希望




471  バイブル『聖書』とは



ギリシャ語ビブリア(小さな書物という意味)が66冊集まって、集大成された書物をいいます。

約1600年(紀元前1513〜紀元後98)に亘って40人の伝道者が、神の霊に導かれ書いたものとされています。主題
(テーマ)は一つです。
神に対する反逆により、楽園を追われた人間(創世記の中で)が許され、再び地球が神の支配する楽園となる(啓示の
書)お話です。
39冊はヘブライ語で書かれた為ヘブライ語聖書(俗に旧約聖書)と呼ばれ、27冊はギリシャ語で書かれた為ギリシャ
語聖書(俗に新約聖書)といいます。時間の流れから云うと、先にヘブライ語聖書が出来、そしてギリシャ語聖書となり
ます。従い、ギリシャ語聖書の中では、ヘブライ語聖書への言及が多く見られます。

聖書の中で使われている言葉で、いくつか気になるものを取り上げて見ましょう。
・アーメンとは、'そうなるように'という意味だそうです。イスラム教でのインシャラーに似ているようです。
・アブラハムはセムの子孫で、ノアから数えて10代目にあたり、大洪水の352年の後の紀元前2018年にウルで生ま
 れます。99歳でアブラハム(それ以前はアブラム)の名をもらう。精霊の導きで妻サラ(腹違いの妹)と共に75歳のと
 き、ウルの町を出てカナンの地へと旅立ちます。ユーフラテス川を渡ったのがニサンの14日でした。アブラハムが86
 歳の時、ハガル(年若い下女)との間に長男イシマエルが生まれます。しかし、100歳になり妻サラ(90歳)に次男イ
 サクが生まれました。イサクが25歳になった時、ネゲブのモリア山に行きイサクを神への犠牲として捧げる用意をし 
 ました。紀元前1843年にアブラハムは175歳で亡くなりました。
・イシマエルは、紀元前1932年に生まれ、母はエジプトの奴隷女ハガルです。イサクの14歳年上の兄となります。ハ
 ガルとイシマエル親子はアブラハムにより砂漠へと追放され、ベエルシェバの荒野で彷徨いますが、助かります。妹マ
 ハラトはエサフ(イサクの息子の一人)と結婚しています。この子孫がベドウィンとなります。
・イスラエルとは神と闘うものという意味であり、ヤコブが97歳の時、神からもらった名です。ヤコブは、イサクを父にリ
 ベッカを母として生まれた双子の兄弟の一人。もう一人は、エサフ。
・イチジクは、オリーブ、葡萄とならんで聖書の中によく出てくる果物で、アダムとイブが葉を合わして腰覆いをつくったと
 されます。
・エジプトはミツライムの名で聖書にでてきます。ハムの子ミツライムの子孫が支配した所とされ、今日でもミスルという
 名でエジプトのことをいいます。
・イエスとはギリシャ語のイエスースのラテン語読みであり、ヘブライ語ではエーシュアまたはエホーシュアになり、エホ 
 バとは救いを意味しています。
・キリストはギリシャ語のクリストスに由来していて、'油注がれた者'という意味です。ヘブライ語ではマーシーアハ(メシ 
 ア)になります。
・イエス・キリストは'ナザレのイエス'と呼ばれましたが、紀元前2年の秋に生まれたようです。バプテズマのヨハネの誕 
 生から半年後になります。ローマ皇帝はアウグスゥスであり、ユダヤを支配したヘロデ王治世の終わりにあたります。
 生後8日目にに割礼を受け、40日目にはエルサレムの神殿に連れて行かれました。宣教は3年半に及び、紀元後2
 9年の秋に始まり33年の春に終わりました。29年の秋にヨルダン川で洗礼され、カナの結婚式で水をワインに変え
 る奇跡を行い、カペルナウム(ガリラヤ湖近く)に行きました。30年には過ぎ越しの祭り の時、エルサレムの神殿か
 ら商売人を追い出します。31年にも過ぎ越しの祭りに、エルサレムに行きました。有名な山上の垂訓(カペルナウム
 付近)を行いました。バプテズマのヨハネの首がティベリアではねられました。32年にも過ぎ越しの祭りのためエルサ
 レムに行きました。キリストの変容をヘルモン山上でペテロ、ヤコブ、ヨハネを前にして行います。そして、33年にも過
 ぎ越しの祭り(ニサンの14日に祝う)のため、エルサレムに行きました。イエスのこの日の行動は、、エルサレムのと
 ある2階の部屋で、弟子と共に過ぎ越しの祝いの食事をします。その後、町を出てギデオンの谷を渡り、東に位置し 
 ているオリーブ山の斜面を登ってゲッセマネ(油の絞り場という意味)の園へ行きます。そこで捕らえられてエルサレ 
 ムへと連れ戻されます。最初に裁判のため、祭司アンナスとカヤファの待つサンヘドリンの広間に行きました。明け方
 には、ローマ総督のピラトのいる総督官邸へと移されます。さらに、ユダヤの王であるヘロデ・アンテパスの所へも行
 きました。そして再びピラトの官邸へと戻り、裁判の結果ゴルゴダの丘で杭にかけられました。息を引き取ったのは、
 夕方でニサンの14日が終わろうとするころでした。



