希望




376  スパルタ教育は是



小学校4年(10歳ぐらい)の時、内緒で家にあったお金を持ち出し、甘いものを買って食べたという。

育て親の長兄(20歳も年が上)に見つかり強く折檻され、その果てに猪も時には出る裏山の大木に縄でぐるぐる巻き
にされて、一晩そのまますえおかれたそうです。大正2年(1913年)生まれの90歳を越えたこの老人は、今もこの事
を昨日のように鮮明に覚えていると云います。
18歳で教員になり、瀬戸内海の島で勤めました。初任給が40円。その内、3食まかなってくれる下宿屋に15円,洋服
を上下新調すると、さらに15円ほどかかりました。新任警官の給料は、30円だったそうです。ただし、仕事用の服と宿
は官舎なのでタダでした。日雇いで働く人が、男80銭女50銭の時代でした。村の村長、助役の仕事は、無償で奉仕の
時代でした。
何か公式のお呼ばれごとでもあると、必ず村長助役そして先生警官は上座に座り、もてなしを受けました。学校で悪が
き坊主を、たまに先生が手を挙げて叱っても、親は先生、学校に文句を言う代わりに、何故先生に叱られるようなこと
をしたのかと子を叱ったと云います。24歳(1937年)でハワイへ親や兄弟を頼ってこの人は行きました。本願寺ミショ
ンスクールの先生の仕事をしました。こちらでの初任給は70ドルでした。3円が1ドルだったそうです。
やがて太平洋戦争(1941年)が始まり、長い収容所生活を終えた後、敗戦間もない日本へ妻や生まれて間もない長
男を連れて帰ってきます。神奈川県の久里浜港での上陸の際、港では他にひきあげ船があり階級章を取られた元日
本兵も多くいたそうです。上陸してくるこれらの兵隊に対して、港に屯していた日本人は罵声を投げかけたりしたそうで
す。
故郷へと向かう列車の中での情景は,すさまじく鬼と化したかに見えるほど人心が乱れていたそうです。
日本を愛するがゆえに帰国したのですが、一瞬帰らなければ良かったと思ったそうです。

そして、今の日本を評して、上に立つ人もダメ、先生もダメになっている。今後の日本もダメだろうと云います。
自由、民主主義を取り違えている。自分も自由な代わりに、他の人も自由であることを認めるのが自由であろう。
この老人の意見やいかに!



377  地獄も見た、天国も見た、それ以上は?



作家の司馬遼太郎さんは、1970年代の半ばに一人敢然と土地にまつわる'日本人と土地'という警告の書を書きまし
た。

こよなく日本人を愛した熟慮の人、司馬さんが亡くなる直前(1997年)まで心を煩わしたのが、やはり土地に関する日
本人へのメッセイジでした。先祖代々受け継がれてきたこの日本の大地を,投機の対象にしたバブルのころの日本人
は、かってこの国になかった恥じる行為をしてしまったと碩学には映りました。
'峠を越えた'の一言は、真実重みのある言葉として残りました。

バブルのころ(1990年以前)ツアーに参加されたお年寄りの女性が、次のように語られました。
長い人生の中で、地獄(シナ事変や太平洋戦争)も見たし、また極楽(美智子妃殿下のご成婚ころから始まる高度経済
成長期時代)も見ました。これ以上いいことがあるとは思えない。
土地成金が多く誕生し、ゴルフ券を筆頭に各種の会員権や国内に別荘や海外に土地、建物を買い漁っていたいたころ
でした。ジャパン アズ ナンバーワンと持て囃されていたころでした。



