希望




406  メディナとカスバ



アラブ人達がイスラム教を奉じながら、侵略してつくった町がメディナです。

町プランは大体決まっていて、真ん中に主要なモスク(金曜日の正午に行う礼拝のための金曜モスク)を配し,周りには
スーク(経済活動の場で、通りごとに同業の店を集める場合が多い)やハマーン(大衆風呂)などをつくります。さらにそ
の周辺を住宅空間が取り巻いていました。そして、メディナの周りは高い壁でぐるりと囲みました。何箇所か外と内をつ
なぐ出入り口(門)を設けました。また壁の上の角には見張り塔がありました。
メディナのそばには、カスバがありました。カスバは支配者の生活空間であり、行政(政治)機関があり、兵隊も多くいま
した。こちらもメディナ同様、要塞化した空間です。
なお、サウジアラビアには有名なメディナがありますが、これは定冠詞をつけるのが相応しい町であり、マホメットが信
者と共にイスラム教を立ち上げた場所で、後のモスクのプランは、ここで祈りに使ったマホメットの家が基本になって生
まれました。
メディナ内の道は迷路のようになっています。

古代ローマ人の街づくりでは、中心に広場(フォロ)を配し、広場から東西南北に主要道路をつくり、あとは碁盤の目の
ように道がつくられました。
ただ他の面ではイスラムの町づくりは、古代ローマ人のものと似ているところが多いようです。いえむしろ古代ローマの
後継者は、イスラムと云いたくなるくらいです。
宗教、政治、経済、文化が人間の営みの中心になりますが、フォロを中心にこれらの施設を配したのが、古代ローマ人
です。イスラムの人達は、モスク(宗教)を中心に経済や文化(スークやハマーンなど)をその周りに配し、政治は少し離
れた所で監視するといったつくりのようです。ただ、政治の長と宗教の長は共に同一人物か、もしくは近い関係にある
人が通常なったようです。
風呂好きな所なども、よく似ています。



407  器が立派でも中身が空っぽでは



スエーデンの老人ホームを見学に行ったことがあります。

日本の地方都市の福祉関係の仕事に携わっておられる公務員の方々を、案内しての訪問でした。スエーデンは、税金
が高く収入の半分くらいは取られると聞いています。定年後は年金で、充分生活が成り立つ仕組みになっているようで
す。万一収入が少ない人には、政府からの援助があるという話しでした。ある県の方が、自分は老後は国の厄介にな
りたくないので、私立の老人ホームに入居するつもりで資金を貯めていると云いました。
案内していたストックホルムの中年の女性公務員は、次のように云いました。
人が働ける時期には、それぞれ能力に違いもあり、収入も違っていいと思うが、一線を退いた以上は、安心して同じ生
活の保障を受けられる公営の施設が望ましく、自分もまたそうするつもりであると、福祉国家スエーデンの面目を施す
答弁でした。

日本において、立派な公営の大きな老人施設に入られている、知り合いの老人を見舞ったことがあります。この方が、
口惜しげに語られたのを思い出します。自分はしっかりしていて、炊事洗濯だどは未だ充分できる。こんな所にはいたく
ない。看護婦が老人に対して使う赤ちゃん言葉やイモの子を洗うように風呂に入れるやり方は、人生最後の貴重な時
間を過ごす環境としては、憤懣やるかたない思いを吐露されました。この病院兼老人施設は、瀬戸内海が一望できる
丘の上にあり、景勝の地にこの県の生んだ宰相のお声係で、大金を投じてつくられたものです。器は立派でも魂が抜
けている施設のようでした。

最近またスエーデンの福祉施設を見る機会がありました。
予算の関係もあり、サービスを落とさず効率の良い請負業者が、かなりの部分を支えているようです。そんな施設の一
つをストックホルムの町の中に見学しました。案内してくれた女性従業員の判断でお一人で暮らしている老人男性の部
屋を、前もって連絡することなくノックしただけで入って見ました。車イス生活で、部屋は広く3部屋あり、前に住んでおら
れた時使っていた家具がおかれていて、最近亡くなられた奥さんの若い頃の写真が飾ってありました。本棚には難しそ
うな本が並べられていて、なによりもこの方の服装がきちんとネクタイを締め、ジャケットまで着ておられます。朝起きる
と、手伝ってもらってそうしているそうです。
きっと大学教授か何かインテリの仕事をされていたに違いないと皆で話し、尋ねたところ前職は彫金師だったそうで
す。物静かな紳士でした。



