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希望




356  スペインの囲碁狂が教えてくれたファバド料理



大鍋に生の大粒の白インゲンの豆をたっぷり入れ、チョリッソ(安いソーセッジ)、ハモーン(生ハム)、モルシージャ(豚
の血を固めたソーセッジ)を太めに切って入れ、アホ(ニンニク)も好きなだけ入れます。

あとは好みに応じて、トマトや玉ねぎ,ジャガイモや月桂樹の葉を入れるだけです。最後に水を鍋の淵近くまで入れて
弱火で3〜4時間煮ると出来上がりです。途中で水が減ってきますので目分量で水を何回か足してやります。調味料は
何も入れません。それぞれの肉が持っている味が染み出て丁度いい味をつくります。
冬の夜など友人とワインを飲み交わしながら好きな碁を打ちつつ、栄養たっぷりのこの料理を口に入れるのは、ちょっ
ぴり寂しい女性っ気のない生活も忘れてしまうそうです。
このファバド料理は、今ではスーパーに行けば,材料がセットになって売られているほどです。スペインのアストリア地
方(北スペインの内陸にあたり、イスラム教徒から失った国土を取り返そうというキリスト教徒達によるレコンキスタ運動
の起った所)の名物料理です。



357  チェスク・クロムロフ、ベローナそしてトレドに共通するもの



ブルダワ河(チェコ)、アディージェ河(イタリア)そしてタホ河(スペイン)がそれぞれの町チェスク・クロムロフ、ベロー
ナ、トレドを囲うように鋭角に曲がり流れています。


2/3ほども水の流れが町を取り囲んでいるでしょうか。残った1/3は高く市壁が立っていたそうで、外からの進入に備
えていたようです。水の流れが天然の要塞の役目を果たしていました。また平時には河の水の流れを利用して、物産
や人の交流が行われ経済や情報が潤ったことでしょう。精神面の支えである教会や,貴族職人町人などの住居に加え
て、彼らの自治の表れである市庁舎などが残っていて訪れる人を魅了します。



358  トラベル(旅)とトラブルは同義語だという



ビハール州(北インドにあり今は貧困に喘いでいる)の州都パトナ(2千数百年前はパタリプトラと呼ばれ、ローマまでそ
の名が知られたアショカ王時代の都)から8時間の予定でチャーターバスに乗り、ベナレス(今はバラナシという)へと向
かいました。

しかし、途中でエンジンが故障してしまい、通りかかったトラックの後部荷台に全員乗せてもらい、,満天の美しい星空を
見ながら夜中近くに、やっとシバ神の聖地でありブッダの初転法輪(初めて悟った法を説く)の聖地サルナートを郊外に
持つベナレスへ着きました。
2日後、修理が終わった同じバスで、釈尊(ブッダのこと)の涅槃の聖地(亡くなった所)クシナガラへと出発しました。し
かし、また途中で故障してしまい、タクシーを近くの町で都合して急場をしのぎました。悪いことは続くもので、その後祇
園精舎(サヘト・マヘトと呼ばれている)近くでは大型トラクターの荷台にも乗りましたし,ラクノー(ウター・プラデシュ州の
都)近くでもバスの故障からリキシャ(2人を後部座席に乗せて走る足こぎの3輪車)の世話にもなりました。

旅はトラブルと語源が同じだと言いますが、思い出深い旅が多く体験できた1970年代のインドへの旅行でした。



359   バルセロナの誇り



東に地中海の海が開け、三方を山に囲まれた温暖な風土気候に恵まれた土地柄がバルセロナです。

素晴らしい歴史を刻んできました。フェニキア人、ギリシャ人、ローマ人達の基地として古代には発展しましたし、13〜
15世紀にはアラゴン・カタルーニャ王国が地中海を舞台に貿易で活躍しました。19世紀には、綿工業を中心に産業資
本家が育ち、町づくりや芸術家達の良き理解者(パトロン)になりました。
三つには、ガウディやピカソ、ミロやダリなど優れた芸術家を輩出しました。
自由人で時には反骨の人であった彼らは地中海世界に生まれ、ギリシャ人以前の自然や人と共生する知恵が生まれ
ながらに育つ環境を、受けているように見えます。

ピカソの美術館は港近くの旧市街にあり、その建物は13〜15世紀の地中海貿易で活躍した貴族の館であったもので
す。美術の先生を父にもつピカソ(1881〜1973)は、マラガ(アンダルシア地方の港町)に生まれ、ガリシア、バルセ
ロナなどで10代を過ごしています。その頃の作品は具象絵画ですが、モーツアルト同様親に教わらずとも非凡な才能
を幼くして身につけていたことが分かります。さらに1957年(76歳)に描いた女官たち(ラスメニナス)は、300年も先
輩にあたる天才画家ベラスケスへ挑戦した確たる心意気を感じます。

