希望



366  4千年前の女性もシルクを着ていた!? 



'誰もが時代と地域を繭のようにして育つ'と書かれた一節を、司馬遼太郎さんの本の中に見つけました。

クレタ島のミノア時代の遺跡から、現代のカイコの繭に似たものが見つかったそうです。
4千年前の人もカイコを飼い、絹をつくり着ていたのでしょうか?
クレタのパリジェンヌと呼ばれる、壁画に描かれた女性が身に着けているのはシルクの類いだったのでしょうか?
ふるきを訪ねて新しきを知る(温故知新)の通り胸がワクワクしてきます。



367  グラナダとラスベガスは親戚



ヨーロッパでイスラム芸術の素晴らしさを感じる町、それはスペインのグラナダです。

グラナダ(ザクロという意味)は人口29万人で、年間200万人の観光客を迎えます。
シェラネバダ(雪を被った山脈と言う意味)の麓にある盆地(ベガ)に開けた町です。
かっての産業は、砂糖大根を育てての砂糖の生産でした。19世紀から20世紀にかけて砂糖工場で使った大きな車輪
を持つ機械が、川沿いの公園の一角に置かれています。
1829年にアメリカ駐スペイン大使ワシントン・アービングが、アルハンブラ宮殿に滞在しました。そのルポルタージュをま
とめた本がアルハンブラ物語です。
この本が大ベストセラーになり、その後は観光のメッカとして今日に至っています。

この地からアメリカへ移住した人達が住んだ町が、ネバダ州のラスベガス(多くの盆地)で、そこで植えたものが砂糖大
根でした。

ザクロの実には、613個の種があると言います。
ユダヤ教の聖書にあたるタルムードは、613章からなっているそうです。
タルムードは、ザクロの実の汁をインクとしてかいたそうです。
グラナダの町の名付け親は、ユダヤ人だったのでしょうか?

旅は温故知新でもあります。



368  頭を空っぽにするのも旅の魅力



小説を書いたり、雑誌社へ記事を載せたりするのを職業にする人達は、毎日何十枚も原稿を書くのは、時には大変だ
そうです。

全く頭に湧いてこず、締め切りの時だけが近づいてきて焦ります。きっかけやアイディア、刺激、何であれ核になるもの
が見つかればよいのかも知れません。後は自然に膨らんでくるのでしょう。

モーツアルトは人生の1/3を旅に過ごした人であり、手紙の中で新しいものを見つけるためにも旅の重要性を語ってい
ます。
人気のない冬の地中海の島で遺跡を廻ったり、博物館を訪れたり、日本では味わえない中近東料理を現地の人達に
混じって食べたり、ガイドや運転手、ウエーターの温かみに接したりするうち、気持ちが楽になり頭の中もすっきりして、
意欲が満ちてくるのかも知れません。
親しい友が1週間フィジ島へ行ってきました。'何もしないのがこんなに素晴らしいのを初めて知った'と語ってくれまし
た。



369  豊かなキプロス島はビーナス信仰の生まれたところ



現地旅行者の支配人によると、キプロス島は豊かだと言います。

1976年にはレバノンから,1990年にはクェート、そして1990年代はロシアから金持ちがやってきて住んでいるそう
です。政治的にはトルコとの間に問題があるが,経済的には問題はありません。日本人は好きであり、島には日本の
車やテレビ、電化製品が溢れています。そして、植民地支配した英国からは自らを律する良い習慣を学んだそうです。
島の西半分(東半分はトルコ領)を見て回った印象は、同じ島でありながら随分日本とは違う環境の中で生きてきた人
達だということです。
9千年の歩みは、新石器、石器と銅の併用、青銅、鉄、幾何学文様、アルカイック、ギリシャ古典、ヘレニズム、ロー
マ、キリスト教、ビザンチン、アラブ、十字軍、べネチア、ジェノバ、オスマントルコ、英国そして独立、トルコの侵略,分
割時代がありました。
なにせトルコの海岸が目で見えるほどの近くにあり、中近東が目と鼻の先にあります。

島では発掘が盛んに行われていて、まだまだ知られざる顔がたくさんあるようです。
ビーナス誕生の海岸(旧パフォス近く)の低い丘陵越しに夕日が海に沈み行くのを、少し離れた丘の中腹のレストラン
から30分眺めていました。オレンジっぽい陽の光の中、澄み切った空気を吸って風に吹き寄せられたビーナスは,泡
から生まれこの海岸に上がったかも??と想っていました。
元々は、このあたりで信仰されていた豊穣を祈るため、黒光りする高さ1米ほどの石をより所として拝んでいたようで
す。ヘレニズム・ローマ期になると、現世的な即物的な美、愛、セックスを主にしたビーナス信仰に変わりました。ローマ
期にはビーナス神殿を奉る聖域では、おおぴらに売春も行われていたようです。
島での夕食のレストランでは、料理やワインも美味しくて、中近東の音楽が流れ、遅くまで賑わっていました。
島の西半分は、今ではEUに加盟して新たな歩みを始めました。