 472  立って見ると



ゲーテの生家(ドイツのフランクフルト・アン・マインの町の旧市街にある)に行くと、彼が立って書いたという机がありま
す。

その方が,詩を練るのに適していたのでしょうか?ゲーテは、背の高い人でしたから机はかなり高い位置になります。
岡目八目といい、少し離れて上方から見ると、全体が見渡せ見落としているものも見えるので、囲碁など8目は得をす
ることを云ったようです。
将棋の加藤一二三さんが、時に立ち上がり、盤面を見るのも全体を見ようとする癖の表れかもしれません。
馬の背に乗ると、自ずと姿勢が良くなり,視界は広がります。
映画などでも裁判の場面で、欧米では弁護士が立ちあがって陪審員の前で、熱弁を振るっています。一般的に、大陸
の建物の天井は高くつくられているようで、基本に立って生活することがあるようです。どうしても立っていると、活動的
になり行動的になり、考えも前向きになるのではないでしょうか?
さて、座ってものを考える、食事するなどの礼儀作法をつちかってきた日本人は、大陸とは異なる、文化を育て上げた
ようです。



473  太陽系の秘密の鍵を開けた人、ケプラー



ヨハネス・ケプラー(1571〜1630)は、ドイツの黒い森の端にある小さな町で、貧しい家庭に生まれました。

貴族の援助を得て、給付生として神学を学びルーテル派の牧師を目指しました。小柄な人でしたが,知性に溢れ並外
れて意志の強い人でした。22歳でオーストリアのグラーツにある、ルーテル派の高校の数学教師になります。゜宇宙の
神秘'という本を発表しますと、ブラーヘ(デンマーク出身の天文学者で、神聖ローマ帝国皇帝の宮廷数学者)の目にと
まり、誘いに応じてチェコのプラハ近くのベナッキーへと行きました。ブラーヘは、厳格な観察者であり、天体の動きを
綿密に記録し膨大な資料がありました。ブラーヘの死後、29歳の若さで、皇帝の宮廷数学者になりました。

歴史を振り返ると初期の天文学者は、宇宙は星が埋め込まれた空ろな球であると考えていました。プトレマイオス(古
代ギリシャ人)は地球が宇宙の中心であるといい、コペルニクス(16世紀前半活躍)は固定した太陽の周りを惑星は回
ると思い、ブラーヘは太陽の周りを惑星が回り太陽は地球の周りを回る、そして回り方はまん丸の円を描き、同じスピ
ードであると考えました。

ケプラーは資料を検討し観察した結果、惑星は太陽の周りを回るが円軌道ではなく、太陽を焦点とする楕円軌道であ
ることを見つけました。火星に自分が立って地球を見たらと考え、地球の動きに注目しました。太陽からの距離に反比
例して地球のスピードが変わることや、太陽自身も自分の軸を回り,磁石のようになっていて惑星の動きに力を与えて
いることも分かりました。
結論は、惑星は太陽の周りを楕円軌道を描いて回り、太陽からの距離に応じて回るスピードが異なる。太陽は楕円の
一つの焦点になっている。惑星は太陽に近い時にはスピードを増す。太陽と惑星はその距離に関係なく、一定の時間
内では同じ面積となる。惑星が太陽を一周するのに要する時間を、惑星周期と呼び、惑星の周期の二乗は太陽からの
平均距離に準じるなどでした。
当時の人には理解されませんでした。約70年後、アイザック・ニュートンがケプラーの法則を使い,独自の動きと重力
の法則を見つけました。今では、ケプラーは中世の天文学を新しい天文学へと導いた人として評価されています。
ケプラーが生きた時代は、ドイツ農民戦争(1618〜1648)と呼ばれる30年に及ぶ宗教戦争があり、政治や経済も混
乱させました。人口の1/3が失われ、魔女狩りで危うく母親が命を失いかけたり、生涯を通して宗教の圧力と偏見の中
に生きました。

