希望




416  女性の自立



1970年代の半ば、南インドのマドラスの町を案内してくれたインド人女性が、次のように言いました。

結婚して子供を育て、幸せな家庭を築けました。しかし、何か物足りなくて社会の役に立ちたい、外国から来られる
方々を案内する仕事をしたいと思い、ガイドになる勉強をしました。主人の了解は得られましたが、周りの人達、親戚
の人達があげて猛反対だったそうです。
外人は、インド女性を騙して何処かに連れ去るとか、セックスの対象としてしか見ていないとか、色々聞かされたそうで
す。しかし、彼女の決心は固くガイドとなり、外国からの旅行者と接してみると、とても楽しく刺激になりこれまで知らなか
った世界を知るようになりました。インド女性の場合、家から外に出て自立して生きるのは、なかなか難しい環境ですが
自分がいい例なので、これからはもっと積極的にインド女性は生きるのがいいと思う。と語っていました。

日本女性も外国に住んで自力で生きている人は、個性的であり話していても楽しいし、自分の言葉、体験を持っている
のが良く分かります。'世の中には自分に似た人が、3人はいるものだ'といいますが、自分は自分1人しか知ることは出
来ません。自分を知るためにも、自分以外の人と交流して刺激し合いながら、探求していく気持ちが大切のようです。



417  2年も妊娠しているラクダ



リザー・ルージュ(赤いトカゲ)列車に乗る為に、メトラウイ駅へと四輪駆動車を走らせていますと、草がまばらに生えて
いる大地をラクダの群れが,悠々と移動していました。

車を停めてしばらく見とれていました。説明によると、全てメスのラクダだそうで放牧していて、草を求めて動いているの
だそうです。栄養分の高いミルクが採れます。
オスのラクダは?と聞くと、観光客用の乗り物として使われているそうです。では前日、砂漠の入り口の町、トゥーズで
乗ったラクダ達は皆オスだったのかと問うと、そうだという返事です。ラクダ世界も夫婦別々にされ、働かされているの
を見ると、かっての中国の旅行会社勤務の全線随行員が、1年に1度か2度しか奥さんに会えないと平気で言っていた
のを思い出しました。

赤いトカゲと呼ばれる観光列車は、元々は1940年にフランス政府がベイ(チュニジアでのオスマン・トルコの総督)に
プレゼントしたお召し列車だそうで、北チュニジアあたりを走っていたそうです。この列車を1980年頃、リン鉱石の出る
セルジャ渓谷とメトラウイのオアシス町を結ぶ区間だけ走らせるようになりました。乾燥した大地の中をまるでトケゲが
這いまわるように、くねくねと曲がりながら走るこの観光列車は、赤く車両が塗られたところから、ニックネイム'赤いトカ
ゲ'と呼ばれています。

最後尾車輌に乗って見る展望デッキからの眺めは、抜群です。この最後尾車は、かって食料貯蔵庫、兼台所、食堂車
として使ったそうで、天井から今も大きな鉄のフックが下がっています。これは食料となる羊などをぶら下げていたそう
です。渓谷を流れる川の水は鉛色に光って、どろどろしている感じです。1時間の列車の旅のあと、セルジャ駅に着い
て近くの貨車に裸のまま積まれているリン鉱石を見てみると、黒い土でした。
リン鉱はどのようにしてつくられたのでしょうか?かってこのあたりは、緑豊かな森があり、そして動物の生息地として栄
えた時代の屍骸が骨となり、今はリンとなって堀り出されているということでしょうか?
古い話ですと、墓場でボッーと火が出ているのは、死人の骨が燃えているとか言いますし、マッチの芯にはリンが使わ
れていると聞いています。今では、畑の飼料とし使われるのだと思うのですが。

先回りして待ってくれた四輪駆動車に乗り、ここから本格的にアルジェリアに程近い所にあるタメルザ渓谷のオアシス
部落見学に出発です。



418  司馬遼太郎さんと小泉八雲さん



小泉八雲は旧姓、ラフカディオ・ハーンといい、アイルランド人だった人です。

アイルランド人の軍医を父に、ギリシャ人を母として生まれました。経済的には恵まれて充分の教育を受けましたが、
両親の愛情には恵まれませんでした。世界各地(ヨーロッパ、アメリカなど)を廻り1890年に日本にやってきました。そ
して、生涯の良き伴侶節子さんを得て後、1904年に亡くなりました。
晩年に、'日本霊験記'を書き、日本各地に伝わる前近代期の風土の中から生まれた言い伝えを残してくれています。
八雲が見た時代の日本は、正に近代化へと突き進む真っ只中にありました。
司馬遼太郎が゜坂の上の雲'の本の中で、過去のしがらみ、因習を振り払って西欧の先進技術を学び、追いつこうと前
だけを見据えて生きていた、日露戦争(1904〜1905)前夜の明るい日本の頃でした。司馬先生は、けなげに生きた
幕末から明治にかけてのひたむきな若者達に拍手を送られました。
しかし、日本が目指した先進国で育ち、やがて日本へとやってきたラフカディオ・ハーンが見たものは、失われていく近
代前の美しい日本の姿(田舎や民話の中に残る)を故郷のアイルランドに投影して、心を込めて愛する日本人への警
告の書だったようです。



419  カメラが生まれた!



