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希望




336. ハンプトンコート宮殿にオランダからの贈り物を見る



空気のよどんだ喧騒の巷のロンドンを離れ,舟でテームズ河を航行すると、上流にハンプトンコート宮殿があります。

ヘンリー8世(16世紀前半)以来、ハンプトンコートの地の宮殿の広い森のような庭で狩り(鹿など)をするのが王家の
人達の楽しみでした。名誉革命(17世紀末)の結果、オランダに嫁いでいたメアリー2世姫とその主人のウィリアム3世
を、英国の国王として迎えることになりました。ハンプトンコート宮殿で多くの時間を過ごされたお2人は3つの贈り物を、
訪れる私達に残してくれました。
1つは、たくさんのチューリップをさすために、穴のたくさんあるデルフト焼きの花瓶です。オランダでは、チューリップを
めぐりバブル騒動が生まれるほど、当時は珍しく貴重なものでした。
2つは、オレンジの木です。オランダの国旗の色はオレンジであり、サッカーの選手もこのオレンジカラーのユニホーム
を着ますが、もともと南フランスのオラニエ(オレンジ)に住んでいた貴族が,北のオランダへと移住し、16世紀から始ま
るスペインからの独立戦争の中心的存在になりました。オランダや英国は、南の暖かい所に育つ果物オレンジは、知
りませんでした。しかし、国力が上がるにつれて温室をつくることで楽しむことを始めます。この宮殿の一角には、オレ
ンジの間と呼ばれる、冬にオレンジの木を入れておいた部屋が残されています。
3つ目は、チョコレートコートと名付けられた小さな中庭があります。係りの男性に問うと、ウィリアムとメアリーによりオ
ランダからチョコレートが伝えられたそうで、ここでチョコレートを作ったと聞いているとのことでした。18世紀に入り、大
英博物館の元を築いた収集家であり、医者であっつたスローン卿は,病人に初めて薬としてチョコレートを調合した人で
した。



337. 英国のトラストの背景



ナショナル・トラストを始めとして、シェークスピア・バース・トラスト、ワーズワース・トラストなど数多くのトラストが、英国
にはあります。

起こりは、産業革命の進行(18世紀半ば〜19世紀末)に伴い、歴史の中で愛され大切にされたものが、どんどん壊さ
れ消えていくのを目にした心ある人達が、国に頼らず市民の力で保存し、残していこうと始めた運動(19世紀末)でし
た。
個人で、家族で、あるいは法人で入会すると、年会費はかかるものの無料でトラストの施設を見学できます。こうして会
員が納める年会費や会員以外の人が払う入場料そして売店での売り上げなどが、トラストの維持、保存に使われてい
ます。そして、なによりもトラストで働いている人の多くが、ボランティアーであるのも特徴になっています。
施設への入場券売り場や売店の傍には、'Don't Pay 、Instead Give'と書かれた看板がおいてあります。係りの人に
尋ねると、英国人は、トラストの会員になったり、入場券を支払って見学をすれば、後で申告をすることで税金が政府か
ら返される仕組みになっているそうです。1ポンドにつき28ペンス戻されるのですが、この還付金をトラストに寄付して
欲しいという主旨の呼びかけだそうです。
英国人の間でトラストが根付いていて、誇りに思っている人が大勢いるのに驚かされます。

雨上がりの秋の一日、子供を伴った家族連れがミッドターム(学期の中ほど)の休みを利用して、長靴を履いてナショナ
ルトラストのひとつ、ストーヘッドの庭園を回っているのに出会ったり、近くのソールズベリー平原の中に5千年近く前に
先史人の残した、ストーンヘンジでもナショナルトラストの管理の下,恋人同士や家族連れが楽しんでいました。



338. 気の短い人は苦労する



何かにつけアジア人は、日本人は差別されているのではないかと被害妄想される方がいます。

ヘルシンキ(フィンランドの首都)とストックホルム(スエーデンの首都)を結ぶ大型フェリーの中で、フィンランド人の実業
家と言葉を交わすようになりました。連れだってバーに飲みに行きました。実業家の話ですと、フィンランド人は物の言
い方がつっけんどんで、サービス精神に欠けているそうです。バーテンダーは中年のフィンランド人の男性で、忙しそう
に見えました。彼に言わせると、このバーテンダーは典型的なフィンランド人だそうで、飲み物の注文をなかなか取りに
来ません。しばらく待たされました。でもこのくらいで腹を立てていては駄目だそうです。
海外では、サービスを受ける側とする側は対等だと思い、むしろ客側から笑顔でプリーズとサンキュウを連発する姿勢
を持つのが大切です。夏の頃のフェリーの旅は,早朝の4時過ぎから船室の窓越しに見え出す、ストックホルム近郊の
波静かな海に浮かぶ小島の美しさを私は大好きです。



