希望




386 私の求める海外添乗員像



自分自身が旅を愛し、未知への恐れに挑戦する勇気を持つ人。

より広く深く知識を高める姿勢の人。
新たに体験、経験したことと過去に蓄積した情報を結びつけ、より明快な理解を導きだそうと考えることを止めない人。
人たらしの人が良いと思う。お客の目線で考える、見ることは大切です。ツアーをより良い作品に仕上げる為に、協力
してもらう関係者、例えばバスの運転手、ガイド、ホテルやレストランの従業員、エアーラインの人達、ランドオペレータ
ーなどを生かして使える人。
決断の人だと思う。問題解決を迫られた時、順序立って思考を組み立てプランが出来上ったら直ちに実行することが
出来る人だと思う。変更が余儀なくされるような事態が起きたら、臨機応変に対応できる柔軟な人。
お客に安心感、信頼感を与えられる人。
口を開く時には、はっきりとゆっくりと分かりやすい言葉を選んで、客の気持ちが楽になるようなユーモアのセンスも忘
れず語れる人。
お客にチャレンジする気持ちを起こさせるよう、後ろから後押しする人。
勲章は自分以外の人にあげて、飄々としている人。
お客に積極的に外国の人と交わるよう勇気づける人。基本のマナー(お願いします。有
難う。笑顔や相手の眼を見る。)は、実行するよう優しくアドバイスする。
危険と忍耐が同居できる能力を身につける努力をする人。
出来れば、英語で自分の気持ちを簡潔に表現し、また相手の話を素直に聞く姿勢を心がける人。

添乗は、願ってもない機会であり、己を知り、それをいい方向に伸ばすことが可能になる素晴らしい職業だと思います。



387  堀江健一さん考



近々はまた大海原を舞台に、活躍されている様子です。

私の中にある堀江さんは、30年あまり前、太平洋を本当に小さなヨット(マーメイド号)に乗ってただ一人横断したことで
す。今はこのヨットはサンフランシスコの埠頭の一角にある、日本から訪れる人とてあまりない博物館に静かに置かれ
ています。入場料はタダです。密出国であり、当時の日本政府の対応は犯罪者を見るような眼で対応しましたが、アメ
リカでは、ヒーローとして勇気を讃えました。大国アメリカの人を見る眼の大きさ、暖かさに驚いて日本国家は、態度を
変えたように思います。
すぐ傍に、有名なゴールデン・ゲイト・ブリッジ(金門橋1936年)があります。数十人の人が1年に投身自殺するそうで
す。欄干から海面まで60米あまりあり、コンクリートに直に体をぶつける行為と同じだそうで、万一運良く水に潜れたと
しても、その水は寒流であって、流れは速くしかもサメが泳いでいます。自殺を防ぐための対策を議会で検討しました
が、最終的には自殺する人は例え金門橋がダメでも他の場所に行って死ぬだろうから、あえて欄干の周りにネットなど
しても無駄であろう。まして金門橋の美観を損ねるので、あえて何も対策を講じないことにしたそうです。
さてこういった場合、日本ではどうするでしょうか?
オイルショックの頃、節電が叫ばれ横浜のランドマークであるベイブリッジのライトアップを止めましたが、サンフランシ
スコでは地元民や高層ビルに入っている会社の負担になりますが、ダウンタウンのビル群は仕事終了後もライトをつけ
たままにしました。
サンフランシスコ湾に浮かぶトレジャー・アイランドやツイン・ピークスから見る夜景は美しく、サンフランシスコの町を世
界の憧れのスポットとして,ますます高めることになりました。



388  皿や布地を見て思うこと



日本製の皿はとても繊細なデザインで飾られ、全く隙がないという印象を与えます。

翻って、地中海や中近東世界での皿は、おおざっぱでデザインもおおらか、のびのびした間のびを感じます。そういうお
おらかな皿に焼きたてのパンやオリーブの実、それにワインを添えれば話し合う道具は揃ったので、あとは個性豊かな
人間たちの登場を待つばかりといったイメージを抱かせます。座は楽しく、話は弾み、男と女がゆつたりと小さな家庭の
話題から、大きく哲学芸術人生論に至ることでしょう。