378  洗面所で報告書を書いた人



ヨーロッパの冬は長く寒いという。

11月から3〜4月までは通常昼間であっても、暗く雲が低く垂れ込めて太陽が顔を出すことはまれだと言う。このしば
れる陰気な冬を耐える中で、彼らの生活は形成され心も鍛えられました。11月には、越冬用のエサが不足するため、
翌年の春に丈夫な赤ちゃんを産んでくれる家畜だけを残し、他は殺し、塩づけやスパイスなどを使い、腐るのを少しで
も防ぎ食料としました。あるいは、沈みがちな気持ちを少しでも高めようと、冬には、オペラやコンサート、ダンスなどを
しました。イエスの誕生を冬至辺りに設定したのも、頷けます。
冬の弱い陽の光に慣れたヨーロッパ人の眼は、強い光に弱くサングラスをかけている人をよく見かけます。値の張る一
流のレストランほど室内は,薄暗く設定してあり、テーブルにはローソクの光が灯されるといった具合です。
ホテルの部屋も日本人には、一般に暗く感じます。電燈の光を一旦壁や天井に当て、そして返ってくる光で、部屋を明
るくしています。
そんな中、旅行での文部省派遣の先生の中には、報告書を書くために蛍光灯の明るい光が僅かに使われている洗面
所で、便器に腰掛けて作文した人もいます。

ホテルやアパート、公共の場にある廊下なども,所々にあるスイッチを押すとボーと明るくなりますが、しばらくすると自
動的に消えてしまうのもあり、戸惑ってしまいます。
冬に備えて建物は造られていますので、11月になると大体集中暖房が入りますが、ホテルでも中には、朝方には暖房
が切れてしまうようになっているのが結構あります。毛布などしっかり準備して休むのが大切です。

ヨーロッパを本当に知りたいのであれば、ヨーロッパ人の精神がつくられた暗い、寒い冬に旅すべきだと言ったのが、ヨ
ーロッパ通の犬飼道子さんです。



379  教会と市庁舎は町の二つの目



中世の時代から出発した町人や職人などを中心につくられた歴史あるヨーロッパの町は、教会と市庁舎がその核にな
っています。

大聖堂(カテドラルと呼び、司教の座る椅子カテドラのある格の高い教会を云う)は、人々の精神的な心のより所とし
て、また神の地上における家として、常に門戸を開いて弱者の悩み相談に応じました。教会は、歳月をかけ、市民の誇
りとして競って立派なものを造ったので、今では観光の中に必ず教会見学が入っているほどです。中世の時代を感じる
には、教会ほど適切な所はなく、建築、彫刻、絵画、装飾、音楽、壁掛け、調度品、僧侶の服、書物などなど気持ちを
込めてつくられました。ここには、中世人の作品があり、彼らの気持ちが漂っています。

一方、市庁舎は市民の自治の象徴として現在に至るまで使われており、これまた開かれた建物です。
町の自治権(コインを鋳造したり、塩の一手販売、税金の徴収権など)を権力者(領主や皇帝、王など)から勝ち取るた
めに闘った中心の建物です。今でも気安く、出入りできる市民の顔をしての機能を果たしています。フランスで行われ
た1998年のサッカー・ワールドカップの時など主要都市(パリやリヨンなど)の市庁舎前広場には、大きなスクリーンが
張られ市民が集い、大写しにされたサッカーに大いに盛り上がり楽しんでいました。



380  市電死した神のしもべ(下僕)



弟子、職人そしてパトロンに恵まれて、職人肌の気質を貫き通した人生でした。

19世紀後半、産業革命に沸くバルセロナで、実業家グエルと芸術家ガウディの出会いがありました。宇宙人同士(時
代を超えた感性の持ち主)の出会いともいうべきで、互いに瞬時に電撃的に理解しあい、生涯の友となりました。

神のつくりだした自然界の現象を観察する中から、ガウディの建築、装飾は生まれています。海の波がカーブのある壁
に、海草の水の中に揺れる姿がバルコニーの鉄柵に、といった風にデザインされているのが、ミラ邸(カサ・ミラ1906
〜1910)です。住人曰く、'直線になっているのは床だけだ'と。
神のつくったものは全て曲線だと解釈していたのが、ガウディでした。