ピカソ美術館の近くには、カタルーニャ音楽堂があります。
ドミニック・カンタネールの作品でレンガ、モザイック(セラミックを使う)、ステンドグラス、大理石などを素材に使い、カタ
ルーニャの守護聖人である聖ジョルディーノの象徴バラの花が多く配されたモデルニズモ(19世紀末芸術運動)の傑
作です。ガウディとは2歳違いですが、芸術学校ではガウディの先生でした。
1888年と1929年には万博を、1992年には夏季オリンピックを行いました。
新市街の広い四つ角の斜めに切った駐車留め(馬車用としてつくられたという)などは、バルセロナ市民の先見性を充
分に表しています。バルセロナの女性公認ガイドが胸を張って語ってくれました。



360  ペセタは消えてもメセタは残る



数年前の貨幣のユーロへの変更で,長年使ってきた茶色(スペインの大地を思わせる)系のペセタ紙幣は、使われなく
なりました。

スペインに行くと、使いがいのあったペセタ紙幣や物価の安かった頃を懐かしむ人達に出会います。一方メセタとは首
都マドリッドを中心とした高地帯(海抜600米〜1000米)をいい、乾燥した赤茶けた大地の続くところです。葡萄畑や
オリーブ畑が連なり,夏には赤いケシの花、黄色いサフランやひまわりの花が咲き、かって粉を挽いた風車や崩れた要
塞が丘の上に残るスペインの顔だと思っています。
最も大航海の始まるまでは、豊かに森林が育ち緑緑していたと言われています。大型船の建造のために森を切り崩し
た結果、やがて乾燥して行ったようです。ミュージカル'マイ・フェアー・レイディ'の中で歌われた'スペインの雨は主に広
野に降る'(The rain in Spain stays mainly in a plain) の広野(Plain)はメセタ地方のことをいったと聞いていま
すが、きっと大航海時代(16世紀)以前の森が豊かにあった情報に基づいて詩が書かれたのでしょう。



361  リスポンスは大切



20世紀を代表する歴史学者、アーノルド・トインビーは文明の興亡をチャレンジとリスポンスという2語で表現しました。

新たに興った勢力が,すでにある偉大な勢力(文明)に対してチャレンジ(挑戦)します。これに対して、どのようにリスポ
ンス(応答)するかが大切であり、挑戦と応答の中から何かが生まれるということのようです。

ある人は子供(未来の大人)に対して、返事(リスポンス)をすることの大切さを教えていました。リスポンシビリティ、リス
ポンシブル(責任ある)は、リスポンス(返事)することにより生まれるのであり、責任ある人、信頼される人になるには
聞かれたり話しかけられた時には、返事するようにしましょう。コレスポンダンス(文通、乗り換え)とは、互いに(コ)返
事しあう(リスポンス)ということです。
リスポンスを誤った文明は、滅びていくことになるようです。



362  月は東に日は西に



冬の初め、ラ・マンチャの平原をトレドからバスで風車と中世の要塞の残るコンスエグラの丘に立ち寄り、近くのプエル
ト・ラピス村(ドン・キホーテ物語の作家セルバンテスが泊ったというペンタ・キホーテがある)で小休止の後、国道をアル
マグロ(国営ホテルパラドールのあるマイヨール広場のつくりがユニークな町)へと向かっていました。

周りが360度見渡せ、野焼きの煙がところどころで立ち上がっています。オリーブ畑では、収穫期が近づいているよう
ですし、一方葡萄畑は枯れた草が残っているのもあれば、裸木になっているのも見えました。
西の空は足早に沈み行く夕日で赤く弱く染まっています。一方、東の空はどんどん暗く変わって行き真ん丸い月が少し
ずつ上がってきました。
車中では、誰が歌い始めたのか、やがてみんなで十五夜お月さんの合唱となっていました。



363  長槍と鉄砲で勝利した信長秀吉の戦術はスペインから学ぶ?!



