希望

296. 土を使って自己表現した女性陶芸家コバーチさん


コバーチ・マルギット(1902〜1977)は、ハンガリーのギョールで生まれ、ブダペストで生活し、そして亡くなりました。

ギョールの町は、ウィーンとブダペストを結ぶ街道にあり、南のパンノンハルマ修道院へも近く、古来人が集まり栄えた
ところです。この町には彼女の博物館があるといいます。
私たちは、センタンドレ(聖人アンドリュース)の町にコバーチさんの博物館を訪ねました。センタンドレの町は、ドナウ河
に面した地中海の家を思わせるこじんまりした集落です。ギリシャ人やダルマチア人などバルカン半島に住む、ギリシ
ャ正教を奉じる人たちが、オスマン・トルコ勢力の拡大に押されて北上し、、故郷の地中海を感じさせるこの地に住んだ
といいます。

生前、しばしばわずか20キロしかブダペストから離れていない、美しい静かなセンタンドレにやってきて過ごした、彼女
お気に入りの所でした。
遺言により、コバーチさんの作品がこの町に寄贈されることになり、かってワインを貯蔵したケラー(地下室)も使っての
博物館が出来ました。

館内には,どこにでも見られたごく普通のハンガリー人の日常生活を、土をこねて焼き、色付けしたコバーチの作品は、
観る人の心に強く訴えるものを持っています。
女性でなくしては、表現し得ない繊細な心の動きまで土人形は語っているようです。人の誕生から死に至るまでの長い
道のりの中に、子供や家族、思春期、結婚、子育て,老い、死,信仰、聖書のお話などなど多岐に亘っています。
第二次大戦中の1942年につくった三賢人の礼拝と名づけられた作品では、珍しくコバーチさんは、強い願いを込めて
いるようです。
本来、イエスの誕生を知って、ベツレヘムへとやってきた東方の三賢人は、乳香や金などをプレゼントしたのですが、
彼女の作品では葡萄(ワインをつくる)、麦(パンをつくる)そして平和を持参しています。

一人の芸術家の訴えが、時を越えて生き続けています。


297. 塩とパンで友人を迎えるブルガリアの人々


ブルガリアの小学校を訪れた時のことです。

伝統の民族衣装に着飾った二人の少年少女が、正面玄関で出迎えてくれました。
一人は山と盛られた塩の皿を持ち、もう一人は、焼きたての大きなパンを乗せた皿を持っています。そして、笑顔で校
長がこの塩とパンを手に取っていただくように言われました。
全く予期しない歓迎の仕方に、戸惑ったのを覚えています。

本来塩は、保存と防腐に効くことから、長く続く関係を願い、高い尊敬と名誉の地位を与えられてきました。イエスは12
使徒を"地の塩"と呼びました。アラブでは"われわれの間には塩がある"と友人関係を表現しました。ペルシャでは裏
切った友人に対して"塩に背いた"といいました。
また塩の安定と永続性の性質を重んじ、聖書では神と人の契約を塩の契約といいました。
友情を強め、固めるために食事に塩を使う慣わしがありました。
またモーゼの律法では、生贄台に捧げられた動物に塩をかけることが述べられていますが、これは不正や腐敗を防ぐ
意味がありました。歴史を通して、塩は大切な商品でもありました。

フランス革命(1789)は塩税が高かったことが原因のひとつでした。ムーア人は、塩と金を等価交換していました。ま
た中央アフリカでは、岩塩の板を貨幣として使っていました。英語でいうサラリー、サラリーマンはラテン語のサラリウム
(塩)からきています。
初期のローマ兵士は、塩を給料(報酬)として貰いました。また古代ギリシャ人は、奴隷に塩を与えた故事から"塩に値
しない"という表現が生まれました。
また中世になると、塩をこぼすと死の前兆といった迷信が生まれました。
有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの描いた"最後の晩餐"の絵では、イスカリオのユダの座っているテーブルの前に置か
れた塩の皿がひっくり返っているそうです。
18世紀までは、宴会の席で塩の皿の傍に座っている人は、地位の高い人でした。

