希望




446 世界で2番目に古い町マテーラ



'ナポリを見て死ね'とまで讃えられた美くしい湾を持つ町、ナポリから南東へ300キロ近く行った内陸に、洞窟都市マテ
ーラがあります。


紀元前8千年には、丘と谷底の間の急な斜面沿いに自然の穴あるいは人工の洞窟を掘って、人々は生活していたとい
います。今でも多くの空になった穴を目にします。現地ガイドの話によると,この集落に勝る古いものは聖地エルサレム
だけとのことでした。今のマテーラの町は、この洞窟群を含む旧市街と新しい町を合わせて、地域の行政の中心となり
栄えています。

紀元後11世紀にトルコのアナトリア高原にある地下都市、カッパドキアから数多くのキリスト教信者の移住がありまし
た。政治、経済に絡む内紛から逃れた人達だったようで、このマテーラの洞窟に住んで信仰を続けました。そんな洞窟
教会の一つ、サンタ・ルチア教会(11世紀)の中に入りました。3つの空間からなっていて、修道者6〜7人生活してい
たそうです。壁には、フレスコで神々しい聖母子像や大天使ミカエルなどが描かれています。聖女ルチアは目の不自由
な人達の守護聖人です。よくもこんな遠くまで旅をして故郷カッパドキアに似た地形環境のマテーラを選んで住んだもの
です。この人達のお陰で、洞窟教会が150もあるそうです。谷底を流れる水を使うために、険しい坂の下り登りをして
いました。洞窟の中は温度が一定しているとはいえ、不便であることは間違いなく、空間も決して広いとは云えません。
そんな所で人々は家畜と共に半農半牧生活の中、雨水を一滴も無駄にしないように溝を引いて,各住居の床の下に貯
めていました。
30年前まで使っていたと云う洞窟住居では、18世紀のころの生活風景が再現してあり、はたおり機や大きなタンス
(食料を保管したり、子供の夜の寝床になったりした)、床からかなり高い所に作られた寝台、懐かしい木で出来た洗濯
板などがありました。
衛生面や電気などを考え、一旦は洞窟生活禁止令を出し平地に移住させたこともあるそうですが、今は逆にレトロブー
ムも手伝い衛生、電気ガス水など全て克服した住宅空間として、見直されて住みたがる人達が増えているそうです。



447  ロビーとレストランにホテル経営者の好みが見える



ナポリ中央駅近くのホテルのロビーには、背景が金箔で植物を描いた日本の屏風がおかれていたり、別の壁には、同
じく金色の背景の中に浮かび上がるクリムトの描く女性の絵が掛けてあります。

一方、ロビー奥のレストランの壁には、7〜8枚のムーシャによる淡い色使いの女性のポスター絵が掛かっていました。
クリムトもムーシャも19世紀末から20世紀初頭を代表する新芸術運動の中で活躍しました。日本の平面的な鮮やか
な色使いや、大胆な構成と空白、省略をする屏風絵や浮世絵がヨーロッパで評価を受けました。
クリムトはオーストリアの人で、絵の背景は金で塗り省略してしまい、主人公を豪華な衣装、装身具で飾り、ビザンチン
のイコン絵や幾何学文様のモザイクを思わせるデザインの服など東方のエキゾチックムードを漂わす作品が多くありま
す。
ムーシャは、チェコの人で色使いは控えめで、やはり人物(女性)が中心で当時流行のルースなシルクに身を纏い、背
景には花や草など野原(パラダイス?)に憩う中、上流階級の人達をモデルに描いています。
2人ともエレガントな作品を残していて、第一次世界大戦前の自信に満ちたヨーロッパ上流社会の雰囲気を感じさせる
ものです。



448  ヒラリーさんはニュージーランド人



世界最高峰エベレスト山に初めて登頂に成功したのは、英国人ヒラリー卿とネパールのシェルパ,テムジンさんであ
り、1953年の快挙だと聞いていました。

しかし、ニュージーランドにやってきて、ガイドの口からヒラリーさんはニュージーランド人であり、この国の5ドル札に描
かれていて、ニュージーランドの英雄だと聞かされ驚いた事があります。
英国のエベレスト登頂隊に、ヒラリーさんは氷河を多く持つニュージーランドの登山に長けた人材ということでグループ
入りし、エベレスト初登頂に記録を残せたということになります。