408  日本では考えられない歴史を歩んだチュニジア



緯度からいうと、ほぼ日本と同じところにあり国土は日本の半分の大きさ、人口は1千万人くらいです。

風土は、北と東が地中海に面していて、そこは温暖で適度の雨があり、山には森林が残る地域ですが、南へ西へと向
かうに従って、少しずつ乾燥して行きオリーブ畑や野菜畑へと変わり、やがて半乾燥の中、周りが砂漠化していきます
が、オアシス(自然と人工があります)が所々見られます。オアシスには3種類あり、海岸近く。砂漠の中、そして山間の
ものだそうです。オアシスでは主にヤシの木、特にナツメが多く育っています。高く成長するこの木が、強い日差しを遮
りその下で、柑橘類の果物や地面では野菜などが栽培されています。そして、かってこのサハラ砂漠(サハラとは砂漠
と言う意味)は海の中にあったそうで、その名残が大きな塩湖となって残っています。古代ローマ人は,ここで採れる塩を
持ち帰ったそうです。

1970年代には、石油を求めて中国の技師が砂漠の下を掘った時、千米〜2千米の下に水脈が見つかり、今ではそ
のお陰で人工的にオアシス町が出来たところもあります。
長い先史時代(石器)の終わりに今の先住民族であるベルベル族がやってきて住み始め、紀元前9世紀の末に東の方
から地中海を渡って、フェニキア海洋民族が有名なカルタゴ都市国家をつくりました。そしてポエニ戦争(紀元前3世紀
〜紀元前2世紀)の結果、次はローマ時代(紀元前1世紀〜4世紀)、ヴァンダル族支配(ゲルマン民族の一派)、そし
て東ローマ時代(6〜7世紀)、アラブ・イスラム時代(7〜16世紀)、オスマントルコ支配(16世紀〜19世紀)、フランス統
治時代(1881〜1956)を経て、現在の共和国の誕生となります。共和国となって50年余り経っていますが、大統領は
これまで二人だけです。
サハラ砂漠の南に広がるブラックアフリカとは明らかに違う歴史ですし、また風景です。
軽々には自由、民主主義は論じられない、むしろ慈悲のある独裁者が讃えられた歴史のようです。地続きの大陸にあ
り、また地中海に面したチュニジアは、民族,宗教,文化が複雑に入り乱れ、そして気候、風土の変化の激しい土地柄が
一大特長になっています。
今は、観光を大切に考え、また子供たちの学力向上のため、遊牧生活者に定住を奨めていて、オリーブ畑では12〜1
月のころは、かって遊牧生活をしていた女、子供が総出で大きなハケで紫色から黒く色が変わりつつある実を、収穫し
ていました。男たちは、将来を見据えて伝統の情報交換(喫茶店で憩う)などをしている風景がありました。
チュニジアに幸あれ!



409  緑色のオリーブは早めに、黒ずんだのは遅く収穫したもの



1月になって間がない頃、冬休みということもあってか子供たちが、母親たちを手伝い道路端の畑でオリーブの実を収
穫していました。チュニジアのスベイトラ(古代ローマ時代の遺跡のある町)近くでの風景です。