現在でも塩は、調味料として肉の保存のため、あるいはガラスや石鹸の製造に欠かせぬものですし、ヨードと混ぜて慢
性ヨード欠乏症の人に役立っていますし、フッ素を加えて虫歯予防など保険衛生面でも利用されています。

パンに関しては、人はパンのみにて生きるにあらずの諺にもあるように,食事の代表者の名に値します。ブルガリアの
小学校挙げての大歓迎だったのですね。


298. 三匹の子ぶた


ウィーンのショーンブルン宮殿内は、白壁の中に金色の美しいロココ様式の模様がふんだんに使われた18世紀の芸
術の彩を見せています。
併せて、当時上流階級の間でもてはやされた中国やインドそして日本の陶磁器、細密画、家具調度品なども数多く展
示してあります。あるいは裏の壮大な庭を窓越しに見ながら、部屋から部屋へと見て回っていますと、修理のため、上
壁が剥がされ中のレンガが露出している部屋がありました。
初めてこの宮殿の真の姿を垣間見たように思いました。
最高権力者の宮殿をもってしてやっと、レンガや石をふんだんに使うことが出来たことや、この宮殿あるいはこの宮殿
のモデルとなったベルサイユ宮殿も、大理石に似せた色やデザインを使い、柱や壁を塗って面目を保っています。
僅かに権力者の宮殿に肩を並べるものを挙げるとすれば、教会ということになるでしょう。

中世の童話"三匹の子ぶた"では、わらと木、そしてレンガをそれぞれ使って家を建てますが、わらや木の家はオオカミ
が吹き飛ばしてしまいます。しかしレンガの家は、丈夫で災害を免れることになっています。単に長持ちするという以上
に、いつ襲うかも知れない人災(泥棒、強盗、戦争など)に備える意味もあります。赤ずきんちゃんの童話なども人里離
れた森の怖さを子供に教える中世の教訓が含まれているようです。



 299. 歴史は傍注から見えてくる


ヒストリー(歴史)の語源は、イストイアから出たといいます。
そして、イストイアの言葉は、傍注(本文の補足説明を紙面の下や別枠で行う)の大切さを含んでいます。

洋の古今東西を問わず権力者は、自分に都合のいい歴史書を書かせるものです。しかし、良心的な作者が背景を傍
注で表現してくれたお陰で、公平な全体像が見えてきます。
私たちが習った大航海時代では、初めてポルトガルやスペインが大海原を越えて、インドや中国,日本そしてアメリカ大
陸へとチャレンジしたことになっていて、近代ヨーロッパ人の素晴らしさを讃える一翼を担っていました。しかし、その背
景にはたくさんの事柄が隠されています。
十字軍運動(11世紀末〜13世紀にかけて聖地エルサレムを回教徒から奪い戻そうという宗教闘争が名目であった)
では、失うものがない後進国であった西ヨーロッパのキリスト教徒たちが、文化、文明の成熟したオリエントのイスラム
世界へ殴りこみをかけた戦争でした。貴族の次男や三男あるいは子供までが出かけた、経済の停滞を打破する社会
不安対策や失業対策も兼ねていた面もありました。
そして、イベリア半島ではやっと13〜15世紀になって、イスラム勢力の支配を脱出できました。ポルトガルとスぺイン
は復讐もあったのでしょう。イスラム圏の縄張りや新しい未知の世界へと領土の拡大とキリスト教の布教という二大テ
ーマを持って出かけました。
遅れて始まった十字軍運動という見方も可能でしょう。このヨーロッパ人による大航海が始まる50年も前の14世紀の
末に、明の鄭和による数回にわたる南アジア、インドそして遠く東アフリカ海岸に達する航海が行われました。あるい
は、マラッカ王国(14世紀〜16世紀)を中心に、南アジアではインドや中国、日本を巻き込んだ一大貿易圏が成立して
いました。
またバスコ・ダ・ガマによるインド航路発見(1498)もアラビア人水先案内人なしには、出来ませんでした。貿易風を利
用してのアラビア海の交易(中近東とインド)は、紀元前2千年から行われていました。