晩年は、生涯を賭けた大作'聖家族懺悔寺院'(サグラダ・ファミリア)の製作に打ち込み、作業現場に寝起きしていまし
た。裕福であるにも関わらず、見た目には乞食同様の姿だったようです。1926年の年の瀬、74歳のガウディは市電
に跳ねられ亡くなりました。
教会を訪れる人達の支払う入場料で、合計18本の塔があと20年もすれば完成するそうです。ガウディを聖人の列に
加えようという運動もあるやに聞いています。
百年前のモデルニズムの旗頭は、今後も人々を魅了していくことでしょう。



381  4月23日にバルセロナを訪れると



古代ローマ時代のスペイン地中海世界での中心地として栄えたタラゴーナ近くの、モンブラン村で、中世の頃奇跡が起
りました。

聖人ジョルディーノが、村娘をドラゴンの手から救い出してくれました。その時、討たれたドラゴンの血は赤いバラの花
に変わったと云います。4月23日は、カタルーニャ地方(中心はバルセロナ)の守護聖人ジョルディーノの日として祝わ
れます。
男性は、一輪の赤いバラを妻や恋人に誠実の印としてプレゼントします。お返しとして、妻や恋人は本を夫や恋人にプ
レゼントするそうです。
スペインの生んだ文豪セルバンテスもまた、この日に亡くなっており、女性としては少々出費がありますが、愛する人に
本をプレゼントする習慣だそうです。

もっとも今では、この日はユネスコが国際ブック・デーとして記念しています。同じ年の同じ月の同じ日(1616年4月23
日)に文豪シェークスピアも亡くなっている理由からです。あるいは、聖ジョルディーノは、ドイツでは聖ゲオルグ、イギリ
スでは聖ジョージ、フランスではジョルジュとして、竜退治(異教徒制圧や悪魔退治)の象徴になっています。商戦たけな
わの昨今、この日バルセロナのレストランや店に行くと女性は、山とバラの花を貰うことになるようです。



382  故郷ダマスカスに向けてモスクをつくった結果は?



云わずと知れたスペインのコルドバにあるメスキータ(回教寺院のこと)は、ウマイア家の王子アブドラ・ラーマン一世が
つくり始めたものです。

8世紀半ばから10世紀後半に亘って、町の人口の増加に伴って増築に次ぐ増築を重ねてつくられました。金曜日の正
午の一番大切な礼拝を行うためのメスキータが、3度も拡張されました。当時の後ウマイア王朝の都コルドバは、バグ
ダッドやカイロ、そして東ローマ帝国(ビザンチン・キリスト教帝国とも云う)の都コンスタンツノープルと並び称されるほ
ど栄えていました。

最初にメスキータを造った時、聖地メッカに向けて造らず、故郷ダマスカスの方角にミヒラブ(教祖マホメットゆかりのメ
ッカを向いてお祈りするための、大切な方向を示す凹みのある空間)をつくりました。余程故郷への思いがあったのでし
ょう。
こうして始まった建設は、ローマ時代に使われていた建物の柱などを有効に使い、短期間につくられたようです。太さの
違う、あるいは長さや色の異なる柱を使い、2層のアーチ(レンガと石の組合せからなる)で屋根と柱のバランスを巧み
に支えるつくりになっています。後日拡張した際には、柱の太さや長さも色も一定化してゆとりが感じられます。しかし、
初期の2層のアーチ(古代ローマの水道橋にヒントを得ているという)は、そのまま使われ続けられました。25万人の市
民が収容できるほど大きなメスキータに10世紀末になりました。
そして、13世紀の前半にレコンキスタ(キリスト教徒による国土回復運動)により、カスティリア王国のフェルディナンド3
世がこの町に入場して、キリスト教の支配下に入りました。かってのメスキータは、キリスト教の教会としてそのまま使
われました。しかし、16世紀の初め、大改造して大聖堂の建設に着手することになり、中央の一部をラテン十字形のゴ
チック様式を主にした、さらにバロック装飾を施したカテドラルがつくられました。