羊などを連れて遊牧生活をしていた人達に、政府は30年くらい前から積極的に定住生活を勧め、子供たちの教育を奨
励しているそうです。
どうやらバスを停めて、近づいたこの農家の人達もかっては、遊牧生活者だったようです。
オリーブの木の下に大きなビニールの敷物を広げ、実のたわわにつぃた枝をつかんで近寄せ、プラスチックの歯が5
〜6本ある大きなハケで、大雑把に上から下へと掻いて実を落とします。
何人かの日本女性がチャレンジしてみましたが、結構力がいるようでした。
みんな明るく、私たちを興味ある目で見ていました。この時期のオリーブの実は、すでに紫から黒ずんだ色になってい
ました。実はわりと小さめでオイル用に使われるそうです。大きな実は食卓用として、そのまま食べるそうです。ビニー
ルに落ちた実を食べましたが、かなり苦い味がしました。食べるオリーブとしては、緑色の方がいいそうです。理由は酸
味が少ないからだといいます。
畑の周り、特に道路側はカクタス(トゲのある赤い実をつけた見慣れたサボテン)が列をなして植えられています。農家
の畑の境界線を示すだけに留まらず、風や砂よけ、畑荒しからも守ってくれます。サボテンは実が黄色く色づく夏が、
食べごろだそうです。

ふとバスを停めて立ち寄った、農家の人達との交流こそ台本にない本当の旅の喜び、出会いのひと時でした。



410  町の周りを壁で囲わなかった日本



日本の特徴を一つだけ例を引いて挙げなさいと問われるとしたら、次のように答えます。
'日本だけ町の周りに壁をめぐらせなかった'と。

世界では大河のほとりに開けた古代都市国家以来、19世紀まで町という町は壁でぐるりと囲んだのが、日本以外の共
通している景観のように感じています。
一方日本は、狭くない海で囲まれていて、この海が天然の壁として要塞として人々に安心感を与える機能をしたと考え
ることが可能かも知れません。そうだとすれば、日本全体を町と考え、周りの海を壁として捉えるならば、ヨーロッパ、中
近東世界の際立った自己防衛本能にも似た壁造りも、さほど違わないように思えてきます。
さて、日本人は大陸に住む町の住民のような、感覚を持って団結して生きてきたでしょうか?
元寇の役(1274,1281)や大航海時代(16〜17世紀)を背景にしてのヨーロッパ諸国との接触、幕末期の開国騒
動、日清・日露戦争から太平洋戦争に至るまでの積極、消極取り混ぜての対応はありました。しかし、あらゆる人を巻
き込んで自己防衛のために、町を守るために闘ったことがあったか?国を守ることをしたか?その為のコンセンサスづ
くり、自由な意見の交換・情報の公開はあったか?となると、日本は大陸に顕著に見られる城砦都市型文化、文明で
はないと考えざるを得ません。国を守るのは武士の仕事であって、町人、職人の仕事ではないと多くの日本人は考えて
いたことが、400年もの昔日本にやってきた宣教師たちの、本国に向けての通信に書かれ残されています。

大陸では、壁で囲まれ狭く限られた空間の中に移り住む人達は、自らの意思で好んでそうする訳で、市民は都市計画
により複数階につくられたアパートの中で暮らし、町で決めた条例を守り、非常時には町を守るために自ら武器を持っ
て闘う意思と行動力を持った人々でした。
どのようにすれば外からやってくる強い権力に対抗して、自分たちの自冶権が保てるのか四六時中考え、その中から
個人と全体との接点を見つけようと必死に生きてきた人達です。
僅かに、西ヨーロッパの都市の中に、これら都市型市民の成長が見られ、権利と義務、自由と責任、所有権と税、とい
った考えに発展していきました。
地続きで異なる民族、宗教、政治、文化、経済、情報、軍事暴力が接しているところでは、嫌なものを自力で跳ね除け
て、拒絶するシンボルとしても壁が必要だったことでしょう。ひるがえって、島国日本は誰の目にも明らかな海(壁)があ
るので、そして海の外からの圧力を感じる歴史ではなかったのが、誰も自覚を促されるようなきりっとした自衛意識、危
機意識としての海ではなく、ただ目に映るだけの自然の海であり、壁ではなかったと思います。
実際に物理的な壁を歴史を通して造ってきた大陸に住む人々と、自然の海が壁にも似た役目を果たしたため、決意し
て汗を流して犠牲を払いながら壁を造り、守る必要を感じなかった島国の日本人。むしろ海(壁)を超えてやってくる文
物、文化は珍しく貴重なもの有難いものとして、積極的に取り入れるのを好んだ歴史を日本は見せています。
通常は、外から入ってくる文化の裏には宗教やイデオロギー,征服意欲を見せる軍服などやっかいなものが付着して
いて、警戒されるものですが??。

