希望



346. 詩(ロマン)が集う博物館



英語では、博物館はミュージアムといい、ミューズの住み処、神殿となります。
語源はギリシャ語であって、ミュージアムはムセイオンそしてミューズはムーサイです。
ムーサイとは、芸術と科学を司る9人の女神を指しています。
クリオ(歴史)ウラニア(天文学)メルポメネ(悲劇)タリア(喜劇)テルプシコレ(舞踊)エトラ(恋歌)カリオペ(叙事詩)ポリ
ヒムニア(讃賀)エウテハペ(抒情詩)です。
こうして見ますと、どれほど詩(言葉)を大切に生きてきた人達であったかが分かります。
文字を持つ遥か以前から霊を感じさせ、魂を揺さぶる詩(言葉)は長く語り継がれていました。この現象は世界共通の
ようです。
アフリカの、南太平洋の、アイヌの人達の詩や踊りに例をとるまでもありません。
自然(神々の世界)の恐怖とその恵みの中で、心細く生きた先達の魂の叫びを聞く思いです。



347. 紀元前3世紀に地球が太陽の周りを回ることを知っていた人がいた!



ヴァチカン博物館の中に、ラファエロ(15世紀末〜16世紀初め)の描いたアテネの学堂という壁画があります。
そこには古代ギリシャを代表する思想家、学者たちがおり、感動を誘います。
しかし、同じ部屋の反対側の壁には古代ギリシャの学問の上に君臨するキリスト教というテーマで、ラファエロが壁画を
描いています。中世の時代は、キリスト教神学がその他の学問の上に君臨していました。近代になってもそのリズムは
続いていきました。
近代科学はピサ人ガリレオ・ガリレイ(16世紀後半〜17世紀前半)により、始まったと聞いています。
ポーランドの神父コペルニクスが地動説を唱えたのを、自分でつくった望遠鏡で天体を観察することでガリレオは地球
が太陽の周りを回るのを証明しました。しかし、時は未だ熟しておらず宗教裁判の末,自説を撤回しました。
イエス・キリスト教が発生する以前の古代ギリシャ時代のアリスタルコスという人物は、紀元前3世紀の人でエーゲ海の
サモス島出身です。
彼は、地球は自転すると同時に太陽の周りを回っているのを知っていました。
人の歩んだ道は時には後ろへと戻って行ったようです。



348. 全てソ連による快挙でした



1957年10月4日初めて人工衛星が宇宙を飛びました。

2年後には、月面の裏側の写真を撮ります。1961年4月12日には宇宙船'ヴォストーク'に乗って、ガガーリンが人類
初の宇宙へと旅をしました。1965年には、レオノフが宇宙船を出て宇宙遊泳をしました。そして、1966年に、ルナ9
号が月面に軟着陸しています。
アメリカよりも一歩も二歩も先を行った輝けるソ連による、宇宙時代の幕開けでした。
やっと60年代の末になってアメリカは、ケネディ大統領が大統領受任演説で'月に人を送る'という夢を語ったことが実
現しました。
あの頃のソ連を動かしていた原動力は何だったのでしょう?



349. 教会は文化の総合展示場


'
地上における神の住まい'としてヨーロッパでは中世の頃から教会が盛んに、村でも町でもつくられました。
あるいは、修道士たちの生活空間としての修道院も人里離れた場所にまでつくられています。教会は、そこに神がおら
れるかのようなイメージを演出するために,当代の一流の芸術家、建築家、職人が集い、長い歳月をかけてつくりまし
た。見た目に美しいだけでなく、一朝事あった場合には、人々の避難所として、要塞としての役目も兼ねていました。
教会に行くと、世事のわずらわしさ、悩み苦しみを忘れ、神の愛に満たされたひと時がありました。荘厳な石造りの建
物は、彫刻や絵画、ステンドグラス(ゴチック様式では)や
タペストリーで飾られ、音楽の調べ、眼にも鮮やかな衣装を着けた聖職者による礼拝セレモニーが行われました。