370  全ては変わるが、変わりにくいものを見聞きする喜び



2004年にアテネでオリンピックが開かれるのを期に,飛行場が新しくアテネ市から遠く離れた人気のない所につくられ
ました。

それ以前の空港は、サロニケ湾に面したアテネに程近い喧騒の巷にあり、滑走路を共有する東西に分かれた2つのタ
ーミナルがありました。東ターミナルは大きくて明るく世界各国からの飛行機会社が使い、西ターミナルは小さくて狭く
暗い感じを抱かせますが、それだけに親しみも湧きどちらかと言えば、田舎の伯父さん叔母さんがたむろしている雰囲
気がありました。オリンピック航空の専用ターミナルでエーゲ海の島々などとの国内便が行き来していました。今はもう
使われていないのでしょう。

以前アテネに来たとき当地で生活する日本人男性ガイドが,現在のギリシャ人も古典時代のギリシャ人同様,哲学論
議が好きだという主旨の話をしてくれました。
彼があるとき市内バスに乗っていると,床に落ちている紙くずの処理責任の帰属をめぐって,客と運転手がああでもな
いこうでもないと丁々発止やりあう場面に遭遇したそうです。
言葉の言い回し、抑揚、表情はまるでギリシャ古典劇を見るかの如くであり、文語調で延々おこなわれたそうです。バ
スに乗り合わせた客は、進行するバスと共に劇の進行を楽しんでいたそうです。
さしずめ現在の日本であれば、ゴミの一つなど無視してしまうでしょうが、清掃責任がバス会社にあるのか、運転手か、
落とした客にあるのかをめぐって哲学する姿は、些細に見えて深いものを含んでいるようにも思えます。



371  クレタ、サントリーニ島をめぐって



アフリカ、中近東、地中海が一体となった紀元前2500年から紀元前1500年頃の東地中海の文化、文明は、21世
紀への指針を示しているようです。

ヨーロッパ人(古代ギリシャ人から始まったと考えれば)以前に地中海世界に住んでいた人達は、自由で形式に捉われ
ないで生き生き生活していました。地中海の貿易が盛んに行われ、取引相手を信頼し認め平和を愛する人々が、土地
にしっかり足をつけ気候にも恵まれた中、上下水道設備の完備した住居に快適に生活していました。
クレタ島のイクラリオンにある考古学博物館には、この島内で発掘された当時の生活用品が展示されています。あるい
は住居や宮殿内に描かれていた壁画には肩の張らない自然な物腰の女性像や動物と人が一体となったサーカスのよ
うな壁画などは明るく楽しい生活していたことを想わせます。
残念ながらサントリーニ島(キクラデス環状諸島の一部)あたりで起こった海底火山の噴火による地震津波(紀元前15
00年ぐらい前)により、平和な生活は一大変化を余儀なくされました。
バルカン半島へ下ってきたミケネ人(紀元前15〜12世紀)やギリシャ人(紀元前8世紀頃のドーリス人)は、規律を重
んじ男性的で戦いを好む民族でした。紀元前5世紀には、アテネでは理詰めで科学的な土木建築の粋と今に至るまで
いわれるパルテノン神殿をつくりあげました。地中海世界は新たな展開を見せ、その後はマッチョマン的なリズムが支
配する世界になりました。
訪れた2月のサントリーニ島は、風が強く吹き小雨が降る寒い所でした。しかし、この島で生まれた垢抜けしていない風
貌でごつい手足を持った堂々たる体格の私たちのドライバー氏は、どんなに金を積まれても、たとえアテネの宮殿に住
ませてあげると誘われても、この島を出る気は毛頭ないと言って胸を張りました。島に生まれたことを誇りに思い,公害
や交通渋滞〔45年前に初めて自動車用の道が出来た〕のない静かで平和な生活に満足している様子でした。



372  サントリーニ島の女性ガイドは次第に熱を帯びてきて?