1839年にイギリスとフランスでほぼ同時に写真機(カメラ)がつくられたそうです。

数週間後にはアメリカへ伝わり、彫刻や絵の安上がりの代用品として使われました。
大西部へと開拓が広がって行く中、家族のポートレート、仕事場、インディアン、風景などを撮っておくことで急速に認め
られました。
全てのものが変化し、変わるのをその時の姿、形を残しておくことは高価な芸術(彫刻、絵など)の分野だとされたの
が、カメラの登場により崩されたということでしょう。

パリのオルセー美術館の2階には、カメラや映写機(写真を連続して撮ることで動きが生じる)の初期のものを見せる部
屋(カメラという)があります。結果としては、印象派の絵や映画産業を生むことになりました。
そして今は、ビデオ・カメラと称して、小型のポータブルなものでカメラにもなりビデオにもなる、しかも修正すら可能な時
代となり、それを持って海外旅行に出かける人達が増えています。



420  ジャメル(ラクダ)の丘で元旦の日の出を見ながら万歳三唱



レーガン大統領の宇宙基地を使っての空中戦争構想から生まれたのが、映画"スターウォーズ"シリーズだそうです。

その2作目の撮影が行われた場所が、チュニジアの砂漠に残っています。4輪駆動車に乗り、きめの細かい砂丘の連
なるスリル満点の起伏の激しい丘や谷を通り(後で分かったのですが、平坦な道も別にあった)やっとの思いで、今は
崩れつつある撮影に使われた宇宙基地ステーション跡に到着しました。夕日(2004年12月31日)は既に砂丘の中に
沈もうとしています。青く澄み切った空ですが、急速に辺りが暗くなり始め、やがて西の方角の砂丘が一瞬輝きを増し
て、そのあと暗闇の訪れ、大晦日の夜が始まりました。
夕食はホテルでガラ・ディナーです。着飾った町の名士たちやヨーロッパからきている観光客と共にフランス料理を頂く
のですが、ベリーダンサーが生のバンドに合わせて踊りながら、次から次へと客を舞台へ連れ出しては盛り上げていま
す。会場は爆笑に包まれます。
食事の中ほどで、シャーベットが出されました。時計は11時を回っています。
私たち日本人は、静かに席を立って部屋へ帰りました。まだまだ宴は新年のカウントダウンをはさんで続くようです。
明けて元旦(2005年1月1日)には、6時に真っ暗い中ランドローバーを連ねて、砂漠のジャメールの丘へと向かいま
した。50分ほどで到着し日の出を待ちます。段々に地平線が明るくなりましたが、なかなか朝日は昇りません。7時35
分頭の部分が顔を出し(?)、するとするすると全身が出てきて輝きを増して昇っていきました。昨日の夕日の場所には
大勢の人が来ていましたが、今朝の所には我々だけでした。
全員で、大きく手を空へと突き上げて万歳(ロンジェビティー長寿)を三唱して、新しい年の始まりを祝いました。



421  防砂柵はヤシの葉で



砂漠の中を走る道路沿いに、そしてオアシスの周りを囲う柵として、ヤシの葉の枝を束ね連ねて、砂の進入を防ぐため
に使っています。

チュニジアの乾燥地域での風景です。
中欧ヨーロッパに暖かいころ旅をしますと、牧草田園地帯では、板の柵が束ねて置かれているのが目につきます。これ
は、冬に吹きつける雪を防ぐために道路沿いに柵をつくる用意のようです。
アメリカやカナダでは、柵などよりは降った雪を溶かしてしまおうと、岩塩を道路わきに山と積んで対応しています。
何れも風土がつくる知恵と言えましょう。



422  地中海圏のセラミックの皿



イスラム文化の影響を受けたスペイン、ポルトガル、イタリアあたりの地中海文明圏のセラミックの皿などは、素朴で、
実用的でデザインも面白く、色もカラフルな趣のある手ごろな値の土産用のものが多くあります。

我が家の料理の多くは、てんでバラバラに単品で買い求めた、地中海世界の皿の上に載っています。
パリの三越の地下1階にセラミック・コーナーがあり、マイセン焼きなどの超高級なものもありますが、星の王子様シリ
ーズのセラミックが長く置いてありました。値段も高くはなく、絵柄も夢を抱かせるような少女っぽいものでした。訪れる
度に1つずつ買ったのですが、外国製の皿で、いくつか揃ったものといえばそれだけです。
もっとも、星の王子様の作者は、北アフリカのアルジェリアか何処かの砂漠で、物思いにふけったと云いますから、こじ
つけに近いですが地中海文明圏のセラミックとしておきましょう。



