希望




426  知ってさえいれば,おばさんを助けられたのに



インドは多民族国家です。

男性が頭にターバンを巻き顔には髭をたっぷり蓄え、女性はパンジャビドレスに身を包む人達が、シーク教徒です。大
変な働き者で真面目な人達ということで、他のインド人から一目置かれ、信用の高い民族と言われています。またこの
民族(同じ宗教を奉じる集団でもある)には、乞食が一人もいないとも言われます。
シーク教徒を冷やかして次のようなジョークが他のインド人の間で囁かれていると、シーク教徒のガイドから教えられた
ことがあります。

シーク教の若者が、親の勧める娘を娶りました。1ヵ月後、亭主の留守中に新妻の女友達が集まって、新婚生活をひ
やかす会を持ちました。すると新妻は、亭主は自分に指1本触れず,ただ遠くから眺めてため息をついているだけとの
話です。やはり真面目一方のたぐいかということが分かり、みんなで作戦を練りました。
次の日の夕方、仕事を終えてルンルン気分で帰宅しますと、新妻が部屋で倒れて死んでいます。我を忘れて駆け寄り
抱き起こし、揺すったりしましたが反応もなく,泣きながら抱きしめていました。本当は死んだ振りをしているだけですか
ら、体温があり暖かく柔らかく、つきたてのモチのような、ましゅまろのような若い女性の体です。若者は、泣きながらも
初めて触れた、女性の柔らかさに少々感動もしていました。
その時、新妻は目をパッチリ開け,次のように云いました。
'あなたが強く抱いて下さったので、一旦は死んだ体ですが再び生き返ることが出来ました。有難うどざいます。'それを
聞いた亭主は、さめざめと泣き出しました。奇異に感じた妻は、私が生き返ったのがそんなに悲しいことでしょうか?と
訊ねます。
すると答えは、女性を抱いてあげれば生き返るのを知っていたなら,亡くなったおばさんを助けることが出来たのに、そ
れが残念で泣いていると言ったそうです。
こんな真面目な青年が、本当にいるのでしょうか?



427  ケロアンのメディナでの2大名物とラクダさん



チュニジアのケロアンのオアシス町は、地中海と内陸の山から程よい距離離れていて、治安上最適という理由で、7世
紀の末にアラブ人により建設されました。

地中海には海賊が、そして山間にはベルベル族が勢力を持っている時代でした。やがて、この町はイスラム教徒にとり
大切な場所として発展し、人工の大きなダムなどもつくられました。今では、サウジアラビアのメッカやメディナ、イスラエ
ルのエルサレムに次ぐ聖地になっています。

ケロアンのメディナ(旧市街)は、他の町のメディナ同様周りは高い塀で囲まれています。中に入ると、スークが立ち並び
活気があります。
マックホースという名のナツメの実を使って作るお菓子があります。1キロが1米ドルと安く、味見をした後で買います。
蜂が集るぐらいですから、甘くて美味しいものです。もう一つの名物は、絨毯です。アフリカ世界で一番有名だそうで、
昔から今に至るまで、この町の娘たちは嫁入りの際には、自分で織ったカーペットを持参するそうですし、最初に織った
絨毯は、モスクに献納するそうで、実際モスクを覗いた時に見えたお祈り用の絨毯は、立派なものばかりでした。
教祖マホメットは、お祈りには敷物が必要だと語ったそうですし、魔法の絨毯に乗ってパラダイスへと昇っていくのだそ
うです。確かにカーペット商を数多く見かけました。
道路の真ん中で、香辛料の商いをしている露天商が目にとまりました。量り売りですが、英語の堪能な若者は、黒コシ
ョウの豆をおまけしてくれ500グラムに、かなりの量のプラス・アルファをして350円ぐらいにして買わせました。油で炒
めたものを多く食べる人達ですので、血液をきれいにする効果とコレステロールが下がるのを両方兼ね備えたのが、
自然のガム(ゴムの木の樹液)だそうです。勝手に手にとって一つ二つガムの塊を口に入れても、この若者は文句をい
いません。ガイド氏は、噛みながら粘り気を少しずつ増していく過程を我々に見せてくれました。
バロッタの水(聖なる水という)を飲むと、願い事が叶うと云われ、道路から建物の中の階段を上った2階の部屋の中に
ありました。なんとそこにはラクダ(オス)がいて、井戸の周りを回り水をくみ上げてくれます。願い事が叶った人達(?)
から送られたスカーフがたくさん掛かっています。このラクダ君は、毎日階段を上り下りしてこの2階の仕事部屋へと働
きに来るのだそうです。広くない出入り口、高くない階段の天井を見るにつけ、巨体のラクダは決して楽だ(駱駝)と思っ
ていないでしょう。