教会は、イエス・キリストの殉教した聖地エルサレム(ダビデ王が都とした)に向けて主祭壇がつくられる規則ですが、も
ともとのメスキータがダマスカスに向けて建てられたため、屋根を支える柱も壁も全てそのように配置されています。結
果としては、2割程度の柱を取り去り、そこに地上での神の家をつくりました。ダマスカスに向かってお祈りすることも出
来ず、周囲の柱のリズムと違えることも出来ません。90度南に振ることで主祭壇がつくられました。
真に大聖堂は大海(メスキータの古い柱の中)に浮かぶ小島といった風景です。
メッカもエルサレムもこの空間には適していず、最初のボタンをかけた(メスキータを故郷に向けた)人の思いが残って
います。16世紀前半を飾るスペイン帝国の皇帝であり、神聖ローマ帝国皇帝となったカール5世は、大聖堂建設のた
めにメスキータを破壊したことを聞き残念がったエピソードが伝わっています。



383  アレキサンドリアとそのゆかりの人達



アレキサンダー大王(紀元前4世紀後半の人)は、征服した町に数多く自分の名をつけました。


そんな町の中で、最も有名なのが地中海に面したエジプトのアレキサンドリアでしょう。ファロスと呼ばれた高さ百米の
灯台は、古代世界の7不思議の一つとして知られ、また大王自身の墓もこの町にあったと云われています。
プトレマイオス王家所有の70万巻のパピルスの蔵書を保管した図書館(紀元前3世紀初め)やミュージオン(芸術の女
神たちの神殿)は、ヘレニズム世界の学問と発明のセンターでした。なんと14世紀のパリにあった有名なソルボンム大
学の蔵書数が、僅か1700冊であったといいます。この町で紀元前270年ごろ、72人のユダヤ人学者が約70日かけて、
ヘブライ語からギリシャ語訳旧約聖書と経外典に訳しました。この聖書はセプチュアギンダといい、後のキリスト教発展
に多大な貢献をしました。
すでにこの当時、アレキサンドリアには60万の人が生活していました。
7人のアリキサンドリアにゆかりの人を次に述べてみましょう。

まずはアルキメデス(紀元前3世紀)で、科学者であり発明家でした。
サモスのアリスタルカス(紀元前3世紀)は、天体学者でした。地球を含む惑星が太陽の周りを回ることを考えたり、太
陽や月までの距離を測るのに三角法を使いました。

カリスカス(紀元前3世紀)は、図書館長を務め詩人でした。古典ギリシャ文学の収集をしました。
クラウディウス・プトレミイ(紀元前2世紀)は、天体学者です。彼の書いた地理、天体に関する本がその後の標準となり
ました。
エラトステネス(紀元前3世紀)は応用数学者であり、図書士でした。地球の円周をかなり正確に計算しました。
ユークリッド(紀元前2世紀)は数学者です。幾何学の父と呼ばれ、'エレメンツ'という書は19世紀まで幾何学のテキスト
として使われていました。また光学の研究もしました。
ガレン(紀元前2世紀)は物理学者で、薬学に関する書は12世紀の長きに亘り愛読されました。
眩しいほどに科学思考が、集中発展した世界がこの町にはありました。



384  これからの旅は?



