希望




466  北方四島の背景



1945年2月にクリミア半島のヤルタで行われた会談で、千島列島と南樺太がソ連に渡されることが、米ソの間で了承
されました。

その代わり、ソ連が日米戦に参戦することで一致、米国はソ連を援助してウラジオストックに武器などを輸送する約束
もしました。

千島列島は1875年、樺太千島交換条約で、日本領となっていました。
また、南樺太は、1905年ポーツマス条約の結果、日本領となっていたものです。

フランクリン・ルーズベルト大統領は、1945年4月に亡くなりました。63歳でした。40歳のころ、小児マヒにかかりまし
た。4期も大統領として1933年以来、政治を引っ張った人でしたが、スターリンの方が一枚上手だったようです。



467  ロシアの行く末



ロシアの歴史を考えてみます。

たった一人のツァーリ(皇帝)が絶対権力を握り、国民(農奴)を支配するシステムを4百年近く続け、その後現れたソ
連も一党独裁であり、70年も20世紀の大半を支配しました。ツァーリ以前のロシアは、キプチャック汗国が200年ほ
ど馬上から一方的に押さえ込みました。
露米会社は、アラスカやアリューシャン列島あたりで捕れるラッコや陸上の動物の毛皮を求めてつくられましたが、18
30年代の初め、サンフランシスコ湾に停泊していたこの会社の船を見たアメリカの船乗りの記録の中に、とても人の
働く環境とは思えない食料、服装、モラル,船内の状況であつて、惨めな状態だと述べています。
シベリアへとテン(キツネの一種)の毛皮を求めて出かけたのが16世紀の末であり、そして17世紀の末にはシベリア
の東端に達しています。ただシベリアでは食料の確保がおぼつかず、食料の調達と毛皮の販売先を日本に求めたの
が、日本への接触目的だったようです。18世紀末から19世紀のころでした。
あまりにもクレムリン(モスクワ)から離れすぎているシベリアの統治は,厳しかったようです。ようやく1904年にシベリ
ア鉄道が完成しました。それ以前は、凍結した氷の上をそりを走らせて、人や物資を運びました。多くの人が、無駄に
死んでいった歴史と言ってはいい過ぎでしょうか?
いまのロシアはそういう土台の上に乗っかっています。大変な足場です。食料や暖かい服、暖房が行き届いた家、自信
ある郷土の文化に根ざした明るい社会が、未来が描けるでしょうか?



468  生きものの住み分け論、縄張り論から何が見える?



生きものの生態を観察して、その実態を明らかにすることで、それぞれ種に応じて対応が様々であることが分かりまし
た。

人間もまた生きものの仲間です。人間の近くにいる生きもの、例えば犬や猫、鳥などを見て感じるのは、彼らの興味は
食べる、寝る、排泄、そして時にあるセックスでしょうか?
特に食べること以外は、あとはリラックスしているように見えます。勿論、人に飼われている生きものとそうでない生きも
のとでは、自ずと安心安全面での違いがあることでしょう。共通して云えることは、自分の周りに聖域にも似た力を存分
に振るうことの出来るテリトリー(縄張り)を確保することが、とても重要だと思います。確保できれば安全面も保障さ
れ、自信もつき大人としてのゆとりが生まれます。
人の場合は、'縄張り確保'の表れとしては、職業であったり、結婚であったり、何処の学校の出身であるとか、家柄など
を土台にしているようです。宗教も歴史の中で作り出されたシステムの一つだと考えられます。同じ道(夢や希望)を求
める仲間が集い、団結することで安全を確保し、特に心(精神)の向上を願って生きようとする行為であり、この世での
テリトリー確保以上に、その後に来る未知の世界(死後)の縄張りを確かなものにしようとする行為でしょう。例えこの世
で物質面での満足感が確保できなくても、むしろ確保できない(確保するためには、現実には多くの妥協と一時的な自
己尊厳の喪失と伴うことがある)がゆえに、なお一層宗教が必要となることでしょう。
日本では、長い間ものの豊かさには恵まれず、ものを大切に使うことでなんとかやってきたリズムでした。ただ幸いなこ
とには島国であり、海の向こうのお隣の国との間には程よい隔たりがあり、交流も安心して出来、先進技術や文化を取
り入れ活用し、その際も日本人に合うように調整した上での使用でした。日本の縄張りを侵略しようと脅かす勢力もなく
(例外として,元寇や黒船などが僅かにある)やってこれたのは、飼われた犬や猫にも似た状況の中にありながら、日本
人が向上を求める癖(個性?)を発揮して、この島国の中での調和を図ったと見ることが出来ます。
民族によっては地つづきであるがゆえに、突然馬に乗ってあるいは海から船に乗って侵略者がやってきて、一方的に
縄張りを荒らされプライドをもぎ取られ、奴隷にされたり酷い時には撲滅さえありました。
日本人の持っている優しさ,寛容性は、島国であり適度な雨と太陽の光に恵まれた自然のバランスがつくる四季と、食
料の確保が出来たことによると思います。ただ、決して広くない耕作可能な土地や住宅空間の中で、多くの人々が生活
するのですから、摩擦を少なくして生きるためには、この国独特のマナー(目線を合わさない、体の接触を避ける、体を
小さく見せるなど)がつくられました。
司馬さんの言われるように、明治維新はこの国のかたちを180度変えることになりました。過去の文化や伝統歴史ま
でを否定した上での新しい未知の欧米のシステムへの転換でした。そうしなければ、この国は滅亡の危機に面している
とリーダーは考え抜いた末の、決死の決断でした。軍事力と産業を強化することで、欧米の圧力に対抗しようと考え実
行しました。明治の時代は克己の精神が強く、ものの不足を明るく耐える力を持っていました。だが思いもよらなかった
大戦争(日清、日露)に勝利することで自己肥大化しました。産業の構造も農水鉱の第一次から二次、三次産業へと移
り、収穫の喜びを直に味わうのは難しくなっていきました。第二次大戦以降は、ものが豊かになることを唯一の目的に
誰もが思うようになり、やがて節約とか再利用よりは、使い捨て買い替えがあたりまえになりました。またそうすることで
雇用拡大、収入の増加につながり国の繁栄に貢献すると考えられました。マスメディアを利用しての広告宣伝される商
品に目を奪われ、一時の流行に流され、うわべを取り繕う文化に浸り、金が人の上下品格価値まで決めるほどです。
人格の形成に大切とされた精神の鍛錬は、ほとんど価値をおかない風潮が育ちました。
伝統的な価値のあるものとされたものには、縄張りを越えた人間としての暖かい思いやりがありましたが、ほとんど関
心が払われなくなりました。
その顕著な例が、土地を金儲けの対象にしてバブルを招いたことです。
この国は、初めて歴史の中で伝統とは違う、未知の分野に足を入れました。
さて果たして新しい価値観を創造できるか、21世紀が安心しただれにも開かれた社会になるのか、しっかり目をあけ
ていましょう。