インドの染織は、日本のルーツ(インド染織の影響を受けて日本は育ったようです)にあたるそうで、その道の専門家や
同好者たちを案内して、インドへ行ったものです。
よく耳にしたのは、木版にデザインを彫り、色を付けて布地に手作業でプリントするブロックプリントの中に,色が枠をは
み出していたり、滲んでいたりしているのを見て、日本人の眼にはこれでは使い物にならない、商品として価値がないと
酷評され見捨てられたことでした。
同行されていた有名な染織の先生は、それは間違いです。インドの風土の中に生まれた工芸であってこそ、そのまま
意義があり、日本のメガネ(視点)で判断することは軽率な行為であり、むしろ滲んだ枠をはみ出した作品の中にこそ、
インドのおおらかさを観てとるべきでしょうと言われたのを思い出します。
人や国それぞれの持つ特徴(個性)をあるがままに、自然の中に見るものを愛を持って評価することの大切さを教えて
おられたようにも受け取れました。



 389  卵を産まないニワトリは?



我が家に闘鶏好きの人から預かった軍鶏が,10羽近くいたことがあります。


オスは1羽だけで名は勘太郎といい、縁側の物干し竿に乗って毎夜寝ました。夜が明けてくると、必ず美声を張り上げ
て'土気(とけ)高校'(コケッコッコー)と鳴きました。
それを合図に上の二人の娘は起き出し、土気高校へと向かったものです。
しかし、哀れ勘太郎はこれまた人から預かって間がないベス(エスキモー犬)に噛まれたのが原因で、3日後静かにニ
ワトリ小屋の中で亡くなりました。
そうそうメスのニワトリのことでした。春から秋にかけては、結構卵を産むのもいました。しかし、卵をほおって置くとエサ
に満足していないのでしょう.せっかく生んだ卵を食べてしまうようでした。

アメリカで訪れた養鶏業者は、何十万羽というニワトリを巨大な鶏舎内で、身動きもままならない小さな空間の中に入
れ、全てを(照明、温度、湿度、エサ、排出物の処理、卵の取り出しや産んだか産まないかの記録に至るまで)コンピュ
ーターで管理していました。
卵を産まなくなったニワトリは、強制換羽(3週間薄暗い部屋に入れ、水だけを与えると贅肉がとれ羽が生え変わる)さ
せ、半年間だけ卵を狂ったように産み続けさせるか、その場で命を絶ち、食肉になるかだといいます。
オスのニワトリに至っては誕生から間もないヒナのとき鑑定され、そのままミンク(小さな動物で、ミンクの毛皮は有名)
のエサとなるべく潰されるのでした。

我が家のニワトリの方が,幸せだったように思いました。



390 ロウソクの移り変わり



ロウソクでつくったいろいろな飾り物、置物を少しずつ旅行の旅ごとに集めたことがあります。

勿論、最終的には停電の際、灯りとして役に立つはずです。ドイツではフォルクスワーゲン車、スペインでは魚、アメリカ
ではおいしそうなアイスクリームや各種の果物、チェコでは太いローソクそのものですが周りに風景が刻まれているとい
った風に様々です。
ハワイでもワイキキビーチ近く、インターナショナル・マーケットの中でロウソクが売られていたので買って帰り、帰国後
使ってみたのですが、粗悪品で黒い煙が出てしまいました。

ウィリアム・ワーズワース(1770〜1850)の住んだイングランドの湖水地方、グラスミアの村にあるダブコテッジに行く
と、羊の油からつくったロウソクが天井から吊るしてあります。粗悪な黒い煙が出るものでしたが、暗い夜を明るくしてく
れる大切なものですので、ネズミにかじられないように天井の真ん中に吊るしてありました。そして、居間の天井はロウ
ソクの煙も手伝い真っ黒になっていました。ヨーロッパや地中海世界に行きますと、古代遺跡や墓地から見つかる素焼
きの簡単な油を入れて使った,灯り皿があります。
19世紀後半に電燈やガス燈が灯るまでは、人は植物油や動物油そして大西洋、太平洋を捕鯨船が駆け巡って採った
クジラの油(上質の煙の出ない高級ローソクとなった)のお陰で、夜の暗闇から開放されました。
そして、今ではローソクがお洒落品として居間を飾る時代になりました。



 391  モザイクの輝きは永遠



ジョルジォ・ヴァサーリ(16世紀のイタリアの人)はモザイクを、最も望ましい耐久性に富んだ絵であり、他の絵があせて
くる中、時の経過と共に更に輝きが増してくると言っています。