300. 酸欠が心配される高地の町、メキシコ・シティ


メキシコシティは海抜2千メートルの上につくられた盆地で,かっては湖の中に素晴らしい町があり、アステカ帝国の都
だったといいます。

今は僅かに公園の中に残る湖でボートを漕いだり,大聖堂横の遺跡を通してしか当時を偲ぶ手立てはありません。
日本企業の現地駐在員は、半年に一回の割合で1週間海岸線へ降り、新鮮な空気を吸う休暇を取ると聞きます。それ
ほど今では、人口が集中してしまい、車の出す排気ガスが空気を汚してしまいました。

スペイン人の入植(1500年代)により、それ以前に栄えた文明は、異教のものとして破棄され、征服者の常ですが、先
の文明が最も大切にした建物(神殿や宮殿など)を壊し、その上に新しい支配者の象徴としての神の地上での家、司教
の座るイス(カテドラ)を持つ権威ある教会、カテドラルをつくりました。今ではメキシコのほとんどの人が,敬虔なカトリッ
ク信者になっています。
郊外には,聖母マリアが現れたという奇跡の地、(グアダラハラの聖地)があり、全国から巡礼者がひきもきらず参拝に
訪れています
また街中には、サンファンバチスタ号に乗り、ローマ法王謁見の長旅に出かけた(1613〜1620)伊達藩支倉常長一
行が宿とした教会もあります。ノバ・エスパーニャ(新スペイン)といわれたメキシコとの貿易に夢をかけて、日本が海外
へと大きく羽ばたいた時代の最後を飾る事業でした。無事にローマ法王とも会い、帰国時にメキシコへ再度寄った際
は、日本ではキリスト教布教も外国との貿易も暗雲が立ち込めていました。
日本に帰らず、スペインやメキシコに留まった同行の士もたくさんいたそうです。

日系メキシコ人で,事業に成功され高級住宅街に住んでおられる方を、ご自宅に訪問しました。家を4〜5米もある高い
コンクリートの塀が取り囲み、壁の上には電流の流れる鉄線が取り付けられていました。庭には二匹のシェパード犬が
放し飼いになっています。随分警戒されながら生活されているのを感じました。その晩頂いた奥様の手料理は、これま
で味わった日本食の中で最高のものでした。新潟県出身だそうで、県の美味しい日本酒もいただきました。

シティにあるチャプルテペック公園の中で見た、インディヘナ(先住民)の若者たちが高い空中から舞いながら降りてくる
勇壮な踊りには、ヨーロッパにはないメキシコ先住民の誇りを目の当たりにした思いでした。傍にある国立人類学博物
館の展示物は、それを十分に裏付けるものでした。さらに、江戸っ子の良い宵越しの銭は持たないという気風に似た、
一年に一度友を招いて行うという、ドンちゃん騒ぎの盛り立て役マリアッチの演奏を聞いていると,普段は静かに孤独に
生きているが、内面はナイーブなシャイでセンチメンタルな面を持つ、誇り高い人たちの真の姿を見た思いでした。


301. カサブランカの旧市街の道端には代書屋さんがいた


モロッコへの玄関口であり、映画"カサブランカ"であまりにも有名になった町が、大都会となったカサブランカです。

この映画は、ほとんどが撮影所内でつくられたようで、実際にこの町で撮影されたのではないようです。しかし、旧市街
(メディーナ)入り口傍に立つ高級ホテル、インターコンティネンタルの一階にバーがあり、そこには壁に懐かしい映画’
カサブランカ7のポスターが貼られ、ウェーターはトレンチコートに帽子をかぶり、映画でのハンフリー・ボガードを髣髴さ
せる風体でテーブルの間を回っていました。また、映画に因ん土産品まで売られていて,買っていく人の多くは日本人と
のことです。