428  玉子焼きの効用



玉ねぎやジャガイモ、そして卵を入れてゆっくりと焼き上げたのが、トルティーリャといいスペインの名物料理です。
スペインでバーやメソン(バーとレストランを兼ねたもの)に行くと、バーカウンターの上にお惣菜が何種類か置かれてい
る中に、必ずといっていいほどあるのが、このトルティーリャです。

フランスでは、モン・サン・ミシェルのポラールおばさんが始めた玉子焼きが有名です。
潮の満ち干きの激しい海の中に、円錐形の形をした岩山がありました。その岩山の頂上に大天使ミシェル(異教の
神々や悪魔、病気と闘う勇ましい天使であり、最後の審判の日にも立ち会うはずの信者にとっては怖い存在)の教会
が建てられ、巡礼の聖地になりました。
病気、追いはぎ、栄養失調などと闘いながら、命がけで旅をしてきて最後の最後に、流砂や水の速い流れに足をとら
れ、亡くなる人も多かったそうです。無事島に到着して、暖かくこんわりと膨らまして焼き上げた玉子焼きは、栄養も満
点それ以上に久しぶりに口にする暖かい食事に巡礼者は、やっと人心地ついたことでしょう。

私も小さかった頃、病気になると母が卵を焼いてくれて、ご飯と一緒に頂いたのを思い出します。玉子焼きを食べられ
るのが嬉しくて、病気もまた楽しいものでした。



 429  気の弱いスペイン人と気の強い日本人が同じ



スペインでは公務員は、朝9時から昼過ぎ2時までが労働時間だそうです。

面白いのは朝食は、出勤して9時以降とるのだそうです。2時になると家に帰り、昼食をとりそのまま終わりとなります。
中には、別の仕事に出かける人もあります。仕事の掛け持ちは認められています。公務員の給料は、まあまあ悪くは
ないそうです。このような恵まれた職場に入るためには、実力と捏ねと運で掴むのだといいます。
一般に、スペイン人は自己主張が強く、プライドが高く,相手の話をあまり聞かないタイプが多いそうです。その為、中に
は傷つく人も出るようで、気の弱い人は引きこもり現象を生じ、無断で会社を休む人もいます。
スペインのお隣ポルトガル人の陽気さをスペイン人に言うと、'ポルトガル人は憂いに沈んだ悲しい人達だ'との返事が
返ってきて、冷たいつれない評価でした。

セビリアに住む日本人によると、気の弱いスペイン人と気の強い日本人がほぼ同じぐらいではなかろうかとの事でし
た。



430  建築許可なしに部屋はいくらでも増やせる世界



チュニジアの山間部で生活する先住民族にベルベルの人達がいます。

文字を持つ歴史時代としても、2800年あまりの長い歩みを経たチュニジアの国ですが、それ以前からこの地に住んで
いたのが、ベルベルの人達です。歴史時代は、東方からやってきたフェニキア人に始まり、ローマ人、ヴァンダル人(ゲ
ルマン民族の一派)、東ローマ帝国の支配を経てアラブ・イスラム時代、さらにオスマン・トルコの支配、フランス植民地
時代の後、やっとここ50年共和国の歴史を体験しています。
さて、ベルベル人から見たチュニジアの歴史は、どのように映るのでしょうか?

穴倉の中で生活するベルベルの人達を、マトマタの集落に訪ねました。
スピルバーグ監督の'スターウオーズ'1作目の中で使われたという場所です。今はホテルになっています。なだらかな丘
の上に大きな穴(直径10米ぐらい)がいくつもあり、穴の中には数個の部屋があります。また穴と穴をつなぐトンネルが
掘られています。穴が日の光を唯一取り入れる所のようですし、生活の中心で広場の役目も果たしていたのでしょう。

次に行ったのは、今も生活しているベルベルの家族の家でした..砂岩の岩山にトンネルを掘り、その先には青空が見
える中庭があり、中庭の周りに穴倉住居がいくつもありました。台所専用の穴倉、寝室の穴倉、農作業器具の入れて
ある穴倉などありました。縄梯子を使ってしか入れない2階の穴倉は穀物の貯蔵用として使っています。ネズミもここま
では入れません。
奥さんが、小麦の種を石臼に入れ回して粉にし、水でこねてパン生地をつくり、薄い鉄板の上に載せて、中近東独特の
丸いふっくらとしたパンを焼き揚げました。オリーブ油に浸して食べる焼き立てのパンの香ばしく美味しかったこと。
現金収入の少ない農家の人達です。志を渡して手を振りながら出口へと向かいました。
穴倉住居の正面入り口に立ち中庭を見ようとすると、トンネルが曲がっていて外から見えないようになっています。しっ
かりセコムしてあることが分かります。入り口の壁の上には、ファティマの手(イスラム教徒にとり祝福と保護を意味す
る)が描かれ、その上には大きな魚の尻尾が載せられ、ファティマの手の両側には魚の絵が末広がりに下向きに描か
れていました。ガイドの説明によると、魚は豊かさと安心を意味していて、またファティマの手や魚を描くのに使っている
青色は、ユダヤ教徒の大事にしている色であり、その影響があるといいます。
内陸の穴倉に隠れるようにして生きるベルベルの人達ですが、穴倉住居の後ろ(坂を少し登った所)には、隠すように
ヤギや羊が数頭飼われているのを見るにつけ、生きることの非常さを見たような気がしました。