葡萄のつる枝が本木をぐるっと囲むように出来た葡萄畑は、この島の風の物凄さを語っています。

この島では大昔から大麦がとれたそうで、パンやビールもつくっていました。紀元前1530年に起った地震で消えてしま
ったアクロティリの遺跡が1967年に見つかりました。
この遺跡は、現在のサントリーニの村と同様,曲がりくねった細い道、建物の壁と壁が寄り添うようにつくられていて、
風除けあるいは強い日差しを避ける工夫がされていました。
主要道路の下に配水管が敷かれ(レンガで出来ていた)、各家(2階から3階建て)に備えられた洗面所やトイレ、炊事
場などの生活用水は下水管に流されました。住宅空間として主に使われた2階3階の部屋の壁には、当時の生き生き
した生活ぶりや自然の風景、動植物の図柄が描かれています。発掘は僅かしか(1/30ほど)未だ行われていません
が、生活レベルの高さ、豊かさに目を奪われます。古代アクロティリの人々は、船主であり船乗りで貿易を主にしていた
と考えられます。クレタ島のミノア人(裕福ではあるが船を持たず、船乗りでもない)に代わり、中近東、アフリカ、エーゲ
海あるいはヨーロッパの物産を手に入れる仲介をしました。象牙や金、木材など多品目に及んでいました。
またバルカン半島からミケネ人がキクラデス諸島やクレタ島を侵略する400年も前に、ミケネ人のヘルメットが、この島
の遺跡から見つかるのは、こちらから積極的にバルカン半島(ミケネ人の住む)へ交易に行ったことを証明しており、決
してミケネに屈服したのではないといいます。
第2次大戦後、ギリシャは全てを失ったにもかかわらず、オナシス家に代表される船(商船隊)と船乗りを要して、世界
の貿易の仲介をしました。現在の地上での最強国家アメリカは、クレタ(ミノア人)同様、富は持っているが船も船乗りも
持っていないと言います。
伝統は続いていて、中世から近世にかけてオスマントルコ帝国に支配されましたが、陸の勇者(オスマントルコ)に対し
て弱者の知恵でギリシャは、海の勇者として生き続けたともとれます。
サントリーニ島の女性ガイドは、ギリシャが貧乏で見るに忍びないので第2次大戦後、ギリシャに入ってやったとも言っ
ていました。
2月という寒い閑散とした頃やってきたのですが、女性ガイドの軽いパラノイア的な島を愛する故の熱気に煽られ、いつ
の日か気候のいい頃にもう一度訪れたいものだと思いました。



373  コアラが教えてくれたこと



コアラは毒を多く含むユーカリの葉を食料をして生き、その毒は内臓で分解され無害になる仕組みを持っています。

他の動物が食べないものを食べることで,生きる道を見つけたようです。ユーカリの葉は栄養がほとんどなく、1日の20
時間近くを静かにしていてエネルギーの消耗を防いでいます。10頭ぐらいがつかず離れずの集団生活をしていて、群
れにはボスが1頭いて体から出す匂いをユーカリの木につけて回ります。仲間の中で最も強いものがメスと交わり、子
孫を残すそうです。
あらためて人間の世界以上に厳しい生き物の競争のあることを知りました。
オーストラリアのニューサウスウェールズ州で観察されたコアラの生態フィルムを見ての感想です。



 374  アラスカでのゴールドラッシュの中継地として出発したシアトル



1897年にアラスカのユーコン河で見つかったゴールドが、アメリカのカナダ国境近く太平洋に面した港町シアトルに届
けられました。

以来,人々で賑わう所となり、ダウンタウン(港近くの下町)には正規の、あるいは怪しげな商売が多々生まれました。今
でも当時の面影を体験できる徒歩での下町散策ツアーがあり、粗悪な環境の中で服など縫っていたお針子達の仕事
場などが見れます。
百貨店のノードストロームの社長は、アラスカで手にしたゴールドを元手に雑貨商を始め、やがてシアトル一の百貨店
へと成長しました。また、このシアトルの地でスターバックス・コーヒー、マイクロソフト、ボーイング社などが産声を上げ
ました。各成功した企業の裏には、個々人のアイディアや能力を最大限に引き出し、チャレンジ精神の持ち主を採用し
て生かして使う伝統のシアトル魂があるようです。
まことに逞しい生き方と云えましょう。