新市街地区はスペインやフランス統治時代につくられた、今は大きな街路樹に成長した広い並木道の両側に公官庁や
銀行、保険会社などの素晴らしい建造物が見られ、道行く人も洋服を着ています。一方、旧市街は入り組んだ狭い路
地から成り、スークやモスク辺りを行きかう人も白色系の民族衣装に身を包み,ひげが似合い、サンダル履きです。
そんな中、道端で机をひとつ前に置き、じーとしている老人がいました。字の書けない、字の読めない人の為の代書屋
さんだそうです。
日本でも戦前は、結構繁盛した商売だったとあとで聞きました。

海岸線を走ると、大西洋の荒波が白く飛沫を立てているのが眼に入ります。そんな波の立つ壮大な景色が大きなガラ
ス越しに見えるレストランで、フランス料理をいただけるシックな面もあれば、ハッサン2世モスク・コンプレックスは、イ
スラム教信者でなくてもその壮大さに驚きの感動を与えます。。

そして、この感動は内陸へと旅をすることで、さらに広がり深まっていくのです。


302. キャビアを単に魚の卵と割りきれば


ノルウェーの北海に面したベルゲンの港では、朝市が立ちます。

そこでは、缶詰やビン詰めになったノルウェー産キャビア(各種の魚の卵)のラベルの貼られたものが、破格の値段で
買えます。入れ物もデザインも空港で見るイラン産のチョウザメのキャビアに引けをとりません。さて、味の方は?
1〜2度だけ、ほんのちょっと本物のキャビアを口にしたことがあります。正直に言って、スーパーで買うイクラやすじ子
と変わるとは思えませんでした。

ベルゲンの港町は、かってバルト海、北海を駆け回って栄えたハンザ同盟都市だった歴史があります。中世の頃、ドイ
ツを中心にした海沿いの都市(商人、職人が中心になる)が同盟を結び、一致団結して北欧で一大勢力を成しました。
港の傍には、ドイツからやってきた商人が、暮らした商館が残っています。彼らは10代の頃からこの異国の地に住
み、鱈や鰊(タラやニシン)の商いをしました。首尾よく商館長にでも出世できれば、小銭も貯まり40歳を越せば、国に
帰り結婚できたといいます。
商館長のベッドといえども小さなものです。当時は、体を半分起こして寝ていたそうです。
仰向けになって寝ていると、神も悪魔もこれは死んだ人かと思い、そのまま死の世界へと連れて行くという考えが、広く
信じられていたそうです。商館長以外のベッドも同じサイズですが、2〜3人一緒に寝ていたそうです。もっとも、厳しい
冬を耐えるには、体を寄せ合っていた方が温まるかも知れません。

この町から夏には、フョールド観光が多く出かけます。


303. タイの公立小学校にISOがあった


初めてISO(インターナショナル・スタンダード・オーガニゼーション)に出会ったのは、英国のウェールズで訪れた日本
のセイコー社のハイテク工場でした。

日本人責任者が英国で始まった、世界的な標準管理システムについて説明して下さいました。生産工場であれ、事務
所、商店、倉庫等等多岐の分野に亘って、一定の標準を維持することで信頼を高め、ひいては社会に、ビジネスにい
い効果をもたらすというものでした。

一定の標準とは空気の清純度であったり、水のリサイクル,ごみの処理方法、作業の安全や効率性、廊下や事務所内
の不要な障害物の除去、帳簿の細かい記載にいたるまで定期的に検査があり、このハードルをクリアーして初めて、
ISOの資格者となれます。
資格を取得するためには、時間も経費もかかり、全社挙げての意識改革が必要ですが、長い眼で見ると対取引先、消
費者、社会への宣伝、信用を高めることにつながります。
アメリカにも同様の基準認定組織があるが、ISOが一歩先んじていると言っていました。