19世紀後半からは,戦争兵器や交通機関の著しい進歩により、大陸においては町の壁を取り壊し、その後に自動車
用の環状線をつくる等して、都市を取り巻く壁は消えてしまいました。しかし何千年にも亘って続いた壁の文化は、人々
の心に残り誇りとして受け継がれていくことでしょう。古い町並み(旧市街)を大切に守り、かっての壁の外にあたる新市
街においても、いいえ田舎においてすら調和のとれた大地の中に生きる自然の色に溶け込んだ配色の町風景、田園
風景を見るときに、この大陸の人達こそ自然に対して敢然と立ち上がり、挑戦した歴史(森を切り崩し木の根っこを起
こし、畑を耕し町をつくっていった)でありながら、自然の中に生きる素晴らしさ、怖さを知っていて、また人間の怖さ恐ろ
しさを歴史の中で身にしみて体験してきてもなお、それだけに敢えて旧知の人達とスクラムを組んで生きて行こうとする
(ヨーロッパ連合など)努力を怠らないように思います。

日本では、もともと人工的につくった防衛用の壁ほないので目に見えない壁(日本人という共通意識を分かち合う安心
感)を頼りに、外国には接してきました。しかし最近は、日本人のなかで、意思疎通を不能にする心の壁が出来つつあ
るように思います。
これは厄介な問題にならなければと危惧しています。



411  偶然に一致した結婚適齢期



チュニジアでは男女共に結婚する年齢が遅くなり、今では平均30〜35歳だそうです。

そして子供の数も多くて二人までとなったそうです。独立前(1956年)は結婚は早く行い、子供も平均6人はいたそうで
す。
この晩婚の背景には、結婚に際してあまりにも費用がかかりすぎる(女性への宝石などのプレゼントや住む家、家具調
度品の購入など)のが原因だとガイド氏はいいます。
このガイド氏も独身で35歳だそうです。もしかして大げさに言っているのかもしれないと思ったのですが、1週間付き合
ってみて心底優しい人でしたので、正直な客観的な見方なのでしょう。ガイド氏は、日本についても最近チュニジアのテ
レビで報道があり、くしくも結婚する年齢が30〜35歳だったといいます。ただ日本の晩婚の理由は、女性の自立によ
るキャリア・ウーマンの増加、結婚への憧れの退化、子育ての煩わしさを避けるなどが挙げられていて、子供が減って
いるという内容だったそうです。
結婚する年齢が低いと活力もあるし、子供を多く育て子供を財産と考えるでしょうが、今はそれもなく、チュニジアでは
違った意味で、先進国病(子供の減少)を味わっているようです。最もチュニジアの方が、少しの調整で増産に向かえる
ように思えるので、日本と比べると軽症だと思います。



412  結婚式の3日前に花嫁はハマーン(風呂や)に行く



チュニジアの南、サハラ砂漠のそばにドゥーズというオアシス町があり、ラクダ乗りが楽しめます。

ドゥーズを後にして北へ向かうと、やがてショット(塩)・エル・シュリドなどの大塩湖があります。そこへ行く途中いくつか
のオアシス町を通り過ぎます。そのあたりは、1970年ごろ中国の技師が、石油を探して地中深く掘った所で、地下千
米〜2千米あたりで石油ではなくて水脈が見つかり、その結果つくられたオアシスだそうです。ナツメや果物の林、野菜
の栽培などしています。そのあたりをバスで走っていますと、女性を主にした20人あまりの集団が、前方からやってき
ました。先頭では,楽器を手にした男性たちが楽しそうな音を出し、その周りでは数人の女性が踊っています。ガイド氏
の説明では、これは結婚を間近にひかえた花嫁がハマーン(風呂や)へと向かう行列だといいます。結婚は村の公の
行事であり、村の人に知ってもらうために行っているそうです。花嫁は顔をベールで覆っていて、集団の中ほどにいまし
た。ハマーンで体を清めた後で、手や足の裏表に特別の模様を描くのだそうです。
以前、インドで同様の行列を見たことがあります。
楽隊が先頭に立って楽しい音色のリズムを出し,人々は踊りながら歩いていました。ただそれは、亡くなった人を川へ
と焼きに行くヒンズー教の葬式風景でした。肩に担がれた棺の中には,高齢で死んだ人が入っていて、天寿を全うしたこ
とを村人みんなで祝ってあげているんだとのことでした。
ヨーロッパなどでもよく市庁舎の掲示板に、結婚を願い出たカップルの名前が張り出されているのを目にします。これも
村や町に住む人に知らせるためと、反対者があれば申し出て結婚の正当性の有無を聞いてみるのだそうです。
人は村や町に住む公の一員として存在していて、その上で私(個)があることを示しているようです。

