希望




436  公務員のストライキとは



パリの管制塔に勤める人達が、他の公共交通機関(国鉄やバス、地下鉄など)に働く人達と呼応してストライキに入っ
ているという。

マドリッドからパリへ、そして乗り継いで成田へ帰るはずが、1時間半遅れてパリに到着した時には、何故か日本へ向
かう便は定刻に出発していて、半日空港で待つことになりました。軒並み他の便も遅れている様子です。ぼやっとした
情報しか入りません。空港に務める人達も、待っている乗客もいつもと変わらない様子です。航空会社の対応も、わず
かに小額の食事券をくれただけです。日本へ連絡するために、電話やEメールのサービスもしてくれません。日本へ連
絡するために空港内の郵便局にテレホンカードを買いに行きますと、そこは開いていました。よく分からないまま、何と
か日本へは無事帰ってきました。

パリのルーブル美術館が大改装される前のころでした。やはり公務員のストライキがあり、その日、ルーブルに行った
ことがあります。美術館は開いていました。ただ、入場券を売る人も、部屋の監視をする人もいません。誰でも入れ、展
示物が持ち去られても仕方のない状況です。聞くと、国に対する要求ストライキであるので、一番国が困るように野放
図状態に美術館をしてあるのだと云います。びっくりしました。
勿論、その後ストライキ中に二度とルーブル美術館が開いていたことはないと思います。



 437  スペインで生活してみると



一般には、食料の買出しは月曜日に一週間分まとめてするという。

日曜日に残った食料を整理する為もあり、パエーリャ料理が食べられる傾向が生まれたようです。昼食がメインであっ
て、肉などはキロ単位で食べる人たちであり、2〜3時間かけて楽しく頂くそうです。
銀行や公務員は、午後2時で仕事が終わります。
中には、1日5回も食べる人がざらにいるそうです。
女性は15〜23歳頃までが美しく、その後は下り坂となり40歳ともなれば、体重は65キロ、さらに10年ごとに10キロ
づつ増えるように感じると、スペイン人と結婚した日本女性が云っていました。



438  ロンドンっ子は外国を舞台に繰り広げられた悲劇の結末を喜んだ



ウィリアム・シェークスピア(1564〜1616)の書いた本には、英国ではない外国が舞台になっているものが多くありま
す。

例えば、オセロ、ベニスの商人、ロメオとジュリエット、ハムレット、シーザーなど思いつきます。400年もの昔、当時の
英国において外国を題材にした劇が演じられ、人気を博したことに不思議さを感じざるを得ません。あるいはシェークス
ピアは、どのようにして外国の情報を得たのでしょうか?あまりにもスケールが大きく、また登場人物たちのそれぞれの
深層心理をえぐった言葉回しに、今に至るまでインパクトを与え続けています。

彼の生家(シェイクスピア・ナショナル・トラストになっている)の中で,2人の案内人に尋ねて見ました。
父親は町(ストラトホード・アポン・エーボン)では著名人で、商売(手袋などの製作、販売)で成功していて、ウィリアムは
ラテン語を含む教育を教会下の学校で習っていたようです。またこの町は、周辺の農村から持ち込まれる農産物の流
通の中心で栄えていました。18歳で8歳年上のアン・ハーザウェイ(富裕な農家の長女)と結婚します。後日、この結婚
への後悔や息子の早死などが作品の中に、深く投影することになったようです。

20歳過ぎには、単身でロンドンへ出て行きました。舞台役者として,脚本家として、一座を束ねてイギリス中を旅して回
ったようです。夏のオフ・シーズンだけ故郷に帰りました。
作品の中に外国に素材を取ったものがあるのは、友人には実際に外国を旅した人もいましたし、情報は外国通の友人
やその当時は外国の書物、情報が英語で書かれていてシェークスピアの脳を刺激したようです。さらに、これら外国を
題材とした劇は、ことごとく悲劇に終わっています。灰神楽のごとく沸き立つロンドンの町は,世界からの物産が持ち帰ら
れ、国際都市として新興国家の象徴として,自信に満ち溢れていました。舞台で演じられる劇を見て、ロンドンっ子達は
外国と比べ、英国がいかに恵まれて幸せであるか、外国が劣っているかを語る内容に、さぞ満足感を覚えたことでしょ
う。などと答えてくれました。
舞台劇のプロモーターとして大成功し,有名人となり、財産を充分に蓄えました。
彼の生存中からストラトフォードの生家には、ファンが訪れていたようですし17〜20世紀も引き続き著名な人達が来て
います。
それらは、2階の展示棚の中に、そしてガラス窓に落書きとして残されています。