423  砂漠の砂から誕生したバラの花



結晶状になった土色の半透明の、尖った剣先のある塊が、店先に並べてあります。

ローズ・オブ・デザート(砂漠のバラ)と呼ばれ、サハラ砂漠の砂が太陽の高温に熱せられ、そして強い雨に叩かれてつ
くられる砂の結晶です。
日本の国歌'君が代'の一節に'さざれ石の巌となりて'とありますが、自然界の現象で生命を持たない小さな石が大きく
成長することはあり得ない事だと思っていました。反対に大きなものが小さくなっていくのは、理解し易く眼にもすること
ですから拡散はあっても、融合はなく君が代は嘘を言っていると考えていました。そして融合が実際に起きるのを知っ
たのは最近です。今日はチュニジアの地で,砂漠の花(砂が固まったもの)を見ました。想像を遥かに超える、可能性に
満ちた地球に生きる私達です。
'事実は小説より奇なり'の言葉を思い出しています。



424  母ちゃん 私も連れてって!



1970年代に香港に行くと、必ず高層難民アパート(中国大陸から逃げてきた人達の住む)を見にバスで近くまで行っ
たものでした。

アパートの中には、学校から食料品店,散髪や、雑貨商など各種の施設が備わっていました。見るからに安普請でつく
った、中には足場も覚束なく思えるものもありました。
楽しかった旅も終わり日本へ帰るために、九竜半島の海寄り香港島との間につくられた飛行場へと向かうバスの中
で,日本語の流暢な香港人ガイド(この人も20年ほど前、大陸から逃げてきた人)が、ユーモアに満ちた口調で難民ア
パートでの生活を語ってくれ,みんなを笑わせてくれたのを今頃になって(2004年)思い出し、あの話はガイド氏の経
験談だったかも知れないと気づき出しています。

アパートでは、8畳ほどの部屋にお爺さん、あばあさん、両親、そして子供3〜4人が一緒に生活しているのが、平均だ
そうです。夕食が終わって、お父さんからお母さんに眼で合図を送り、久しぶりに今夜愛を確かめ合うことになります。
みんなが寝入った頃、始まりました。しばらくすると、お母さんが広東語で(いく〜いく〜と日本語ではなるそうです)声を
出し始めます。お父さんは、低い声でも少し辛抱しろと言って抑えさせます。しかし、やがてお母さんはいく〜いく〜と絶
唱しました。すると、隣で寝ていた長女が眠気眼で起き上がって、'母さん 私も連れてって!'と言ったというお話でし
た。

アパートの狭い厳しい生活を笑い飛ばしてくれたガイドのユーモアに大いに笑い、拍手したものです。
今や香港は、世界でも有数の富める所となっています。



425  1階は家畜用の宿、そして2階は人々の宿



モロッコのタンジールの丘の上に、墓地があります。

捜して、やっとイブンバトゥータの墓に辿り着いた嬉しさを思い出します。タンジールの町はジブラルタル海峡に面した港
で、反対側のスペインにはアルヘシラスの町があります。この2つの町を結ぶ2時間ほどのフェリー船の旅でしたが、ヨ
ーロッパ人と北アフリカ人、西欧文明とイスラム文明が混ざり合ったユニークなひと時でした。
イブンバトゥータは、1300年代の偉大な旅行家です。"2度と同じ道を通らない"という決意の元に、生涯13万キロ、4
4カ国にまたがって旅をした人です。アフリカ、中近東、ヨーロッパ、インド,中央アジア、中国と広範図に及び、各地域
の生活、風俗習慣を体験しました。背景には、当時広くイスラム文明が受け入れられたことが考えられます。
日本でも1970年代の頃は、海外から帰国すると地元では、洋行帰りということで結構珍しがられ、友人や話を聞きた
がる人も多く、貴重な存在だったと思います。

まして飛行機や鉄道、バスのない時代に歩いて,馬、ラクダなどに乗って旅したバトゥータさんの珍しい体験や話は、誰
も真似の出来ないことでした。この旅行家は行く先々で歓迎され、彼の話は最高のエンターテインメントだったことでしょ
う。
モロッコには今でも、フェズとかマラケシュなどの歴史あるメディナ(旧市街)があり、そこにはスーク(商店街)やカスバ
(行政と軍事を中心とする一角)、古いモスク、ハマーン(風呂や)などが一体となって、中世の雰囲気そのままに生活
が営まれているのを目にします。
キャラバンサライ(隊商宿)などは、昔どおり1階は羊、馬、牛、ロバなどの休息所で、2階が人々の宿になっています。
そういえば、ロンドンのハイドパークに面して、ロイヤル・ホースガード(近衛騎馬部隊)の宿舎は、確か1階が厩舎、2
階から上が兵隊の部屋になっていると聞いたような気がします。
  

トップへ
トップへ
戻る
戻る