 469  モーツアルト親子のイタリアへの旅



モーツアルト(1756〜1791)の短い生涯の1/3は旅に費やされています。

その旅の多くは、若いころに集中しています。特に、13歳から17歳にかけて3回に及ぶ、イタリアへの旅は、モーツア
ルトの音楽を一段と輝かしいレベルへと押し上げました。
父レオポルドはザルツブルグの大司教付きの主席音楽家であり、当時ヨーロッパで使われたバイオリンの指導書まで
書くほどの人でしたが、我が子アマデウスの神が授けたとしか思えない音楽の才能を伸ばし完成させるためには、イタ
リアへの旅が是非とも必要であり、それも'鉄は熱いうちに打て'の譬え通り、13歳の若さで未だ刺激に敏感に反応する
時を選んでのものでした。
各地で、貴族や司教、町の市民や著名な音楽家に会いながら、演奏や創った作品を披露したり,もてなしを受け、歓迎
されました。自身の見聞も大いに広がり、オペラ観賞も出来る限りして、先駆的な存在であったイタリアに学びつつ、音
楽の幅を広げ、深めていきました。
みずみずしい成長期にあるモーツアルトが、父と共にチャレンジしたのです。ドイツ語、フランス語、イタリア語を自由に
操り、社交性に富んだ親子が出世を目指す売り込みの旅でもありました。
小まめに書き送った親子の手紙は、ザルツブルグで留守を守る家族への手紙を通して、旅の楽しさ、苦しさ18世紀後
半のイタリアの姿が見えてきます。



 470  ニサンの14日とは



春分の日から一番近い新月から数えて14日目となる日をいいます。

およそ3500年ほど昔、モーゼに連れられたイスラエルの民はエジプトを出て行きました(出エジプト)。それができたの
は、神(ヤーヴェ)によるエジプト人への10の災いが行われたことによります。10番目の災いでは、イスラエル人の家
の入り口に羊の血を塗る(そうでない家の幼子を殺すという予言)ことで、災いを乗り越えました。この事をユダヤ民族
は、大切な過ぎ越しの祭り(災いが過ぎ越す)として祝い守ってきました。
背景には、アブラハム(4千年ぐらい昔の人)が息子イサクを生贄として神に差し出すようにお告げがあった時、最終的
に羊でよいとされた故事や、神への捧げものを重要視した古の人達の習慣もありました。
アダムとイブが神との約束に背いて以降、もう一度神との復縁を願う(パラダイスに戻りたい)人達は、最後の最も大切
な神への生贄として、神の子イエスを捧げることに後日なります。
ニサンの14日のこの大切な行事は、出エジプトを可能にしたのは、神の指示に従い過ぎ越しの災いを克服したことを
祝うことにあります。この日には、神の神殿のあるダビデ王の築いた都、エルサレムに行き,祝うのが習慣でした。イエ
スはその為、弟子と共にエルサレムに行き、祝いの食事をとりますがその際、パンとワインを使って犠牲となる意味の
重要性を説き、自分亡き後も引き続き行うよう遺言しました。食事の後、ゲッセマネのオリーブの森へと行き,神に祈っ
たあと、捕らえられ拷問の末に、杭に架けられて苦しみながら死にました。この一連の夕食から死ぬまでのドラマは、ニ
サンの14日に起りました。
当時は、一日は日没と共に始まり、次の日の日没までとなっていました。
3日後に墓から蘇ったといわれ、復活祭(イースター)として世では祝われますが、宗派によっては、むしろニサンの14
日の方を、より大切にしているものもあります。
さらに興味深いのは、アブラハムがウルの町を後にして、神の言いつけ通りハランの町へと旅を始めたのが、聖書で
はニサンの14日となっていて、ユダヤ民族の幸せを求めての旅は、ニサンの14日と深いかかわりが最初からあるよ
うです。
  

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