375  乾燥化が東アフリカの地に人を生んだ



チャールズ・ダーウィン(19世紀後半に活躍)は、人に似ている猿、ゴリラそしてチンパンジーがいずれもアフリカに住ん
でいるのを理由に、人の先祖はアフリカから生まれたと考えました。
しかし、当時の社会はそれを受け入れませんでした。やがて19世紀末から今に至るまでアフリカ、ヨーロツパ、中近東
そしてアジアの各地で猿人から人までの進化あるいは突然変異によって生まれた猿人族の、化石や骨、遺跡や絵、道
具などが見つかっています。
今では、東アフリカの地が乾燥化したのが、地上を2本足で歩く猿人(アストロピテカス・アファレンシス)を生み出したと
考えられています。
400万年も昔のことです。
東アフリカの乾燥化は次のようにして起りました。

4千万年前に洋上を移動していたインドがアジア大陸にぶつかり、くっいたと時にヒマラヤが3千キロに亘り隆起して、8
千米の高い壁になりました。インド洋でつくられる湿った空気が、ヒマラヤの壁にぶつかって雨を降らせます。そして、
乾燥した風となり西へと吹き、中近東や東アフリカを乾燥化させることになりました。
また、1500万年前には、東アフリカで土地が千米も隆起する現象が起り,縦に数千キロに亘り、3千米の深い亀裂(グ
レートリフト・バレー)が入りました。
結果として、西アフリカの地は雨が降るのに東アフリカの地は、乾燥化が進むことになりました。
そして、およそ1500万年前に猿人(ホミニズ)は猿と別れ、400万年前にはアストロピテカス・アファレンシス(ルーシー
という名で呼ばれる化石が見つかる)族が直立で2本足で歩きました。直立して歩くには骨盤の形が大切になります。さ
らに骨盤の間を通って生まれてくる、赤ちゃんの頭の大きさも重要です。
人の赤ちゃんは、成人の1/4サイズの頭で生まれ、生まれた後著しく頭が成長します。
一方チンパンジーの方は、1/2サイズの頭を持った赤ちゃんが骨盤の間を通る為、直立して真っ直ぐに歩くには適し
ていません。
250万年前ごろには、ホモハビリス(道具を使うという意味)族が東アフリカの地に現れます。頭のサイズは、人(ホモ
サピエンス)の約半分650立方センチメートルありました。彼らは石を道具として使い、乾いた所では果物やその他の
植物が不足しがちな中、動物の肉で補充することを考えます。例えば、空に禿げ鷹が舞うのを見て、その近くに動物の
屍骸があるのを察知します。やがて強い動物が食い散らかして立ち去った後、骨の中に残されている柔らかい髄(骨
髄)を石で割って食べる知恵を身に付けました

この頃(260万年前)から乾燥に加えて、地球では氷河期と間氷河期が始まりました。
その後、東アフリカの地にはパランストプス・ボイセイ(地中にある硬い球根を掘って食べるのを得意とする)族やホモ・
ルドルフェシスが誕生します。彼らは猿のように体毛が生えていて、動物の目を持ち、未だ言葉は話しませんでした。
200万年前には、ホモ・エルガステルやホモ・エレクタスが出ます。獲物を分け合って食べることで、初めて伴侶が持て
るようになり、子育てや言葉も話すようになります。そして眼に白膜が出来、やがて1万キロの旅の末、中央ヨーロッパ
やアジアの地へと移動する一団も出ました。
140万年〜50万年前になると、火を使うことを学び、創造と想像が出来るようになりました。
40万年前には、ハイデルベンゲンシスが現れ粗野な小屋に住みます。未だ死体を埋葬することはしなかったようで
す。
そして、ネアンデルタール人の登場となります。23万年〜2.8万年前まで生息したようです。言葉、思考の発達が見ら
れ、動物の皮で服を作り、目的別の道具を持ち、洞窟生活者であり、囲炉裏で料理をしました。尖った石を木槍りの先
に取り付けて狩りをしました。
クロマニオン人は2.5万年前まで生きていました。洞窟に彼らの残した絵が見つかっています。季節により住居を変え
たり、石やビーズ,貝などを遠方と取引したり、言葉で推理や比喩表現までしています。

そして、約15〜10万年前に東アフリカの地にホモ・サピエンス(人)が,乾燥した気候との戦いの中で生まれ、先を見
越す能力(頭脳は1350立方センチメートル)を身に付けます。例えば、空になったダチョウの卵の中に水を入れて、木
の根元に埋めておきます。乾燥した大地の中を獲物を求めて彷徨っても、木の根元へ行けば水が用意されているので
心配が減ります。
そして4万年前には、人はアフリカの地を離れて世界各地へと広がって行きました。
ゴールデン・アイディア(先を見越す能力)を体得した人族は、他の生き物の先頭を走ることが可能になりました。

(英国BBC放送のWalking with Cavemen からの抜粋です)
  

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