日本は狭くない海で囲まれた島国国家です。

有史以来、政府の配慮でほっておいたら'井戸の中の蛙'になりかねないのを憂慮して、万難を排して中国、朝鮮へ国費
で新しい情報、文化、技術を学ぶためにエリートを送りつづけてきました。また、大陸の方からも自ら望んで亡命や、布
教の情熱に燃えて、生活の向上を求めて移住してきた人達のお陰で、日本は比較的安心して、中国を中心にした情報
を自分に合うように仕立て直して取り入れることで対応してきました。
百済に味方しての唐、新羅軍との戦い(7世紀後半)や元寇の役(13世紀後半)、南蛮船の到来(16世紀)や西欧、ア
メリカによる江戸時代末期(1800年代初め〜60年代後半まで)の危機はありましたが、それを乗り切るための英雄も
現れ、一致団結してなんとかここまでやってこれたと思います。最大の危機は、太平洋戦争の敗北だったと思います。
しかし、これまた戦勝国が、普通選挙や農地改革、復興のための援助までしてくれ、優秀な若者をアメリカの大学へと
やってくれるなど、歴史の中では有り得ようのない有難いとしか言いようのない処遇を受けました。

そして、1970年頃からはエリートではない普通の日本人が海外に自由に出かけられる時代がやってきました。高度成
長期のころ、海外旅行への素晴らしい夢を与えてくれたのが兼高かおるさんで、パンナム機に乗って世界の各地を紹
介してくれました。
70年代は、羽田空港から晴れ晴れと日本代表、会社代表といった風のツアーが多々ありました。やがて80年代以降
は普段着のままで、気楽に海外を旅するパターンが一般化しました。何か学ぶものはないか?向上するための知恵、
技術、方法手段を探しての視察旅行も今に至るまで行われています。危機感を持ちつつ、何かに背中を押される感じ
の中での海外への旅は、決して奨めませんが、ただ安易な旅行も決して褒めたものではありません。
およそ2千万の日本人が毎年海外に行き、世界では4億の人が大陸を行き交う今日、改めて味わいのある、襟を正し
た、心を開き謙虚な姿勢の旅、あるいは自然との触れ合いを大切にする旅を奨めるものです。



385  ユスチニアヌス1世と皇后テオドラの恋



テオドラは5世紀末、身分の低いサーカスで働く両親から生まれました。

長じて踊り子あるいは女優(時には売春も?)になります。生来の弱者に対する優しい心を持ち、輝くばかりの美貌の
女性に成長しました。皇室の出であるユスチニアヌスは、法律を変えてまでも身分の低いテオドラと結婚します。
やがて皇帝であった伯父の死によりユスチニアヌス1世(527)として後を継ぎます。
ニカの乱(532)ではコンスタンチノープルの町が恐怖の底に陥りますが、テオドラの強い助言を得て、氾濫を収拾しま
した。彼女は夫へ次のように言ったそうです。
'人は誰でもやがて死にます。危機に背を向けてはいけない。皇帝は毅然としているべきです。'と。
東ローマ帝国の領土は2人の時代に広がりました。イタリア(東ゴート族の手から)やアフリカ北部(ヴァンダル族の手か
ら)を、そしてスペイン(西ゴート族の手から)までも獲得しました。
ユスチニアヌス1世は、三つの重要な事業を行いました。
1. ローマ法大全をつくりました。皇帝の勅令集、法学者の著作集を整理したり、法律の
手引書を含むものでした。これは、近代法の基になっていてヨーロッパひいては日本の明治憲法にまで影響を与えるも
のでした。
2. キリスト教布教の中心として聖ソフィア大聖堂をつくりました。
3. 中国から養蚕業を取り入れ、絹織物産業を盛んにしました。
やがて皇后テオドラの死(548)が訪れ、妻の死から17年後に皇帝も亡くなりました。
7世紀に入ると、イスラム教の勃興により領土は縮小しますが、固有のキリスト教(ギリシャ正教)が育ちビザンツ帝国
としての新たな出発を迎えることになりました。
アドリア海に面したイタリアのラベンナにあるサン・ビターレ教会(6世紀)の内壁を飾るユスチニアヌス1世と皇后テオド
ラのガラスモザイクは、今も燦然と輝いていて訪れる人の心を魅了しています。
  

トップへ
トップへ
戻る
戻る