モザイクの歴史は長く、発明されては忘れられ,また何処かでつくられるといった具合で、地中海を中心にして時期と場
所を異にしながら成長しました。古代エジプト人もシュメール人も小アジアやカルタゴ、クレタ島やギリシャ、さらにシシリ
ー島からスペイン、シリアに至るまで広範に亘っています。
床や壁、丸天井をを美しく飾るための美術であり、特に湿度が高く美術品が壊れやすい所(風呂やプール,噴水など)に
主に使われ、小さな石やガラス、タイルを素材につくられました。紀元前9世紀には、丸い小石(直径2〜4センチ)を使
い、細かい所は1センチ未満の石を使っていました。紀元前4世紀には、立方体の石(テッセラ)が考えられ、複雑な色
合いが出せるようになります。使いやすく,さまざまなデザインに対応出来表面も平らになりました。
そして、ヘレニズム時代(紀元前300年〜紀元前30年ごろ)には、モザイク絵が急速に発展しました。たくさんの色石、
テッセラのサイズの小型化で絵画と競うほどになります。
繊細な光の幻覚や影、深さやボリューム,遠近まで表しました。
紀元後2世紀には、ガラスの使用が始まりました。古代ローマ帝国は、大西洋沿岸からシリアの砂漠まで広範な領域を
支配することになり、モザイクも大量生産され白と黒のテッセラが流行しました。
4世紀に入ると、キリスト教の教会内で聖書の話をテーマに、金や色グラスのテッサラを使い、ローソクの灯りに揺らぐ
神秘のオーラを演出しました。新プラトン主義(物は、鈍いぼんやりしたところから、真の霊性、本当の光空間へと変容
するという)の影響を受けました。この頃のもので,今に残る教会では中部イタリアのラベンナにあり、クリスチャン・モ
ザイクの至宝と言われています。
そして中世の時代、西ヨーロッパ教会やイスラム世界世界でも広く使われました。ルネッサンス期のベネチアのサンマ
ルコ大聖堂やローマのサンピエトロ大聖堂があります。
1775年には、ローマの職人が溶けたグラスの糸を使い、ミニアチャーモザイクで有名な絵画を再現することに成功し
ました。
15世紀のイタリアのドミニコ・ガーランダイオーはモザイクを評して、'永遠を表すための本当の絵画'と言いました。



392  ソクラテスの凄さ



アテネの市民としての義務を果たすために、戦場に行き、50歳を超えたソクラテスが夜を徹して歩哨でもないのにじー
と立ち、思いをめぐらす姿を想像するのは、内なる声、真理を聞き取ろうとする真面目な態度に,哲人の偉大さを感じま
す。

アテネのアゴラをこよなく愛した人。人々が商売に買い物に昼寝に雑談に子供が遊びまわるアゴラを,散策する無為の
人。若者を愛し、謙虚にデイモンの声を聞こうとした人。霊魂の不滅を信じ、肉体への執着をせず法に諄々と従って去
って行った人でした。(森本哲郎さんの本を読んで後の感想です。)
また森本さんには、インド仏跡のブッダ涅槃の聖地(亡くなったところ)クシナガラ近くの鉄道駅ゴラクプールの駅前広場
を舞台にして書いた、インド人親子3人の貧しいが愛ある生活風景を描き出した、朝から夜までの情景エッセイがあり
ます。思い出深い文章であり場所でもあります。



393  '芸術家列伝'が果たした役割



ジョルジョ・ヴァザーリは,16世紀初頭にトスカーナ地方のアレツォの町に生まれました。

画家、建築家としても優れた人で、1560年に書いた'芸術家列伝'の本がルネッサンスを後世に伝えることになりまし
た。メディチ家が収集した数々の美術品は主にフィレンツェのウフィツェ美術館に展示されています。美術品の配列も
ヴァザーリの残したこの本の流れにそっているそうです。
ジオットに始まりフィリッポ・リッピ、ボティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロへとなっています。
ラテン語でルネッサンスという言葉を、この本の中で初めて使いましたし、芸術家達のプライベートな面にまで立ち入っ
て書かれているため、芸術家の全体像が浮かび上がり、魅力あるものになっています。
彼は、ベッキオ宮殿内の5百人広間のリフォームをしたり、ウフィツィ美術館の建物を設計したり、ピッティ宮殿との間を
つなぐ回廊やドーモ教会のキューポラの内壁の巨大な空間を埋め尽くしたフレスコ画を描いた業績でも知られていま
す。