339. 日本男性を見直した話



インドのデリーで2年学生生活をされた日本女性の体験談です。

2週間ほどインドへ旅行されたのがきっかけで、気に入り再度学生として住みに行かれました。ご家族の方は心配さ
れ、私が添乗でインドに行く機会があるとよく届け物を預かり、彼女に渡すメッセンジャーボーイの役をしました。いい家
庭のお嬢さんで、インドに行かれた当初は声も小さく、物静かに振舞われている人でした。しかし、何度かデリーのホテ
ルで届け物を渡しているうち、彼女のインド人への対応が違っているのに気がつきました。彼女が言うには、インド男性
に対してはイエス、ノーをはっきりと言わないと馬鹿にされるし、とんでもないことになりかねないそうです。食事でもご馳
走になると,そのあとのことまで(セックス)無理やり誘われることもあるそうで、日本男性の見返りを期待しない紳士振り
を見直したそうです。



340. 冬になるとジャイナ教徒が増える日本?



冬に日本にやってきた敬虔なジャイナ教徒が、風邪が流行っていたのでしょう……多くの日本人が口や鼻に白いマスク
をしている姿を見て、日本にはジャイナ教徒が多くいると思ったそうです。

ジャイナ教は,仏教と同じくらい(2500年)の歴史があり、マハビーラという人により始められ、以来インドで途絶えるこ
となく現在まで続いている宗教で、無殺生を説きます。
生き物を無益に殺すことを恐れ、路上の蟻にも注意を払い空中に生息する微生物にも気を使います。従い、マスクを
口や鼻にして、手には小さな箒を持って歩く先の道を掃いたり徹底した人ですと体に一糸纏わないで生活するそうで
す。服が生きた植物の繊維からつくられる理由によるそうです。食事は、地上になる実や野菜のみとなります。地中の
根や茎には生き物がくっついているため殺生をすることになりかねないので、食べないそうです。
商売なども自ずから制限があり,生きたものではない石を扱う、宝石商が多いそうで金持ちが結構いるようです。



341. エレガントなインド人



インド人は朝風呂、シャワーを使います。

決して人前では裸になりません。聖なる河(ガンジス河など)で、早朝沐浴している男女は、実にエレガントに人前であっ
ても、片手で体の周りに布の幕を張り他方の手で濡れた服を着替えます。
日本に来て日が浅いインド男性を、近所の銭湯に連れて行ったことがあります。楽しみにしてついてきたのですが、入
り口を入り裸で着替えている男性の踊り場風景が目に入ったとたん、Oh-No-(これは、堪らない)といったまま逃げ出し
て帰った例もあります。



342. スペインの少人数の兵隊が新大陸を容易に征服できたのは



神の教え(キリスト教)を野蛮な民族に広めようとする真摯な布教精神と、欲が手を握り冒険は行われました。

当時の中南米の状況を観ると、
・ 支配者に反対する勢力がおり、味方に出来た
・ 白い肌を持った青い眼の神の到来(征服者コルテスの風貌に似ていた)を待っていた
・ 鉄砲や馬を知らなかった(旧大陸では戦争に欠かせない)
・ 車輪を知らない(物を大量に運ぶために必要)
・ 専制独裁国家(アステカやインカ)であったので,大将さえ捕らえれば言いなりに出来た
などの好条件が征服者にはありました。結果として新大陸からヨーロッパへもたらされた物には、食べ物ではトウモロコ
シ、トマト、かぼちゃ、砂糖、ジャガイモ、唐辛子を始めとする各種の香辛料があります。趣向品には、タバコ、金や銀、
そして風土病の一種であった梅毒まで持ち帰りました。
300年(16〜19世紀初め)に亘る搾取の時代でした。



343. ポルトガルの隆盛(15世紀)と衰退(16世紀)



ポルトガルは15世紀初め、他のヨーロッパの国々の先頭を切って大西洋へ、そしてアフリカへと雄飛しました。何故出
かけたのでしょうか?