そして、5年前(1990年代の末)タイの中部にあるピサノルークの町の小学校で、女性校長から学校ごとISOに入って
いる話しがありました。
校内で出るごみを分別収集して処理したり、水の品質管理、中庭を始めとする緑化の促進、中庭を使っての授業、学
校の美化に積極的に取り組み、生徒始め先生、PTAや地域を巻き込んでやっているといいます。正直驚いて唖然とし
ました。日本からの先生方もISOそのものを知りませんでした。
思えば、朝一番で運動場で行われた千人を超える朝礼から、変わっていました。
ブッダに感謝し、国王、国旗に敬意を表していました。これらの一連のものが普段から行われていることが、様子を見
ていて分かりました。そして、応接室でのISOへの取り組みの説明もいとも当たり前に行われました。
この女性校長のご主人は軍人だそうで、校長のリーダーシップのもと二人の男性教頭が、それぞれ役割を分担して学
校経営をしていました。

その後、バンコックに個人旅行で行く機会がありました。
宿は前もって市内の、若者がよく利用する安い所を予約しておきました。夜遅く飛行場に着いたので、ホテルまでの交
通手段で迷ってしまいました。安全を期してタクシーで行くことに決めて、乗り場へ行くとタクシーにもメーターで動く安い
のと、ハイヤー(定額)があります。ハイヤーはなんとISOに入っているではありませんか!喜んでハイヤーに乗り、入り
組んだ路地の一角にあるホテルにやがて無事到着したのを思い出します。


304. 話し合いの場はオープンであってこそ


10年ほど前、マレーシアのクアラルンプールの郊外にある松下電工の工場を見学したことがあります。

世界に向けての冷蔵庫などを作っていたと思います。工場内では、マレー人(イスラム教徒)、中国系マレー人(儒教)、
そしてインド系マレー人(ヒンズー教徒)が一緒になってコンベアーの前で、作業していました。
工場見学が終わって大きな会議室へと導かれ、説明が始まれました。すべて英語でした。
従業員の代表(労働組合の幹部)が会議に参加同席していました。
日本からやってきている経営陣の話では、公式の訪問客との情報交換の場には、従業員の代表を同席させる規則に
なっていて、会話は共通の英語を使い、必要であれば通訳も使うそうです。
松下電工本社の労働組合とも自由に、現地組合に情報交換させていて、両国の給与格差も明らかにしていて、その理
由なども説明しているそうです。
またイスラム教で大切にしている一日5回のお祈りも、よく話し合って昼休みの時とかにしてもらい、協力を得ているな
ど理想が現実に近い形で行われている様子でした。
辞めて行く人もほとんどなく、社員の募集をすれば、多くの応募があり有難い状況であり、マレーシア経済の一割近くを
担っているとのことでした。

アメリカの東海岸にあるキャノン工場を見学したときは、家族デーが会社にとって大切な行事になっていて、従業員がと
ても楽しみにしているので、毎年工夫を凝らして準備するなど、日本にいては思いもよらない言葉が聴かれました。



 305. 太陽神が女性であった国 日本


弟の須佐之男命の乱暴に手を焼き、自ら姉の天照大神は天の岩戸の陰に隠れると、世の中が暗くなりました。

神々が話し合い、天の岩戸の前で舞い踊り、ワイワイガヤガヤすることで何事かと興味を起こさせ、そっと覗き見する
瞬間に怪力の神が強引に岩戸をこじ開け、再び日が戻ったという話が古事記にあります。
八百万の神々の筆頭にこの女性の太陽神(天照大神)が起用されているのは、他の国にはないようです。太陽神は通
常男性で表されます。古代エジプトのラー神やインドのスーリャ神などです。
ギリシャ神話などでも男性神は、空中や宇宙を彷徨っていますが、大地にしっかり根を張って生きている女性神(地母
神)と結びついて子供(作物の実り)が生まれることで、男性神は落ち着きを得ます。しかし、しばらくすると浮気好き、
戦好き、放浪の虫(チャレンジ精神?)が騒ぎ出します。
ギリシャ神の筆頭神はゼウス(雷神)で浮気がちですが、彼の妻ヘラは良妻賢母の典型です。英雄ヘラクレスはこの二
人の間で翻弄した人生でした。

日本では、当初から女性的な包容力、優しさ、あるいは調和を大切に思う伝統が強く働いていたように思います。


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