(目ざめよ誌からの要約)



474  バジェスタス島が教えてくれたもの



ペルーの首都リマから約300キロ南下した所にイカの町(ナスカの地上絵をセスナ機に乗り見に行く基地)がありま
す。

そこから1時間ほど海岸へといった所にパラカスの集落があります。
この辺りからインカ文明(13〜15世紀)や、それ以前の人達が残した土器や織物が見つかったそうで、パラカス・ホテ
ル(1945年創業の最高のリゾートホテル)の展示室に素晴らしい収集品がありました。スコットランド人の研究家が寄
贈したそうです。
このホテルの桟橋から船で30分ほど行った所に大小10あまりの岩が、海中から湧き上ったように見えるのがバジェ
スタス島でした。
この辺りは、南から上がってくるフンボルト寒流と北から下ってくる暖流が交差する天然の漁場です。海に生きる様々
の鳥や哺乳動物(アザラシ、オットセイ、ペンギン、アシカなど)が、岩の上や断崖の岩場に、あるいは洞窟の中に、少
ししかない波打ち際の砂場に群れて生活しています。見事な風景で、何万という生きものが限られた狭い空間の中で、
共に生きています。
岩場に残る鳥たちの糞は、昔から飼料として使われ、今でも時に回収するそうです。訪れた2月の半ばは、子育てをし
ている最中と見え、海ではオットセイやアザラシが子供を背に乗せたり泳ぎの訓練をしている風景や、岩場ではせっせ
と餌を運んできては雛鳥に与えている母(父?)鳥が目立っていました。なんと美しい自然の摂理が働いていることでし
ょう。互いに縄張りを守りながら、海に生きる生きものを見ていて思うのは、あらためてこのペルーの陸地で生きた人達
の歩んだ道のりでした。
1万年以上も前に、遠くアジアから移り住んだ人々が、低地帯(海岸線)で、高地帯(2千〜4千米)や内陸のジャングル
でインカ帝国滅亡までは、自然に従った生き方をしたのに比べ、野心を胸に秘め侵略したスペイン人達の荒々しい暴
力に、背筋のすくむ思いがします。先に住み、生きたインディヘナ(先住民)のリズム,知恵を否定したその後の支配の
仕方は、今もこの国を破壊から立ち直れず苦しめています。
南米にパラダイス(自然と生きもの、そして人間の共生)を感じながら自ら壊してしまった白人の行動は、今もペルーに
深く傷跡を残しました。
僅かに、楽園にいるような思いをこのリゾートホテルでの静寂、小鳥のさえずり,花の色の様々、風の木々の葉を揺らす
音は与えてくれ、そしてバジェスタス島で見た自然の賜物(魚の集まり育つ海域)を、海に生きる動物たちがバランス感
覚を持って,縄張りを互いに尊重しながら守り合う生活風景に安らぎをやっと覚えました



475  コンドル航空をコンコルド機と間違える



ペルーのリマ空港は、国内国際線共に同じ建物内でチェックイン手続きを行います。

多少、書類等の検査の手続きに慎重さの差があるだけです。終わると2階に上がり、空港税を同じところで額が違いま
すが支払います。搭乗券の裏に、支払い済みの小さな証明書を貼り付けてくれます。次は、国内国際線に分かれて、
器械が空港税支払い済み証明書を読み取り確認します。国際線はその後、出国手続き(パスポートコントロール)・手
荷物検査へと、国内線は反対方向へ行き、手荷物検査のみ受けゲートへと向かいます。実に良く考えられた、流れる
仕掛けになっています。
この日は、私達は国内線で古都クスコへ向かうので、国内線ゲートからバスに乗り、離れた所に駐機してあるランペル
ー航空機に向かいます。バスに乗ると近くに、コンドル航空(アエロ・コンドル)と胴体に書かれたずん胴の飛行機が止
まっていました。それを見た客の一人は、コンコルドと読み違えたらしく、そのスタイルの悪さを指摘されました。
不幸にもランペルー機もずん胴型でした。しかし、フライト・アテンダント(乗務員)は、
黒装束の衣装に赤い縦の線の入ったお洒落なユニフォームで、スマートな優しい人たちでした。1時間のフライトの後
には、深呼吸をしながらゆっくり歩く、海抜3400米のクスコの空港にいました。


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