また修道院では、修道士たちが進んで農業指導に当たり、地元の人達の生活水準を上げるのに貢献しました。写本も
多く残しています。
貧乏人も一般人も金持ちも貴族も参加して、神への賛美、神への恐れ、神による救済を心から願った時代でした。



350. 大学の生い立ち逍遙



インドでは、グプタ朝の庇護のもとナーランダの地において、紀元後4〜8世紀にかけて仏教大学が営まれました。

盛時には、アジア各地から一万人もの学生や教授が集い、共同生活をしていたと云われています。中国から旅してや
ってきた法顕(5世紀)や玄奘(7世紀)義浄(8世紀)三蔵法師の日記に記されています。ナーランとは蓮、ダは与える、
蓮を与えるとは、知恵を与え、学ぶ所となるのでしょう。
現在では発掘が一部行われた結果、焼きレンガを素材にしてつくった、中庭のある周りに学生たちが寝泊りした部屋
を配した学問所や穀物貯蔵所、高僧を奉った記念碑、寺院跡などが見ることが出来ます。博物館では、ここで発掘さ
れた仏像などが置かれています。
ナーランダの地は今は貧乏州となっていますが、ビハール(僧院という意味)州にあり、ここはブッダ活躍の頃(2500
年前)からいち早く栄えた地域でした。

中近東に起こったイスラム教世界では、回教寺院(モスク)に付属する形で、イスラム学を学ぶマドラッサが8世紀ごろ
から出来ました。アラビア語で書かれたコーランの解釈、教祖マホメットの言行録の研究を中心にして、他の学問にま
で研究が及び、スペインのコルドバ、チュニジアのケロワン、エジプトのカイロ、トルコのイスタンブール、サウジアラビア
のメッカ、さらにダマスカスやバグダードには有名な学問所が生まれ、多くの真理を求める学者や学生たちで賑わいま
した。

一方ヨーロッパでは、12世紀〜15世紀にかけて各地に大学が生まれました。
キリスト教学を学ぶために、学生が遠く旅をして、良き教授のもとに集まったのが始まりとされます。イタリアのボローニ
ャ、チェコのプラハのカレル大学、ドイツのハイデルベルグ、パリのソルボンヌ、スペインのサラマンカ、ポルトガルのコ
インブラ、イギリスのオックスフォードやケンブリッジなどは有名です。

日本では、奈良時代(8世紀)の都であった奈良に国家による僧侶養成の為の学問所が出来たのが最初でした。そして
大学としては、欧米の進んだ学問や技術を習得すべく官立として明治2年に東大がつくられました。

学問の始まりはいづれも宗教と密接に関わりがあるようです。



351  アテネのオモニア広場付近では  



オモニア広場はアテネの中心にあり、ロータリーになっています。

近くにティタニアホテルがあります。いつも各国からの団体ツアーでロビーが賑やかです。
ロビーの壁に、1996年のアトランタ・オリンピックのヨットレースでギリシャ・チームが優勝したそうで、その時の帆がさ
り気なく飾ってありました。
たしかヨットの帆の布地を使って作るのが、若者,熟女の欲しがるプラダのハンドバッグだった様に思います。人がつくっ
たバリュー(価値)には流行がありやがて消えていきますが、真のバリューを探して生きる人は稀でしょう。
思い出しました。確かヨットの帆ではなく空中から飛び降りる際に使う、パラシュートの布だったですね。だとすれば違い
はさしてなく、いづれも風に耐えられるかどうかの素材だということです。
ホテルの裏通りに、スブラギ(肉の櫛刺し料理)を出す立ち食いに近いレストランを見つけました。安くて美味しくて、室
内も清潔でパンは自由に好きなだけ食べてよく、夜などは満員盛況でした。



352  イラクリオン博物館(クレタ島)とキプロス博物館を観て



世界的に評判のルーブルや大英博物館、メトロポリタン・ミュージアムのような壮大な世界中の遺産のコレクションより
も小規模で、その土地から発掘したもののみを展示した博物館の方が、印象が深く感激することがあります。