439  イギリスはやめくり



ケルト系原住民の地域に、地中海からローマ人が約2千年前にやってきて、およそ400年支配しました。

その後、ゲルマン民族の大移動の波に乗り、北ドイツあたりのアングロ・サクソン族が村ごと、この島に引っ越してきま
した。
やがて、9世紀〜10世紀頃はスカンジナビア半島のノルウェーや近くのデンマークに住んでいた、バイキング族の侵入
がありました。イングランドの北にあるヨークの街中にも彼らの集落跡が発見されています。荒々しいが北方の素朴
な、団結力のある人々であったようです。レンガや壁の表面を強く引っかいて書いた、バイキング文字も残っています。

有名なウィリアム征服王の英国王朝が始まります。1066年のことでした。バイキングの末裔であり、フランスの北海岸
ノルマンディあたりからやってきたフランス系の人達でした。戦争に明け暮れた歴史でした。王は戦費を捻出する為に,
貴族や僧侶、市民から資金を集めました。そうして生まれたのが、マグナカルタ(大憲章1215年)で、王(失地王ジョ
ン)の首に鈴を付けることに成功しました。資金を提供するかわりに、自分たちの権利を認めさせることに成功しまし
た。当時は、フランスとかイギリスとかといった国のはっきりとした境界はありませんでした。イギリスの王や貴族の中に
はフランスに住んでいて、土地もフランスに広くあり、会話はフランス語で話すといった人たちでした。
ケルト語やラテン語の上にドイツ語系のアングロ・サクソン人が話した言葉をプラスして生まれた古い英語はあったよう
です。フランスやイギリスも参加した十字軍(11世紀末〜13世紀)による聖地(エルサレム)奪還運動もありました。
14世紀から15世紀前半にかけては、イギリスとフランスとの間で百年戦争がありました。有終の美を飾ったのは、オ
ルレアンの少女と呼ばれたジャンヌ・ダルクです。やがて、イギリスでは15世紀も半ばを過ぎることから、ヨーロッパ大
陸とは一線をがした、ブリテン島だけに生活の基盤をつくる動きが、王や貴族を中心に生まれます。そして、羊毛産業
の発展に伴い、商人や職人たちも歩調を合わせました。
エリザベス1世(16世紀後半)女王の父であるヘンリー8世(16世紀前半)の治世下、宗教的にもローマ・カトリック教
の支配を脱して、独自の英国国教会(アングリカン・チャーチ)をつくりました。時は、地球全体が海によって一つになっ
た大航海時代でした。ポルトガルやスペインがいち早くアメリカ新大陸やアフリカ、インド、アジアへと進出しました。日
本もその流れの中にあり、戦国時代に終わりを告げ、安土・桃山、江戸時代へと移っていきました。

英国の第一期黄金時代は、エリザベス1世女王時代に始まりました。中南米から珍しい物産を積んで帰るスペインの
船を襲ったり、中南米のスペインの港や町を荒らしました。王家は、海賊、略奪行為を止めさせることはせず、むしろ勇
敢に手柄を立てた船長を貴族に列するほどでした。テームズ川を上りロンドン港へ船荷が海外から持ち帰られ、商人、
職人、市民も豊かになり、文学や舞台劇などシェークスピアに代表される英語文学が花開きました。1588年には、ス
ペインのアルマダ無敵艦隊を破り、海の制海権が英国を中心にオランダ、フランスに移行しました。
17世紀に入ると、王と貴族、・市民の関係がぎくしゃくするようになり、清教徒革命が起りチャールズ1世王の首が飛ん
でしまいます。クロムウェルによるプロテスタンティズムを強行に英国全土に押しつけた結果、アイルランド問題の火種
をつくることになりました。
結局は、王政が再度行われることなり、オランダやドイツの血が多く入った王様が、君臨しました。1720年ごろから2
0年あまり、首相の座にあったのがウォルポールという地方出身の下級貴族で、決して洗練された上品な英語を話せ
る人ではありませんでした。
この人のお陰で、それまでは血の抗争でしか政権の交代が出来なかったイギリスに,初めて平和に穏やかにバトンタッ
チが出来るようになり、寛容精神が根付きました。一方、ヨーロッパでは戦争が続いていました。対岸の火事は見てい
て楽しく、なおかつ建築資材や物資、食料を提供するだけで済み、これほどお金の儲かることはないといいますが、大
陸での戦争はイギリスを気がついてみれば、大変に豊かな安定した国へと変えることになりました。そして、ウォルポー
ルの治世中は、一度も海外での戦争に巻き込まれることもありませんでした。