・ 13世紀にやっとイスラム勢力を国外に追い出し、そして14世紀の末にスペインとの大戦に勝利したことで独立しま

・ 1415年に回教勢力の根城であった、北アフリカ海岸にあるセウタの町を征服します
・ スペインに対するライバル意識がありました。大西洋上のカナリア諸島がスペインの手に帰していました
・ 十字軍運動(11世紀末〜13世紀)の精神が、未だ残っていました。地中海に出没する海賊やイスラム勢力を打ち
払い、アフリカのどこかにあるというキリスト教王国の主、ブレスター・ジョンと手を握り、アフリカの回教勢力を一掃した
いという願望を持っていた
・ エンリケ航海王子の主催したザグレス航海学校以来、アフリカの西海岸伝いに探検隊が少しづつ船で下り、未知の
地への足がかりをつくるという方針が決まっていました。実際にそのようにし、上陸しては丘の上に十字軍のレコンキス
タの象徴である十字架型の石柱を立てています。
・ アフリカの金や象牙、インドやインドネシアの香辛料、中国の絹を直接手に入れたかった。(ベネチアやアラビア、ユ
ダヤ、インド、中国などの商人の手を経ないで)
・ 大型カラベラ船(3本マスト、ハッチの付いた船体)に大砲、火薬、羅針盤を備え,進取の気に富んだ船長や船員が、
航海術を高めていきました。
バスコ・ダ・ガマ船長がインド航路発見(1498)した快挙は、今もリスボンの大航海記念塔やジェロニモス大聖堂の中
にポルトガルの輝ける誇りとして、残されています。

一方、16世紀半ば以降になりますと、力が弱まっていきました。
・ 財力をかたむけて造らせた船の大半を失ってしまう
・ 海外移住もありましたが、人口が200万人から100万人に減ってしまう
・ 国内で、産業の育成を怠る。リスボン港にやってくるヨーロッパ(オランダ、ドイツ、英国など)の商人に、持ち帰った物
産に付加価値性(製品加工)を加えることなく売り渡しました。自国の産業,商業を育てることをせず、やがて食料や着る
ものまで他のヨーロッパの国から買うようになりました。
・ 北アフリカへ遠征した若き王は1576年に殺されてしまい、1580年には実質スペインの支配に服しました

1998年にはリスボンで世界海洋博覧会が盛大に催され、ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見以来、500年の節目を
祝いました。



344. ライン河がプール?



パソコンや携帯電話を使っての情報の高速化が今花盛りですが、元は15世紀半ばにドイツ、ライン河中流の町マイン
ツでつくられた活版印刷機にあります。

当地のグーテンベルグ博物館に行けば、アルファベットの鉛製文字を組み合わせて紙の上に、葡萄の絞り器を改良し
たもので印刷したのが分かります。それ以前は、いちいち手書きの写本しかなく、情報伝達は限られていました。
ラテン語で書かれた聖書が各国の話し言葉に訳されて、印刷機により大量に安く出回りました。秘密に包まれていた聖
書の中身が知られることで、宗教改革運動に火が付いたと言われています。

ある夏の暑い日の夕方、マインツのヒルトンホテルにチェックインしたことがあります。
あまりの暑さにクーラーもお手上げの状態です。ホテルのプールは何処にありますかと尋ねると、裏が全てプールとの
返事です。なんとそれはライン河そのものであり、あまりにも唐突なジョークに大笑いしたことがありました。いろんな国
籍の船が行き交う中、ライン河の土手では裸で日光浴を楽しむ人達を眼にするのも、この時期ならではの風景です。



345. ジェットコースターが球運動の途中、頂上で逆さに止まったら?



ミュンヘンのビール祭り(オクトフェスト)は9月の末に、公園の広大な敷地を使って開かれます。

市の中心通りでは、ビール樽を満載した昔ながらの馬車のパレードがありますし、公園では今でもミュンヘンで醸造す
るビール会社(6〜7社)の大型テントが張られ、開催中は朝から夜明けまで通してブラスバンドの演奏に後押しされ、
ジョッキを飲み干し続けます。
移動遊園地もあり、家族連れや恋人、老人達で賑わいます。そんなひとつに高速で線路の上を走る乗り物があり、直
立に作られた大きな円型の線路を走りました。そして頂上で、逆さの状態で5〜10秒わざと停止します。いやはやビー
ルのほろ酔い気分はいっぺんに吹っ飛んでしまい、スリル満点でした。中にはシャツのポケットに入れた財布やメガネ
を落とす人もいるほどです。

夏の夕べ、パリのチュルリー公園の移動遊園地に行き、点滅するイルミネーションの中、乗り物に乗って楽しんでいる
人達を眺めたり、ただぶらぶら歩くのもいいものです。
短いヨーロッパの夏を彼らは、精一杯楽しんでいます。移動サーカスもヨーロッパでは未だ盛んで,ぶらっと入るとレベル
の高いアクロバットや手品、ピエロの演技に酔いしれるのです。


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