そこには一貫性があり、他の土地との交流交易が分かり、一点から波紋のように広がっていく流れや、逆に方々から
一点へと帰結した流れ、あるいは通り過ぎていった様子が見えるように感じます。
それにも増して、古典ギリシャの円熟期といわれるクラシック期の作品よりも、それ以前の地中海や近東にあった、優
しい女性的な自由な人々の生活を垣間見れる夢を与えてくれた、地中海での博物館に感動しました。



353  コルドバの誇りは何れも哲学者



このあたりは、6月になると麦の穂が黄金色に色づき、大地全体が黄金色に変わると云う。

一説にコルドバとは、黄金の大地という意味から付けられたと言います。
馬に内またがり家来も連れず、中近東のダマスカスからやってきたアブドラ・ラーマン1世(8世紀半ばのウマイア家の
公達)は、このコルドバの地に後ウマイア王朝(西イスラム王朝ともいう)を打ち立てました。当地のスペイン人ガイドに
よると、ラーマン1世は片目でブルーの瞳、赤毛の髪に顔にはあばたがあり、大きな鼻そして白い肌をしていて、ウマイ
アそのものだったと、当時実際に彼女が生きていて見ていたかのごとく語りました。
また彼はダマスカス近くのアルファッファ村で生まれたそうで、新生勢力のアッバスから難を逃れ母方の親戚を訪ねて
遠く旅をした結果、コルドバにやってきたのだそうで、ここにはアルファッファの名が付けられた場所があるそうです。
私はこのアブドラ・ラーマン1世に憧れ、ロマンを感じているこのガイドの話しに嬉しくなり,コルドバ出身でコルドバの誇り
とする人物を3人上げて欲しいと頼むと、
1にセネカ(紀元前4〜紀元後64年)を言いました。ローマの初期帝政時代のカリグラ、ネロ帝 に仕えた人です。スト
イシズム(禁欲主義)をモットーにした哲学者でした。
2にマイモニデス(12世紀の人)をあげ、ユダヤ人で医者であり、哲学者であったそうです。世 界で始めて白内障の眼
の手術を行ったそうです。エジプトのカイロで英雄サラディンのお抱え 医師として活躍し、彼の地で亡くなりました。
3はアベロイデス(12世紀の人)で、イスラム教徒であり哲学者でした。映画'薔薇の名前'の主 人公になった人で、モ
ロッコのマラケシュで死んだそうです。
熱っぽく語る老ガイド女史とのティータイムでのやりとりでした。、



354  サイババを訪ねたのを思い出す!



四百年ほど前につくられたスペインのフランシスコ派の修道会が、今はパラドール(国営ホテル)になっています。

この地スペインのアルマグロの名の由来はアラブ語にあるようですが、カルロス1世(16世紀前半のスペイン帝国皇帝
であり、後に神聖ローマ帝国皇帝カール5世となる)についてやってきたフランドル地方の貴族たちが、この町に住んだ
ことから立派な邸宅や教会、修道院など(15〜17世紀に亘る)が残っています。
パラドールの中庭(修道僧たちの生活の中心だったところ)に面した広い部屋で夕食を済ませて部屋に戻りシャワーを
とった後、床がタイルで出来ていてその上に直に置いてあるベッドに潜り込み、テレビのスイッチを入れました。
すると年老いて介添え人の手を借りながら歩く、懐かしいサイババの姿が映し出されました。昔と同じオレンジ色のロー
ブを体中にまとい、アフレヘアーも黒々しています。ただ以前よりは痩せてしまったようで顔には皺がたくさん出ていま
す。テレビはサイババ特集を組んで、若い頃から今に至るまでのエピソードを中心に賛成派、反対派のコメントも随時
に入れてあります。