大塩湖が眼下に見えるトズールの大きなオアシス町に入ると、女性は黒い被り物(チューニックといい、このあたりのベ
ルベル族の民族衣装)を着けています。既婚者は袖口に青い線の入ったもの、未婚者は白い線の入ったもので見分け
がつくようになっているそうです。



413  ロバと老婆との会話



長い歳月をかけて、自然の力(水や風など)がつくりあげた渓谷が、アルジェリアに程近いチュニジアの山間にありま
す。

丘の上は、ミデスのオアシスの人達が住む小さな部落です。谷の深さを訊ねるとガイド氏は、40米ぐらいだろうといい
ます。私たちの目には、軽く百米はあるように見えます。何と謙虚な人だろうと話をしました。
そこへロバが現れました。周りはヤシの木がたくさん植えられていて,乾燥した赤茶けた大地が広がる中にいいコントラ
ストをつくっています。
2千年前、イエスがロバの背に乗り、エルサレムへと向かうと人々は集まり、ヤシの葉を道に敷いてホザナ(ヘブライ語
で、救い給え)と口々にいって迎えたそうです。
ロバの飼い主の男は、しきりに高齢の日本女性にロバに乗るように勧め、写真を撮らせようとしていました。
そこで,なぞめいたロバと女性の会話が始まりました。
女性は、ロバに日本語は分かるかと訊ねます。
ロバは、女性に逆にロバ語は分かるかと問い返したようです。
答えて女性は、私はろーば(老婆)ですと言って,みんなを笑わせました。
何とものんびりした小型グランド・キャニオンのそばで起ったトンチ問答でした。



414  イスラム圏で女性が髪や足を隠すわけ



チュニジアのガイド氏にバスの中で、なぜ女性はベールで体を覆い,顔を隠すのかと訊ねました。

このガイド氏は、7年もベルギーで学生生活や働いていたインテリですが、明るい性格で私たちの面倒をよく見てくれま
す。彼は私に女性が服を着ているのと、裸とどちらが好きかと問い返しました。少し考えて、両方とも悪くないと私は答
えました。それでは、自分の奥さんが人前で裸でいるのと服を着ているのでは?どうかと質問します。
そして、メディナにあるマホメットの自宅をお祈りの場所として使った、初期のイスラム教ではマホメットの美しい奥さん
方が、信者たちの視線の対象になったそうです。
そこでマホメットは、女性が男性の欲望の対象になるのを防ぐため、アラーの教えを真剣に聞くために、女性がベール
で覆うことを奨励したそうです。
ガイド氏の一本勝ちでした。



415  夢を持ち続けるためには



姿かたちの見えない相手に、電話を使ってのビジネス会話の中で何よりも大事なのは、用件に入る前にちょっと気のき
いたコメントを言うと,肩がほぐれて相手がリラックスしてくれるものです。

その時も、電話口の交換手の女性に、声がセクシーで色ぽかったのでその通り言って褒めた次第です。それに対して
返ってきた言葉は、私の声も低くて男らしい声だと言います。
さらに次のように彼女は言いました。
'互いにいい印象を抱いたことは良かった。このいい印象を持ち続けるためにも、互いに会わないでいましょう'と。いや
はや互いに電話口で大笑いしました。


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