449  モンレアーレの下町風景



遠くスカンジナビア半島あたりからやってきた、キリスト教を信奉する一団がシシリーを制圧、パレルモに都を置き、ノル
マン王国を11世紀につくりました。

それ以前は、東ローマ帝国領として、あるいはイスラム教勢力下に600年あまり入っていました。ノルマン王国は、20
0年に満たない支配でしたが、芸術面ではパレルモ王宮の中に王室礼拝堂やモンレアーレの大聖堂、クロイスター(修
道僧の生活する中庭と持つ空間)に、ビザンチン芸術とイスラム芸術そしてノルマン様式と呼ばれる三者三様の特徴を
生かした装飾デザインを見事に完成し,後世の人達を魅了しています。
パレルモで起った宗教指導者と王家との確執から12世紀になると、パレルモ郊外の丘に遷都しました。今に残るモン
レアーレ(王の山という意味)の町がそれで、パレルモ市内や地中海、そして黄金の谷と呼ばれ柑橘類の果物やその
他の農作物が豊かに実る姿を望む、絶景の地にあります。
結果としては、こんな目と鼻ほどの近い距離に二つもカテドラル(司教の座る椅子、カテドラを有する権威ある教会)が
出来ました。今もモンレアーレの坂の町は,人口2万人近くの人が生活するところです。大聖堂を出て、少し歩くと庶民
の暮らす狭い道になり、古いアパート群が続いています。地上階は店やレストラン、事務所やバーなど市民の公共の空
間として機能していて、2階から上が住宅空間でプライベートに属しています。
昔ながらのパン釜(レンガで囲った空間にパンを入れ、同じ空間に薪を入れて釜全体を暖めてつくる古代ローマ以来の
伝統)で、昼食用のパンを焼いているパン屋があったり、その横の3階の窓から老人が、籠を紐で下ろしていて、聞くと
下にいる若い人に買い物を頼んでいて、籠の中にお金と買ってもらいたい品物のメモが入っているようです。広場を挟
んで向かいには、ふいごを未だ使う鍛冶屋が営業していて、下町情緒が充分に残っています。
パレルモからやってきた中年のシシリー人ガイド女史は,教会と中庭の説明が終わると、バスへの集合時間を告げ、
そくさくと先ほどのパン屋へと行き、昼ごはんを待つ亭主のために購入したようです。
彼女曰く、自分の育った家では、父は食事の支度はせず、ただ新聞を見て食事の出されるのを待っていたが、主人は
テーブルのセッティング(テーブルクロスをかけたり、皿やナイフ、フォークを並べたり)はするが、料理は妻任せ。そし
て若い夫婦は共に料理をつくるようだと。
パレルモ市内にバスで入ると、ガイドは我々と別れいそいそと帰って行きました。私達は午後2時ごろの遅い昼食(これ
が地中海世界では、普通のリズム)をとるため、古代ギリシャ建築の残るアグリジェントへと向かいました。



450  教育ママはシシリーにも



新学期の始まる9月になると、母親は学校へと出かけます。

子供の外国語選択選びに目を光らせるのが、その目的だそうです。英語かフランス語かが選べるそうで、人気は圧倒
的に英語だそうです。もし、息子、娘がフランス語でも選ばされるようであれば、事務局に文句を言って変更してもらい
ます。フランス語を教える先生は、失業しかねない状況のようです。現にこの島では、2割もの人が失業していて、若者
が職を得るには、英語とコンピューターは最低条件の時代だそうです。
パレルモ大学には、6万人を超える学生が学んでいて、首尾よく卒業しても就職先は、ミラノあたりとなり島を離れて行
くことになります。
高校を卒業しても、子供が親と同居して生活するのが今では多く見られ、子供の少子化晩婚化が進んでいます。2年
ほど前に貨幣がリラからユーロに切り替わって,特にインフレが進行していて、オレンジ1キロが1ユーロ(140円)もす
るそうで、半値が正しいはずだと強く教育ママたちは思っている様子です。



451  牛乳考



米国のハリス領事(幕末のころ)が下田に住まいした時、唐人お吉が農家を回って牛の乳を貰い、ハリスに飲ませたそ
うです。


また、和牛をつぶして、その肉を食卓に饗したそうです。大和朝廷の文武天皇(7世紀)だったと思いますが、仏教に帰
依した際、四足動物の肉を食べるのを止めて以来、明治天皇がスキヤキを口にされるまで、一応わが国では四足の
肉は公には食さなかったそうです。
牛乳はどうだったのでしょう。
政府の指導で牛乳の脂肪度を上げるようになり、随分とその為に酪農家は苦労したそうです。しかしその後、逆に低カ
ロリー,低脂肪という時代風潮でまたまた苦労が生まれたそうです。さらに牛乳が無調整か加工したのかなど、つまらな
い規則に縛られているそうです。