20年も前、南インドの地に身体障害者の方々をお連れしてサイババを訪ねたことがあります。アシュラム(道場)と称
する宿泊所で1週間彼の現れるのを待ちました。そこには、アメリカやヨーロッパそしてインド各地から彼の行う奇跡を
信じて集まった、信者が多数生活していました。宿泊所での私たちの部屋は学校の教室ほど広く、がらーんとしていて
コンクリートの床に直に寝るだけです。夜に備えて町まで毛布や敷布、ローソク、ランプなどの買出しに行ったものでし
た。食事は大きな食堂でインド料理が出るのですが、皆さんの口には辛くて合わないため、日本から持参したインスタ
ント類のものを食べておられました。台所でたくさんのお湯をそのため沸かしてもらいました。サイババは予約をしない
人だそうで、ただ何処かに行っていて留守だと言われ、ただ待ち続けました。
そして、午後にはボンベイへと飛び、日本へ帰る日がやってきました。
その日の朝、側近からサイババが帰ってこられたので中庭でみんなに会うので、待つように連絡がありました。
広い中庭の中央には菩提樹か何かの大木が植えてありました。その木の下に来られるそうで、信者たちは木の周りを
ぐるりと取り囲んで、僅かに彼が通る道だけが開けてありました。すると,にわかに空が掻き曇り、雷が鳴り雨がザーと
降りスコールが襲いました。
中庭の後方の木に雷が落ち、中ほどから折れてしまいました。瞬時のことでただびっくりしてしまいましたが程なく嵐も
去り、元の静けさが戻りました。下僕がインド式の箒で大木の近くを掃き清めるとまもなくサイババが、乗用車に乗って
現れ車から降りて、待っている私たちの方に歩いてやってきました。そして、私たちの前で立ち止まり、英語で'日本から
やってきた人たちですね'と云い、2つの奇跡(手品?)を目の前で行いました。最初は口の中でボソボソ云いながらビブ
ーティ(死者の灰)を手のひらいっぱいに出してくれました。信者は皆それを欲しがるそうです。次は、緑色の小さな石が
握った手の中から現れました。それをプレゼントに私たちにくれました。それ以外は何もありませんでした。
信者たちは皆驚嘆し、賞賛の声を出し、サイババにしびれている様子でした。
また彼は次のようにも言ったのを覚えています。'自分は5年もすると、人前から消え去るだろう'と。
さて、無理をして希望を奇跡を信じてサイババに会いにやってきた、日本の身障者の誰にも何の変化も起りませんでし
た。サイババ批判の声が、空港へ向かうバスの中で上がりました。'みんなのそういうさもしい根性を見抜いて、あえて
サイババは癒しを行わなかったんだろう。'とリーダー格の人が云うと、皆さんはその後は静まり返ってしまいました。。
ユニークな主旨の旅でした。
そしてスペインのテレビで今も活躍しているサイババの姿を見るにつけ、企業経営のトップ、カリスマ社長は引退させて
もらえないのだろうなと、ふと感じました。サイババを取り巻いて、学校やその他もろもろの経営団体があり大勢の人が
生活しているようでした。



355  スペインで人生を教わった日本人



幼かった頃から、マージャン、将棋、そしてギターを奏でるのが日課だった人が、長じてスペインの地に来てしまいまし
た。今もこのトリオの習慣は続けているそうです。

中年になった彼が、冬景色に変わろうとする雨と風が吹きつける11月の末、セゴビアの町を案内してくれました。
重厚な石造りのロマネスクの教会や貴族の館を前にして、長い歳月をかけて造ったもので砦としても役立つことを語り
ました。さらに若かった頃、スペイン人から教わった2つの教訓をさらっと付け足しました。
一つは、結果は問わない。教会建築などは少なくとも百年から150年は時間がかかるものであり、数世代に亘る努力
の結果、完成するものである。大切なことは、プロセス(過程)だという。
二つには、明日やれることは今日はするな!だったそうです。

日本のせっかちに生きるリズムとのあまりの違いに驚き、風や雨の激しさも一瞬忘れたほどでした。


トップへ
トップへ
戻る
戻る