英語に対する自信もこの時代になって生まれたといえます。さて、18世紀の後半になると,石炭(コークス)と鉄鉱石を
結びつけることで技術力の向上も加わり、いち早くこの国に産業革命、工業革命、大工場制(マニファクチャー)が始ま
りました。農村生活者の多くが,都市や工場の近くへと移り住み、新しい生活のリズムができます。こうして、大量に生
産された工場製品は、英国の支配する植民地に売られました。17・18世紀頃はフランスやオランダなどと海外で競っ
ていましたが、やがて英国は海軍力の充実、人材の育成、植民地経営のシステム化に成功し、世界の富の1/4〜1/
3を独占するほどになりました。

ビクトリア女王(1838〜1901年まで在位)期に代表される時代は、第2期黄金時代とよばれました。そうした中で、新
大陸のアメリカ合衆国が18世紀の後半(1776)に独立していきました。やがて第1次世界大戦(1914〜1918)が終
わってみれば,ヨチヨチ歩きから始めた赤ちゃんアメリカは立派な大人となり、英国は老人になっていました。しかし、
知恵ある賢明な老人として第2次世界大戦(1939〜1945)でも戦勝国となりました。
さて現在の英国は、かっての植民地からの有色人種を含む人口6千万人ほどの、ヨーロッパではドイツ、フランスと肩
を並べる国ですが、19世紀ほどの勢いはありません。
外交や軍事、基礎研究の分野では大きな力を持っていて、世界に影響を与え続けています。なによりも時間をかけて
身につけた英国の流儀(ジェントルマンシップや中庸,寛容な政治感覚、世界の遺跡、遺産の発見や保存整理、落ち着
いた生活態度など)は、私たち日本人が大いに参考にして、生かせる面を多々指し示してくれます。



440  シェークスピアの顔とエリザベス1世女王の顔が同じ



レオナルド・ダ・ヴィンチの描いたモナリザをレーザーで調べた所、レオナルドの顔のそっくりであったことが話題になり
ました。

それと同じ手法で、現在に残る最も古い肖像画と信じられているシェークスピアを調べてみた所、なんとエリザベス1世
女王の顔と同じだったそうです。
そこから浮かんでくる推理は、シェークスピアなる人物は複数の劇作家により書かれた作品を、一人で書いた作として
便宜上、シェークスピアの名を使った可能性が考えられるそうです。さて、どうでしょうか?



441  ウィンザー城のそばにあるイートン校



ロンドンの西の郊外にウィンザー城があります。

生きた城(人が実際に住んで生活している)としては、世界一の大きさだそうで丘の上に建つ、壮大な石造りの建物で
す。そばにはテームズ川が流れていて、ボートを漕ぐ人や観光船、白鳥やアヒルなどものんびりと行き交っています。ウ
ィンザー城の対岸には、イートンの町があります。有名なパブリック・スクールでお馴染みの町で、アンティークを売る店
が軒を並べ、学校所属の教会や学生たちの寮の建物が美しいところです。
このイートン校は、15世紀の王、ヘンリー6世によりつくられました。貴族出身以外から、70人ほどの学問を志す恵ま
れない優秀な若者を見出し、貴族階級の若者と一緒にこれら平民階級の者が教育を受ける制度でした。為政者として
は傑出した王ではなかったようですが、"学問は剣に勝る"という信念を貫いた人です。それ以前は、貴族の子弟は個
人的に家庭教師を雇い、家で教育を受けました。初めて教育を公の場で集団で行うことから、パブリック・スクールと呼
ばれるようになりました。