おいしい牛乳を飲んでいただきたいと言う生産者の願いや飲みたいという消費者の思いが、,官の指導や介入により
捻じ曲げられているそうです。自然水(ミネラルウオーター)が、牛乳よりも高く売られるのも素直に怒りを覚える酪農家
もいます。現代日本が陥ったジレンマがあるようです。素人が理解できる社会こそ正しいのでしょう。
      





 452  ジュゼッペ・フィオーレ先生の知恵で蘇ったポンペイ





18世紀の半ば、ナポリ王国の支配者チャールズ3世の支援の下、紀元後79年の夏ベスビオ火山の噴火で、灰の下
に埋もれてしまったポンペイの町の発掘が始まりました。

以来、現在では66ヘクタールの都市の約7割が発掘され、重要なものはナポリの国立考古学博物館に収められてい
ます。
19世紀後期の学者ジュゼッペ・フィオーレは、6〜7米も積もった火山灰を取り除く作業の中で、多くの人や犬が毒ガス
で窒息死していることに目をつけ、固まった灰の中に出来た窪みに石膏液を流し込み、固まった後発掘をすると、当時
の有様が分かるのではと考えました。結果は大成功で、腰に鉄のベルトをした(奴隷と考えられる)人物やしゃがみこん
で毒ガスを避けようとする男や妊婦、鎖で繋がれ悶えて死んでいった犬など様々な姿の当時が現れました。3千人の人
が毒ガスのため、逃げ遅れて死んだと考えられています。

先住民族オスク人により町が始まり、紀元前6世紀には、ギリシャ人がやってきて町を大きくします。そして紀元前3世
紀以降は、ローマの港町としてオリーブや羊毛、ワインなどの製造、地中海世界との貿易で栄えました。人口は2万人
を超え、遠く70キロも離れた水源地から水道橋で水を運び、3本の水道管はそれぞれ公共風呂や公共広場の噴水や
水汲み場、そして金持ちの家へと引かれていました。早くも鉛の水道管を使用していて、きっと知らず知らず水銀によ
る中毒死もかなりあったと思われます。

碁盤の目状に出来た各通りには、引き戸を持った商人、職人達の店が並び、店の壁には商売繁盛を願うための神棚
があり、神像が置かれていました。また多くの居酒屋では、蜜入りのワインに加え、ちょっとした食事が出来、奥の方で
は賭博が行われていて、いかさまサイコロなども使われていました。公共浴場も五つ見つかっていて、中には選挙を意
識しての候補者の名前入りの水盤が寄付されたりしていたことも分かっています。
あるいは25軒見つかっているルパナーレ(娼婦の館)では、壁にセックスのポーズがフレスコ画で描かれていて、お気
に入りの姿勢を選べ、言葉すら必要でない絵文字に近い、何処からやってきた人でも一目瞭然の仕掛けを持っていま
した。地中海の海を航行しながら少しでもいい取引を求める商人、貿易商に魅力的な取引、情報、憩いの場を提供で
きるかが港町の生き残りの為の、知恵の出しどころだったことでしょう。
25軒見つかっているパン家では、上質の白いパンは金持ち用に、黒いパンは一般用にと盛んに焼いていました。なん
と公道での馬車の乗り入れは、夕方5時までという規則まであったといいます。フォロ(公共広場)の床は、大理石で覆
われ、広場を囲む長方形の周囲のギャラリー(回廊)は、2階になっていて屋根つきの立派なものでした。その一角に
は、度量衡の基準を示す大理石でできたものが置かれていて、誰でもそこに行けば長さ、重さ、容積、を問わず自分で
確かめる仕組みが出来ていました。
現在の我々の生活と比べて、何も見劣りすることのない、いやむしろリラックスした市民と貿易の為に立ち寄った異邦
人達を巻き込んだ国際都市の感が漂っています。
今は、この遺跡名物の案内人ならぬ野良犬カナリペ(自由犬という意味)が、静かに私たちを見守りながらついてきま
す。
              




453  誰が住んでいたヴィラ?