 431  カッセムとカレード



カッセム氏はドライバーで、カレード氏はガイドです。

おらきなさい(おかえりなさい)としきりに、下車しての観光からバスに戻ると云ってくれた、40代半ばに見えた敬虔なイ
スラム教徒だったのがカッセム氏でした。
権力者が前の権力者の使用した、大切なものを利用しリサイクルして生きてきたのが歴史であり、ローマ時代の神殿
の石や柱が、イスラムの砦やモスクに使われていることを教えてくれたり、自分の祖先はきっとローマからやってきたと
思う。従い、ローマの神々を祈ったり、その後キリスト教徒になったりしながら,今はイスラム教徒になったのだと明快に
言い切ったのが30代半ばのカレード氏でした。
二人に共通していたのが、チュニジア大好き人間だったということでしょう。
バスは、かなりガタのきたもので、扉が良く閉まらなかったり、バッテリーの接触が不良だったりしましたが、持ち前の明
るさで我々を笑いで、煙に巻いてくれました。
ある時などは、前を走るトウガラシ(パプリカ)を満載したトラックが、落としたパプリカの入った大きな袋と縄で編んだ大
きな籠を、バスを停めて拾ってやり、バスに乗せて走り、追いついてトラックの運転手に渡してやったりしました。
人のいい最高の二人でした。



 432  シェフィールドでのドッグレースの思い出



7つの丘と5つの川のある町が、刃物で有名なイングランドのシェフィールドです。

教育(大学を中心に)とスポーツ施設、病院に娯楽施設や鉄を使った歴史ある産業(刃物はその代表)などあり、人口
はイングランドで5番目だそうです。
パブに入ると、天井や壁に4人漕ぎのカヌーやスキー道具が飾ってあり、古い写真が掛かっています。歴史を大切にす
るプライドの高い英国人の,骨頂を見せています。パブは昔は、2つの部分に仕切られていたそうです。一つをラウンジ
といい,他方はタップルームと呼びました。ラウンジの方はソファーがおいてあり,上流階級用で床にも上等な敷物が敷
いてありました。

どちらかと言えば、ホースレースが上流階級のイメージだとすれば、ドッグレースは一般庶民に好まれているようです。
ハウンド犬の走るドッグレース場の前は、広い駐車場になっています。そばに大きなカジノがあり、名前はボナパルテス
となっていて、フランスの英雄ナポレオンの家名がついていました。やはりカジノは即決性の高いギャンブルなので、英
国の宿敵の名前を借りることで、経営者は良心の呵責を転化しようとしたのか、ユーモアからなのかと思いレース場に
入る前から楽しくなりました。
週に3回(火、金、土)行われますが、火曜日は入場無料、さらにバーで無料のビールかワインがもらえるサービスデー
になっています。その幸運の日に当たっていました。
1レースでは6頭が走ります。1夜に12レース行われます。もらったパンフレットには、それぞれレースごとに犬の経歴
(これまでの戦いぶり)が書かれていて、最後のページには7〜8通りの犬券(?)の買い方が丁寧に記されています。
乗馬姿の足のすらーとした美人に先導されて,6頭の犬が犬場(馬なら馬場となる)に現れ観客にお披露目され,検分さ
れたのち500米か290米の距離を、デコイの兎を追いかけて走ります。
一方、レース場に面した建物には、英国らしくパブがあり飲みながら、ワイワイガヤガヤ賑わっています。犬券売り場は
建物の中にも外にもあり、たいていの人は1〜数ポンドのささやかな買い方をしています。別棟の建物では、食事も出
来るようになっていました。
レースの実況は、室内や立見席に取り付けられたテレビの画面に,大写しにされます。犬が走っていない時には、次の
レースの賭け率が出ていました。立見席は吹きさらし(3月ですから少々寒い)ですが、プロの予想やのブースがいくつ
かあり、女性の予想やもいました。家族連れの人達も多く見かけました。案内してくれた英国人女子大生は、心理学を
専攻しているというので、私はハウンド犬(スマートで足が細長く全体に痩せている)は何を考えて走っているのか、冗
談に訊ねた所,"先行する兎を食べたいと思い走っているのです"という答えでした。なるほど??。
別の機会に飛行機の中で、英国出身で今はアメリカのボストンに住む、中年の建築家と話をしました。大学で学生たち
に建築学を教える際、ハウンド犬のレースを例にとり次のように釘を刺すのだそうです。
犬の中には頭のいい奴がいて、デコイの兎がぐるぐる回っているのを知り、追いかけることをしないで、じっとしていて
目の前に来たときに飛びかかるのがいる。そうなるとドッグレースは成立しない。君たちも建築学を学ぶに際して、結論
を先取りしてプロセス(学ぶ課程)を省略することのないようにと。