ポルトガル人が種子島に鉄砲を伝えて(1543年)以来、急速に戦国の世は終焉に向かうことになりました。

武田の騎馬軍団は長篠の戦い(1573年)で三列になって代わりばんこに放つ、足軽の鉄砲隊の前に馬上の侍は敗
れ去りました。1580年にはポルトガルは隣国スペインの支配下に入っています。天正年間の少年遣欧使節団(1582
〜1590)や支倉常長のノバ・エスパーニャ(メキシコは新スペイン帝国と呼ばれていた)そしてローマ法王謁見の旅(1
613〜1620)は、ヨーロッパで最大の権力者であったフェリッペ2世やフェリッペ3世の理解と援助無しには成立し得
ませんでした。フェリッペ3世に仕えた宮廷画家が、ベラスケス(1599年生まれ)です。下絵を描いたり、デッサンする
こともなく直にキャンバスに色を塗っていく、当時としては考えられない手法で描いています。
今のカメラに映るように、つまり中央の焦点は合っているのに前方と後方が少しぼけるような描き方で、空間の広がり
を感じさせるラス・メニナス(女官たち)の絵だどは天才の名に相応しいものでしょう。乞食や普通の人を、貴族やギリシ
ャ神話の神々と同格で描くなど内面に秘した思想の凄さを感じさせてくれた人です。
ベラスケス作の'ブレダの勝利'(1625)と題するベルギー軍と戦ったスペイン軍の場面には長槍や鉄砲が描かれてい
て、遠く日本での戦国時代の幕引きにこの鉄砲や長槍がスペインの戦法にならい使われたであろうことを感じさせま
す。

冬の近づくプラド美術館の中,紐でつなぎ、さらに手をしっかり互いにつないだ幼稚園生が、先生に連れられて絵を観
にきています。そこには生活感があり、生きた教養に幼くして接する機会に恵まれた環境が整っているようです。



364  腹が減っては戦は出来ぬ



腹が減っては戦は出来ぬとは、戦国のならいでした。

我々日本人は、昼食は12時過ぎから食べるものと思い込んでいますが、そうでない1時ないし1時半、2時頃から始ま
る国も少なからずあります。無理にお願いして12時半に開けてもらうことにしてありました。ゆっくりと時間調整して、景
色をめでながら行ったのですが、やはり12時過ぎには着いてしまいました。案の定、レストランの入り口は閉まってい
ます。仕方なくバルコニーから遠方に見えるトレドの旧市街を眺めていると、レストランの責任者が下の駐車場から上
がってきました。今働きにやってきたようです。しばらく外で待たされ12時15分過ぎにレストランの中へ入れてもらいま
した。すると、従業員は未だ食事の最中です。広いレストランの台所寄りの一角で、6〜7人の男女が3〜4リットル入り
の水のプラスチックボトルを中心に、スープや肉などをパンと共に食べていました。
シガラールとはトレドの旧市街が見渡せる貴族の屋敷だけに敬称された名だそうです。
このモンテ・レアールレストランはシガラールだったそうです。席に座って待っていると、なんと先ほどのマネージャーが
パンを運んできたり、飲み物の注文を取り、自分でジュースやワイン、ビールそしてサングリアまで持ってきてくれまし
た。
なるほど部下には腹いっぱい食べさせ、やがて始まる戦(昼食のサービス)に備えさせる上官の気持ちを今も持ってい
るのかな?と思ったものでした。同じようなことはフランスのリヨンでも経験しましたし、イタリアでも時には同じような目
に出会うことになります。

戦争の天才と言われたナポレオンは、士気を落とさないためにも部下への食料調達が何よりも大切だと云っていま
す。



365    2005年の6月にアメリカを旅して



入国手続きでは、左右の人差し指の指紋とカメラに向かって顔写真を撮る作業が加わっていました。

そして飛行機の乗換えやチェック・イン後の手荷物検査と身体検査が以前にも倍して厳重に行われています。チェック・
インはEチケット(エレクトリック・チケット)の場合は、器械にパスポートを通すことでコンピューターによる確認が行わ
れ、人ではなく器械との会話で搭乗券や荷札(クレーム・タッグ)が出てくる仕掛けになっていて、Eチケットは確認程度
の役目のようです。アメリカ人でもこの新しいやり方に戸惑いを覚える人が多いそうです。人件費の削減とコンピュータ
ーにより米国にとり好ましくない人物が飛行機に乗れないように徹底してコントロールする時代に入っている印象です。
また、カナダのトロントとカルガリーの空港では、アメリカの入国や税関の手続きが行われていて、互いに友好国同士と
はいえ、隣国の縄張りの中に入ってきて米国の公務員が仕切っているのには驚きました。米国に入ってからの飛行機
の乗り継ぎなど時間の節約になっているのですが・・・・