シシリー島は豊かな土地と水に恵まれていて、何よりも地中海の中心に位置していることから、交通,通商、軍事面での
要として歴史の中で、権力者たちに利用され翻弄されてきました。

古代ギリシャ人の一団が、この島の東海岸にあるナクソスへ紀元前8世紀に初めて入植して以降、後に南西海岸に開
けたアグリジェントの都市国家と東海岸のシラクサやカターニャなどの都市国家を結ぶ内陸の道がつくられました。そし
て、適度な山に囲まれ、地味の豊かで水便の良い景勝の地ピィアツァ・アルメリーナに街道町が出来栄えました。今
も、教会や公園など多くある静かな佇まいの、魅力ある所となっています。
このアルメリーナの町外れにローマ時代(紀元3〜4世紀)につくられた、貴族(皇帝?)の別荘(ヴィラ)、カッサーレが
あります。傾斜した土砂の中から偶然に見つかり発掘され、今ではユネスコの世界遺産になっています。
第一に驚くのは、建築プランの素晴らしさです。公の場と私の空間を分けてあり、パティオや回廊、ゲストルーム、食
堂、風呂、男女別個の便所、寝室、庭園、玄関、水道橋、などがこれほど見事に配された空間は,めったにあるもので
はありません。八角形、馬蹄形など後の東ローマ帝国(サン・ビターレ教会やハギア・ソフィア寺院などに代表される)や
イスラム建築に影響を与えたと思われる節が随所に見てとれます。どれほどの人物が所有していたのか、未だ不明で
す。
第二には、床に残るモザイク文様の素晴らしさです。公私を分ける回廊の床いっぱいを使って描かれた色石によるデ
ザインには目を奪われます。アフリカからアジアからローマへと運ばれてくるもろもろの大小の、地を走るけもの、空を
飛ぶ鳥、水の中に生息する動物たちが生き生きと描かれています。
第三には、自由に遊戯するビキニ姿の女性たちのフレスコ画を見たときには、目を疑うほどにびっくりしました。
その他、子供部屋の床のポニーならぬ鳥の引く子供を乗せた車や主人の寝室の床には、おおらかに男女が愛を楽し
んでいるモザイクがあるなど、贅沢な生活をしたであろう当時を夢想させるに充分なヴィラでした。
              




454  キューイハズバンド




ニュージーランドにしかいない鳥がキューイで、メスが産んだ卵を一生懸命抱いて雛にかえすのがオスのキューイだそ
うです。

さらにその後も、オスはエサを繁く取ってきては雛に与え、育てるといいます。
こういうキューイの特徴を遺伝子として受け継いだのがニュージーランドの男性で、仕事が5時で終わると、あとは家に
直行,家庭サービスに努める子煩悩な人達をさして、キューイハズバンドと云うそうです。多くのキューイハズバンドのご
先祖たちは、英国から移民して来ました。

私がホームステイしたことのあるイングランドの家庭でも、奥さんが異常に強く、夕食後の居間での会話でも、奥さんの
10言に対してご主人は小声で一言か二言返すだけでした。
ただ、早朝2日おきに配られて玄関先に置かれる牛乳だけは、どうも奥さんが足を忍ばせながら階段を降りていき、台
所でミルクをたっぷり入れた熱いコーヒーか紅茶をつくり、2階の寝室で待つご主人に飲ませていたようですから、バラ
ンスはそれなりにとれていたのかも知れません。
過っての英国人は、七つの海を駆け巡って海外で過ごしたのですが、好んで外国に住んだ
理由の中には奥さんの料理が不味かったとか、英国の気候が悪かったからなどの理由によるとも聞いています。ある
いは、紳士は男性だけのクラブをつくり、そこで多くの時間を過ごしたそうです。紳士クラブの中から生まれたもので、
世界へ貢献したものは多々あったようです。 
さてキューイハズバンド達よ!ご先祖様達に申し訳ないとは思わないか?
              





455  弟は兄を意識する





ニュージーランドの南島をバスで走って思うのは、山がなだらかでその麓に羊や牛がのんびりと草を食べているので、
大陸に来ているのかと錯覚するほどです。

この国の移民は、主にイングランドやスコットランドからきたそうです。ドライバーのラッセルさんのお爺さんも、スコット
ランドからやってきた移民です。故郷の風景に似たこの国に、英国人が多く移り住んだ気持ちが分かります。
日本人が移民していった先も,渓谷の水を利用して稲作が出来るカルフォルニアであったように。
さてガイド氏によると、ニュージーランド人はタスマン海を挟んだ対岸のオーストラリア人を意識して生きているといいま
す。一方オーストラリア人の方は、ニュージーランド人を意識していないようです。また、カナダ人は、隣のアメリカを意
識しますが、アメリカ人のカナダ人への関心は高くないといいます。ポルトガルが背後の大国スペインを歴史を通して意
識したように、あるいは朝鮮が中国を感じたように、どうも小国がそばにある大国を敏感に感じ、背伸びを知らず知ら
ずの内にするのかも知れません。
弟が兄を、妹が姉をライバル視するのと同系列に属することなのでしょうか?
  

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