現在では、1年の学費が300万円ぐらいかかる名門校(中,高一貫私立学校)で、歴代の英国首相を17名も輩出して
います。服装も黒色の燕尾服に白いネクタイをつけ、道などを歩いているのを時には目にします。そんな折、観光客が
カメラを向けると、嫌な顔一つせず応じてくれます。昔どおり、70人の平民の子弟は今でも無料で受け入れているそう
です。
ウィンザーの町に戻り、5キロも続く道は緑の芝が美しく茶色に塗られていて、女王陛下が馬車や馬に乗って公式の行
事の際使われる、真に見事な並木が連なり遠くの丘へと続くロイヤル・ウオークといいます。
大英帝国をつくった大きな柱には、一に人格教育によってつくられた人材にあります。二には現在に至るまでカントリー
(田舎)が、生活の中心に据えられていることにあります。緑や丘、自然を大切にする人達でありロンドンの街中です
ら、カントリーの雰囲気を失なはないように配慮しています。三つには古くて価値のあるものを大切にする文化をつくっ
たことにあります。古い建造物の保存に気を配り、伝統を重んじる英国は自然やカントリーの延長線上に人間教育を
捉えているようです。自分で考え、行動出来、意見交換を行える人材を育成する伝統ある先見性は、日本も学ぶべき
点が多々あるようです。



442  木の皿の表裏を使って食事



柿右衛門の焼き物も14代目になると云います。

柿の色の赤とくすんだ白色の取り合わせで、続いている伝統の有田焼きです。土を捏ねて焼いてつくる器は、大昔から
ありました。何故かヨーロッパ人は18世紀頃から、中国や朝鮮、日本の焼き物に執着を見せ始めます。王侯貴族やブ
ルジョアの家の中に、そして博物館の中に東洋の焼き物がずらりと置かれているのを目にします。現在に伝わるヨーロ
ッパの名門陶磁器工房は、東洋の真似をしながらつくる中で生まれました。

アン・ハザウェイ(シェークスピアの奥さん)の家に行くと、16〜17世紀の台所、食堂がそのまま見ることが出来ます。
当時の中流クラスの農家です。木の皿で食事をしていました。皿の表を使いメイン料理を食べます。ナイフと手を使い
ました。スプーンやフォークは未だありません。そして、皿の裏側を使ってチーズやデザートを頂きました。
日本でも良質の陶磁器が江戸時代から輸出用としてつくられ、一般は未だ木の皿を使っていたようです。
雨の多く降らないヨーロッパ(日本の降雨量の1/3〜1/2ほど)では、高温でしか良質の焼き物はつくれないこともあ
り、燃料の薪を大量に消費することも手伝って、東洋の陶磁器に憧れたのも一因かも知れません。さらに土の選定に
苦労もしたようです。経済的に豊かになり、ゆとりと自信が生まれ初めて、神秘の東洋の器に興味が沸き、ヨーロッパ
の地において製作するチャレンジ精神が出たようでう。



443  切手、コインに国の違いを見る



日本の国土の7割以上は山林であり、その多くははっきり測量された歴史はないようです。

明治維新の際、藩領であった山林の多くを明治政府のものとしました。岩倉具視の意向によるようです。16世紀末に
行われた太閤秀吉による検地でも、山林には手をつけませんでした。日本の地名や苗字の多くが,田や谷、そしてサ
ンズイ偏のついていることを思えば、いかに日本人がごく僅かな田地にしがみついて稲を育ててきたか、想像出来ま
す。
アメリカの未来学者アルビン・トフラー氏の天皇家が日本の歴史を通しての最高権力者であったとする意見を持ち出す
までもなく、天候の良し悪しに左右される稲作は天の恵みに寄りますので、天の神々とつながる天皇家に対する尊敬
は、この国独特の文化を育てました。

大英博物館の切手蒐集コーナーへ行くと、英国の王室そして国王の肖像画の描かれた切手を多く見ます。日本では天
皇の切手を見ることはありません。舌でなめて切手を葉書や封筒に貼ることは、天皇、ひいては天皇家、日本を冒とく
しかねない感情が何処かにあるようです。コインなども天皇は使われていません。ヨーロッパで未だ王政がある国では
勿論のこと、他の国々では、最高権力者(独裁者など特に)の切手やお札やコイン、あるいは写真など洪水の如く見か
けます。力を知らしめる上からも歴史を通して共通して世界各地で行われました。



444  東ローマ帝国とビザンチン帝国とは同じか?