433  ベテランの女性客達と新進の女性添乗員のアフリカ奥地へのチャレン




日本からヨーロッパへと向かう飛行機の中で、アフリカのトンブクトゥ遺跡を訪れる10名前後の中高年の女性の群れ
がありました。

添乗員は20代半ばに見える女性です。一方、参加者の方はいづれの女性も50〜60回は海外旅行を経験されたベ
テランの域に入るかと思われる方々で,機内でも賑やかでした。
若い添乗員とベテラン女性客の向かうサハラ砂漠の南にある、かってのマリ王国の黄金の都と讃えられたトンブクトゥ
は今はどのようになっているのでしょうか?
パリのルーブル美術館やロンドンの大英博物館に行けば、出土品はあります。しかし古のサハラ砂漠を通って運ばれ
た物産の交易の中心地を実体験するチャレンジ精神に心から声援を送ります。

エベレスト山の初登頂に挑戦したヒラリー(ニュージランド生まれの登山家)とテムジン(山岳民族シェルパの道案内人)
の二人は、共に協力して一緒に登りました。互いの勇気と幸運を讃え合いました。

アフリカの奥地にキリスト教と西欧文明を広めようと、19世紀に挑戦したのが医者でもあったリビングストーンです。彼
の生死が危ぶまれる中、生存を信じ奥地へと分け入り、彼に会い生存を世界に知らせたのが、ジャーナリストのスタン
レーです。やがてリビングストーンは疲れた体にムチ打ちながら、ナイル河の源流を求めてさらに奥地へチャレンジしま
した。



434  風呂大好き人間両横綱



バルセロナのガイドが旧,新市街のアパートの各階にバルコニーがあるのは、夜便器(オマル)にした汚物を朝、階下の
道へ捨てるためだといいます。

上から降ってくる汚物を避けるための、専門の傘差し商売もあったといいます。
パリの僅かに残る旧市街マレー地区は,今も中世の面影を残す一角です。やはり当時は、オマルでした汚物を階上の
窓やバルコニーから'ごめんあそばせ'と言って狭い路上へ向けて投げ捨てたといいます。朝帰りする貴族の中には、汚
物の洗礼を浴びた者もあったそうです。
風呂に入ることを今でもヨーロッパ人は、あまりせずシャワーで済ませる場合が多く、ホテルの部屋にビデ(お尻洗浄
器)がついているのは、風呂嫌いとオマル時代の名残ではないかと思われます。香水が好まれる所以でしょう。
それにしても古代ローマ人があれほど好きだった風呂を、何故中世以降のヨーロッパ人は嫌いになったのでしょうか?
今では、風呂好き人間はイスラム世界の人と日本人をもって両横綱とでも呼べるのではないでしょうか。



 435  女性の社会進出が難しかった時代



'嵐が丘'や'ジェイン・エアー'などの小説を書いた、19世紀初頭の女性小説家一家ブロンテ姉妹の家のある北イングラ
ンドのハワーズの町を訪ねました。

ワース川のほとり、羊毛産業で栄え鉄道も19世紀半ばには開通していた所です。この集落の中に立派な教会と墓地、
そして牧師館があります。ここでブロンテ姉妹のお父さんが長年牧師を務めました。スタンダールの小説'赤と黒'同様、
当時出世する手段の一つは、黒すなわち僧服の黒、僧侶になれば生活が安定し世間から尊敬を得ることができまし
た。
貧しい生い立ちの父は、勉学によって身を立てやがて大学へと進み、聖職者(英国国教会)になりました。ブロンテ姉
妹のお母さんは、事業で成功した上流階級の家柄の出のようです。牧師館の建物は立派なもので、中に置かれている
家具調度品も洗練された中流階級の品揃えです。羊毛産業の発達により、ワース川に沿ってある村々が段々と豊かに
なり工場が建ちだす中で、ブロンテ姉妹は成長しました。

起伏に富んだ丘、強く吹きつける風、屋根瓦や石壁など建築材料として欠くことのできないブリットと呼ばれる石が産出
する風景の中で考え、文章を書いていきました。女性名では、小説は発表できる時代環境ではなく、男性名で作品を出
したこともありました。
人の心の恐ろしさ、怖さを女性が表現して見せた大胆さに、今に至るまで読者(ファン)がひきつけられるようです。
  

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