394  手書き更紗の町 ビジャヤワダ



南インドのマドラスから列車やバスで3時間ほど北上すると、手書き更紗で有名なビジャヤワダの町があります。

いくつもの工場があり、木綿の白い生地の上に職人たちが思い思いのデザインを下書きなしに自由に描いていきま
す。染料は昔ながらの植物や鉱物から採る天然のものを使い、デザインの多くはヒンズー教寺院の壁や天井、扉に描
かれているものや置かれている彫刻などを参考にしているようです。
ここに限らずインド全国、長い間英国の支配下にあった時代には、英国の一方的な都合のため、こういった伝統技術
は廃止され、イングランドの工場で機械製造された綿、絹製品を買わせるようにしました。例えば、有名なダッカ・モスリ
ン(職人によって織られた繊細な木綿の布地)の職人の指を折ることもしたといいます。
さて英国支配が終わってみると,伝統の手工芸技術やその方法はすっかり忘れられてしまい、政府の研究所などを中
心に、昔織られたあるいは染められた布地をもとに、研究を始めたそうです
失業対策の意味も兼ねて復活させたのが実情のようです。
研究、技術者の訓練養成、環境が再び昔ながらの染物、織物をつくりだすのに貢献しています。

江戸時代、この南インドでつくられた染物や織物が紅毛船(オランダ船)に乗せられて、日本にやってきて大阪や京都
の女性の肌着となりました。
その後この中古の肌着は、下り物となって商人により江戸へと運ばれました。ここでもサントメの愛称で呼ばれ江戸の
女性を喜ばせました。
キリスト教禁令下にありながら、キリストの弟子の一人聖トメ(サン・トメ)が、そっと女性の着るものとして忍び込んでい
たということでしょうか?
この聖人は、復活したイエスを信じず目の前に現れた師匠の槍でさした傷に手を触れて、やっと信じたというエピソード
の人ですが、マドラス郊外で亡くなったとされ、現在そこには立派な教会が立ち多くの信者で賑わっていました。
今は、マドラス港から日本へ向けて輸出される物の中に良質の大理石が多く含まれているそうで、日本では墓石として
もてはやされているとか?



395 大きいことは素晴らしい



ヒューストンのアストロドーム複合施設を利用して、アメリカン・ホームビルダーズ・アソーシエイション主催の建築関連
産業展が開かれました。

日本からも多くの方々が今後の業界の行方を見通すために出かけました。その時のアメリカ最後の視察先はロスアン
ゼルスの全米一といわれるトラスト(住宅用の屋根を支える三角構造の梁)製造工場でした。雨のほとんど降らない乾
燥したところですので、作業は全て屋外で行われていて100キロはゆうにありそうな屈強なラテン系の男性が、かなづ
ちを振り上げて、板と板をくっけながら釘の頭を打ち続けていました。こうして前もって三角形につくられたトラストは、大
型トラックに10コ前後乗せられ建築現場へ運ばれていくそうです。木材は、直接鉄道でカナダあたりから運ばれてき
て、引込み線でここにやってきます。しかし、材木の不足,値の高騰、森林環境保護問題などもあり、軽スチールに移
行する取り組みも始まっていました。

工場を見ての帰りに、昼食を取ろうと立ち寄ったインターステート・フリーウェイ(州間高速道路)沿いのガソリンスタンド
を兼ねたレストランのディポット(大型用乗り物の駐車場)には、次から次へと様々な型や色模様の大型トラック(コンボ
でトラクターには寝台が備えられている)や長距離トレーラー(20トンクラス)が出入りしています。
レストランの中は、運転手たち(女性ドライバーも結構います)が楽しく食事をしていました。
メニューを持ってきたウェイトレスの胸にはシェリフ(警官)のバッジがついていて、アメリカ式ユーモアでアルコール類は
一切出せないし、置いてないと言うことのようです。
食事の量はさすがに偉大で、コークやレモンティー、コーヒーなどの飲み物もピッチャーや魔法瓶ごと置いていくほどで
した。
  

トップへ
トップへ
戻る
戻る