固定しておきます。時には場所を変えたくなったら、杭を抜いて移動
します。そして、最後の最後に修理修復が無理となれば、古き住まいはうち捨てて、新たに新住居を作るのだそうで
す。
訪れた浮き草空間の上では、5家族の人達が生活していました。飲み水は、湖に流れ込む川の水を使い、陸地に住む
人達と昔から物々交換などして生活を支え、今も千人近い人が湖上生活しています。便所も何らかの浄化過程を通り
湖に落ちる仕掛けだそうです。
フジモリ大統領も2晩この浮島に泊まったそうです。浮き草島の中には、小学校もありました。先生は、陸地から舟で通
ってくるそうです。観光客を受け入れ、みやげ物を販売して生計をしている島もあれば、そうではなくしっかりと足を水
(地?)につけて,伝統の生活をしている浮島も結構あるそうです。

ここと同様に自衛するために、ベネチアの人々が松の幹を水の中に打ち込んで人工的につくったベネチア本島を思い
出しました。



478  ティティカカ湖誕生伝説を語ったマイティさん



インカ帝国の都だったクスコ(海抜3400米)からバスに乗り、ウルバンバ渓谷を登りラ・ラヤ(海抜4300米)を超える
と風景が一変して、アンデスの動物と言われるアルパカ、リャマ、ビクーニャの大好物イチューの草しか生えていない高
地平原にでました。

雨期(10〜3月)でしたので、緑豊かに大地は見えましたが、硬く尖った葉を持つ背丈の低いイチューの草ばかりで
す。遠くには雪を被った5〜6千米級の山並みが見えます。ゆっくりと時間をかけて下っていき、ティティカカ湖畔の町プ
ーノ(海抜3900米)に到着しました。この町は、1666年にスペイン人がつくったのが始まりだそうで、2月の半ば、通
りはカーニバルの祭りで楽隊や着飾った市民のパレードが行われ賑わっていました。
クスコまでバスで迎えに来てくれたガイドのマイティ女史(30歳前後)は、5年間大学でガイド養成コースを学んだ英語
の堪能なインテリであり、庶民的な人でもありました。父をケチュア語(インカ族)そして母はアイマラ語(ティティカカ湖周
辺で話される別の種族)を母語にする2人の間に生まれました。両親が結婚した当時は,異種族どうしの結婚は周りか
らの反対が強く、大変だったそうです。今は、それも和らいでいるそうです。

さて、アイマラ語伝説によるとティティカカ湖誕生は、本来この場所は湖はなく、広い谷間が広がるところだったそうで
す。そこでは、全てのものが備わっていて楽園があり、何不自由のない生活が人間に与えられていました。神は唯一つ
人間に、谷間を取り巻く周辺の山の峰の外へは出てはいけないという戒めを与えていました。しかしある時、峰を越え
て外界へと人間は出てしまいました。山の霊は怒りピューマを使い人間との争いが始まりました。それを見た天の神は
悲しみ、その涙が谷間に落ちティティカカ湖となったそうです。ティティとはピューマ、カカとは岩という意味です。大勢の
人は溺れて死にましたが、神は湖の中の岩に一組の男女を助けて住まわせたそうです。人工衛星から見ると、この湖
(びわ湖の10倍以上あり、周辺の山から流れ出す水は盆地になっているこの湖に流れ込む)は実際ピューマの形をし
ているそうです。
またインカ伝説でもこの湖が初代インカ王の誕生とつながりがあるそうです。
ティティカカ湖は、深いところは300米近くあり、湖の中を調査しました。結果は、かって人が住んでいたと思われる跡
が見つかったそうです。今後の研究、発見が待たれます。



479  インカ帝国の舞台裏



14世紀〜16世紀にかけて、南アメリカ大陸を南北に貫くアンデス山脈に沿って支配した、インカ族の成功は何にあっ
たのでしょう。

1万年以上前に、シベリア大陸からやってきた先住民族がアメリカ大陸に分布して、部族に分かれて文化をつくってき
ましたが、この地に初めてインカ族の一大支配権が14世紀ごろにできました。未だ、分からない面は多々あるようで
す。明らかになっているものを挙げてみましょう。
まず、支配地における寛容さがあります。宗教、政治面での被支配民族に対する配慮がなされていました。その地で信
仰されていた神を取り入れたり、重税はかけず、道路をつくるなどの労働奉仕を中心に使役したようです。
次は、支配地の情報掌握に熟知していました。縄もしくは糸の結び目の操作により、文字を持たないにも関わらず、情
報が交信されていました。アナログやデジタルに似た仕組みを伝達手段として、使っていた可能性があるそうです。あ
るいは、支配地の地形や地理、町の様子を、土でつくったミニモデルで承知しており、中央(クスコ)から的確な指示を
出していたとも考えられます。
そしてなんと言っても、クスコと支配地を結ぶ軍用、情報、物流道路(インカ道)を短期間に完備し、早飛脚や防衛見張
り塔の詰め所が一定の距離ごとに配置されました。
内陸の高地帯出身のインカ族が、低地帯の先進文化圏(海岸地方)へ進出するには相当の覚悟があったことでしょう。

飢えを知らない世界をつくりだしたインカ帝国の支配は、ヨーロッパではユートピア(理想郷)として讃えられ、トーマス・
モアがこの地をモデルに本を書いたといわれています。
しかし、インカ族の上部階層の間に亀裂が入り、あるいは寛容な支配とはいえ被支配地域の不満も手伝い、エル・ドラ
ド(黄金に魅せられて)をひたすら求める小数のスペイン兵に操られ、短期間で天下をとったように短期間で天下を失う
ことになりました。

インカ族の栄光の面影は、遺跡に残る素晴らしい石組みの壁や礎石や地の利を考えた町づくり、そして博物館の中に
見られます。



480  インディ・ジョーンズのフェルト帽はペルーの女性が被っていた



もともと高地帯(海抜2千〜4千米)は日差しが強く、被り物をする習慣がありました。
20世紀に入り、内陸の高地帯にあるプーノ/クスコ/アグアス・カリエンテス(マチュピチュのあるところ)などを含む地
域に、鉄道敷設が始まりました。
慎ましい生活をするインディヘナ(先住民族)の人達は、初めて欧米の先進技術の凄さを目にしました。そして、この事
業の指導をしている鉄道技術者が頭に被っているフェルト帽が、何とも魅力的に見えたことでしょう。この帽子こそ進歩
の象徴として映りました。

高地帯の人々、特に女性が今も伝統の民族衣装で身を包みながら生活しているのを、目にするにつけ、頭にはフェル
ト帽(茶、ねずみ色系)を被っているのは、微笑ましくまた奇異にも感じました。
  

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