紀元後4世紀の始め、ローマ皇帝コンスタンチヌスは広大な帝国を二つに分けて統治することで、政治、軍事、経済面
での安定を計りました。

帝国内の弱体化、外部からの異民族の侵入の脅威が起っていました。476年には、西ローマ帝国が現実に崩壊する
という現象が起りました。一方東ローマ帝国では、ユスチニアヌス帝(5世紀末から6世紀前半)などの善政により、崩
壊した先の西ローマ帝国の領土の何割(地中海やバルカン半島など)かを取り戻すほどになりますが、7世紀にイスラ
ム教が生まれ、急速に地中海世界や中近東方面に勢力を拡大しました。やがて、地中海はイスラム世界へと変わり、
東ローマ帝国の本拠地の中近東、東ヨーロッパ、バルカン方面も少しづつ退却を余儀なくされます。イスラム勢力が拡
大(7世紀以降)するにつれ、逆に東ローマ帝国は東方独特の風土が育てた専制政治、宗教、経済文化を取り入れ、
かってのローマ帝国とは異なった体制を築きました。この新しくつくり出された体制を、ビザンチン帝国と呼ぶのが正し
いようです。7世紀を境に前を東ローマ、後をビザンチンと分けるのがいいようです。
ビザンチンとは、東のローマ帝国の都としてコンスタンチヌス帝がコンスタンチノープル(コンスタンチヌス帝の都)と銘
銘する以前に、この地のことをビザンツと呼んでいたことによります。ビザンツの要衝の地を見つけたのは、ギリシャか
らやってきた人たちでした。



445  西ヨーロッパ中世史はローマ法王と神聖ローマ帝国皇帝の綱の引っ張
り合い



ローマ法王は、イエス・キリストの弟子でイエス亡き後、やがてやってくる最後の審判の日まで、この地上を収めること
を託された使徒ペテロを初代として、現在に至るまで面々と続くローマ・カトリック教の頂点に立つ人です。

ローマ・カトリック教は信者の精神面での寄りどころとして果たしてきた役割は、偉大なものがあります。また、経済・文
化活動(農事から読み書きに至る多岐の分野)面で社会を引っ張った功績も評価されます。西ローマ世界が西ローマ
帝国滅亡の後、不安定化しましたが、カトリック僧侶たちは地中海世界の先進文化や神の教えを、アルプスの北のゲ
ルマン民族を中心にしたプリミティブな人達に広めました。修道院制度などが発達し、土地に根ざした活動を行い、教
会領が広がり西ヨーロッパ世界に在野の権力者の一つとしても機能しました。

フランク族(ゲルマン民族の一派)の王としてカトリック教の一信者として、聖地ローマへ詣でたシャルルマーニュ王(ドイ
ツ語ではカール大帝)の頭に王冠が、ローマ法王により冠せられました。紀元後丁度800年のことでした。この出来事
を期にして以後およそ千年間、西ヨーロッパ世界は在野の最高権力者として、ローマ法王(神の代理人)に認知された
神聖ローマ皇帝と、ヨーロッパに広大な教皇領を持つローマ法王の勢力図が生まれました。ローマ法王は宗教面だけ
のシンボルとしてだけでなく、この世の実力者として歩みだしました。さらに両者(神聖ローマ皇帝とローマ法王)の関係
を複雑にしたのは、司教任命権が土地の支配者にあるのか法王にあるのかという問題や、教会領からあがる収入は
いづれに帰属するのか、貴族の次男や三男が高職聖職者になったことで身内びいき政治が横行したことや、神聖ロー
マ帝国(ドイツ語を話すゲルマン民族の流れをくむ地域)皇帝が選挙により選ばれたことによります。概して、4人の在
野の王と3人の聖職者が選ぶ権利を持ちました。
ナポレオンの登場により、神聖ローマ帝国皇帝フランツ1世(ハプスブルグ家当主)は神聖ローマ帝国を廃しました。き
っと裏には地中海出身(ラテン民族の血が濃い)の下級貴族であるナポレオンには栄えある神聖ローマ皇帝の名を与
えたくない思いがあったのではないでしょうか?
ヨーロッパ中世史は、この2人の権力者(ローマ法王と神聖ローマ皇帝)の意地の張り合いの面から見るのも楽しいも
のです。
  

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