ロータリークラブが誕生して(1905年)丁度百年目にあたる今年は、誕生の地シカゴで国際大会がありました。ループ
と呼ばれる高架電車が走る旧市街の一角にあったビル内で数人の心ある人が集い、互いに情報を交換し合いビジネ
スの便宜を計ったり、当時のシカゴの町は飲酒や暴力沙汰が絶えず治安が悪く、その対策や知恵を話し合ったのが始
まりでした。ミシガン湖畔にあるマコーミック・コンベンションセンターには世界中からメンバーがやってきていて、様々な
服装(アフリカの民族衣装や韓国のチマチョゴリなどは目だっていた)に身を包み互いのバナーやバッジを交換し合っ
て、年に一度の国際大会を祝っていました。

マコーミック・センターを少し南へ車で行った所に名門私立シカゴ大学があります。何処から何処までが大学か分から
ないほど広いところですが、新旧の建物や広大な緑の芝生、車道が縦横に走っています。その中に20世紀の前半を
代表するアメリカの建築家フランク・ロイド・ライトが設計した建物があります。この人は、旧帝国ホテル(東京)を設計し
た人で、日本の伝統の美を取り入れた独自の境地を見つけた人のようです。今では、シカゴといえば奇想天外な建築
物の集う町として評価が高く,夜などミシガン湖畔のアドラー天文博物館傍から見る摩天楼群の景色は絵もいえないほ
ど美しいものです。
また、シカゴ大学内の一角に1942年に原子力核エネルギーの実験室での実験に初めて成功した記念碑が立ってい
ます。この地から研究が始まり、やがて広島、長崎へ原子力爆弾が投下されることになりました。旅はナイアガラの滝
やバンフ国立公園の自然の壮大さを感じながら続き、ネバダ州のラスベガスへと行きました。
ネバダとは白い雪を被ったという意味、ラスベガスとは多くの盆地ということです。いづれもスペイン語であり、南スペイ
ンのアンダルシア地方にあるグラナダあたりの人が多く移住して住んだ州であり町だそうです。故郷のグラナダでは、
万年雪を被った3千5百米ほどのネバダ山脈そして周りの盆地(ベガス)に、この雪解け水を利用して栽培した砂糖大
根を、この新天地でもコロラド川の水を利用して試みました。
19世紀にはネバダでは、銀が見つかり多くの人が殺到して移り住みました。今も別名シルバーステートと呼ばれていま
す。一攫千金を夢見る人達が集えば、ギャンブルが始まります。カジノの町の芽は元々あったようです。
雨が殆ど降らず、日中は35度を越える乾燥した土地柄の中で、ロッキー山脈から流れ出るコロラド川の水を堰き止め
ダム(フーバー大統領の名がつけらている)をつくりました。このダムの建設のための作業員や銀を求めてやってきた
人達、砂糖大根を育てる人達が集まってラスベガスの町が生まれたようです。今では、170万人の人が暮らし、7割の人
が世界中からやってくる観光客相手の仕事(ホテル,レストラン、土産ショップなど)で生計をた立てているそうです。年
間600万もの人が訪れ一人平均3万円ほどラスベガスに金を落とすそうです。以前は、カジノ、ギャンブルの町という暗
いイメージがありましたが、ここ10年ですっかりイメージ・チェンジに成功したようで、ディズニーランド的なファンタジーな
アトラクション(消防車のホースに似た数百本のホースが音楽にあわせて水を放水して舞ったり、海賊船同士の戦いが
あったり、火山が噴火したりなど)がラスベガス大通りで無料で見学出来たり、各ホテル内ではテーマ館のような設定に
なっていて、サーカスやイタリアのベニス、フランスのパリやニューヨークのマッハッタン、イスラム世界の町に行ったよ
うな錯覚を起こさせます。
どちらかと言えば、楽しく家族連れや恋人同士でやってきて時を過ごす中で、ゲームの一つとしてカジノを楽しで頂こう
といった方向に向いているようです。
乾燥化した砂漠の中で、水を大切に節約して使うのが務めのはずが逆に大量に水を使ったアトラクションが目を引き,
夜ともなれば電力をこれでもかというほど無駄使いして町を昼の如く明るく照らし、食事も飲み物も気前良く安く提供す
るなど、王侯貴族でなければ味わえないはずの世界を誰もが享受出来る町を現出しています。
改めてアメリカの魅力である大きいこと、量が多いことという誰もが納得する価値を作り出してしまったことに脱帽しまし
た。しかし、人間は欲が深くこの罠にかかり易いため、健康レベルをはるかに超えた肥満体の人や謙虚な態度に欠け
る人が多く生まれているように感じました。
  

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