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希望

286. オープンな商取引は社会を明るくする


3500年ほど昔、エジプトにハトシェプースト女王という偉大な統治者がいました。

彼女は、プント王国(今のソマリアあたり)との交易を奨め、戦争によらず平和にエジプトを豊かにしました。
貿易は視野を広め、情報を豊かにし、遠隔地との交易システムをつくり、なによりも生活に潤いを増すことにつながりま
す。

仏教が広まっていったのは、カースト制度を否定した教えを受け入れた、商人層に因るところが、大だったと思われま
す。階級を超えて誰とでも話をし、商売を行う人たちが商人です。平らな眼でものの価値判断を行うことを、常に心がけ
ている人たちです。

イスラム教の発展もアラー神のもとに人は平等という理念があればこそでした。
商人たちには、受け入れやすい教えだったことでしょう。教祖のマホメット自身商人でした。

信長、秀吉の楽市楽座(自由に城下で商売をさせた)は、風通しのいい時代を演出しました。

ただ、誰もが商いに向いているわけではありませんし、弱者は常に生まれるものです。
教会の1/10の税、寄付、貧者への施し、病院などは弱者救済のために昔からありました。
むしろ物が貧しい人ほど心が豊かで救われると宗教は説き、弱者への勇気づけをするとともに、成功者への戒め、富
の分配を奨めています。

紀元前4世紀後半の仏教に帰依したアショカ王などは、インド中に動物のための病院までつくるほどで、慈悲の心を実
践しています。きっと政治も治まっていたことでしょう。
そして今は、ゆるやかに保護貿易から自由貿易へと移行していて、好ましい傾向にあると思います。


287. よい弟子が育たない師匠は二流?



釈尊の十代弟子には、師匠の身の回りの世話とか、庭の掃除しか出来ない者もあったといいます。
ある時釈尊は忙しく、約束していた帰依者の家へ行けなくなり、代わりにこの普段釈尊の身の回りの世話をしたり庭の
掃除ばかりしている無口の青年をやりました。さて、釈尊の名代として使いしたのですが、大勢集まった人たちを前に、
彼はしばらく言葉が出ませんでした。しかし、やがて弟子は静かに"掃き清めなさい"、"掃き清めなさい"と短い言葉を
繰り返し始めました。
最初は呆気にとられた信者たちでしたが、ざわめきが消え、静寂の中で繰り返し繰り返し語られる"掃き清めなさい"の
メッセイジは、人々の胸の奥に響いたといいます。

イエスの12使徒たちの活躍も、眼を見張るものがあります。師匠が杭に架けられ死んだ後、復活して(神の真の子で
ある証明)からの使徒たちの愛のメッセイジの布教が,世界を変えることになりました。


 288. チェックポイント・チャーリーが懐かしい


西ベルリンから東ベルリンに入るために、ベルリンの壁に沿って造られたアメリカ管理下の国境検問所チェックポイン
ト・チャーリーを超えると、東ドイツ側の検問が待ち受けていました。

早くても30分、通常1時間バスの中で待たされ、パスポートは全員集められ真顔の警備員が持ち去ります。やがてバ
スの底に大きな鏡を差し入れ,異なるものがないか調べます。笑顔の失せた緊張のひと時でした。このリズムは、夕刻
一日の東ベルリン観光が終わり,再びここを通るときも繰り返されました。
流暢な日本語を話す東ドイツ人ガイドが案内しますが、彼女たちの顔にも笑顔が失せていたように思いますし、気軽に
質問などできない雰囲気がありました。

ゴルバチョフ大統領が、グラスノスチ(情報公開)とペロストロイカ(民主主義)を掲げソ連の改革に乗り出したのは1985
年でした。
ハンガリー動乱(1953)やプラハの春(1968)の轍を踏まず、ベルリンの壁が若者によってハンマーで打ち壊される
事件(1989)に、東ドイツ、ホネッカー首相の軍事介入要請に同意しなかったゴルバチョフ氏の政治家としての大英断
は、血を流すことなく平和のうちに新しい世界を生み出しました。

今では30年近く人々を恐怖に陥れたベルリンの壁も撤去され、ここだったのですよと指摘されなければ、見過ごすほ
どに変わりました。


289. 週末に好んで国鉄に乗った外人家族たち


取り立てて予定のない週末など日本に住んでいる外国人家族などは、国鉄に乗り、それぞれの土地柄の出た駅弁を
買って食べるのが、楽しみだったそうです。

昭和40年代までは、手動式の開閉できる列車の窓でしたから,3〜4分のわずかな停車時間でもプラットホームを行
き来する、首から下げた入れ物の中に名物の駅弁を入れ、大声で呼びかける駅弁売りを呼び止めて、窓越しに買った
ものでした。
駅弁は、幕の内弁当で竹でできた四角や丸い箱の中に仕切りがあり、前菜,おかず、ごはん、そしてデザートが仲良く
収まっています。見た目にも彩が美しく楽しめました。

韓国の学者が書いた"縮み志向の日本人"という名著があります。
さしあたり駅弁などは、その代表で日本人らしい知恵が出ていることになりましょう。
世界広しといえども、料理のすべてが一つの箱の中に納まっていて、ハーモニーがあり、低カロリーで適正価格の食事
が楽しめるものは、他には見つけにくいようです。

日本に長く住んでおられるグレゴリー・クラークさんは、日本ほど住みやすい所はないといいます。月曜から金曜までは
仕事の関係上、東京のアパートに住んでいますが,週末は千葉県の山中に安く購入した、自然豊かな山懐に抱かれた
家に行き、ゆったり過ごすそうです。一方、日本人の多くは週末も都市に出て、ショッピングや食事,映画などと忙しく過
ごすリズムです。
クラークさんは、次のようにも言っています。
日本人はみんな同じ方向(集団思考でみんながすることを、したがる傾向があり、安心感がそこから生まれる?)に進
むので、先頭ではなく後ろをついて行きながら、途中で何か面白そうなものがあれば、横道に逸れてみても道を引返せ
ば十分しんがりについて行ける国であるので、掘り出し物に出会う機会が多い。

鳥のように空から下界を眺めてみるとか、対岸から日本を客観視してみる姿勢は、大切なようです。まだまだ宝が転が
っているようです。


290. 機内食に惹かれて


誰が機内食に惹かれて、航空会社を選ぶでしょうか。
安いとか席がゆったりとしているとか、安心感があるとか自国の飛行機だからというのならわかる気もするのですが
…。

だいぶ前(1970年代)になりますが、欧米人はわざわざインド航空を選んで乗るという話を聞いたことがあります。機
内で出されるインド料理に惹かれてという理由だそうです。
当時は、まだまだビートルズやヒッピーのリズムが残っており、インドをメッカとする神秘な憧れがあったと思います。
機内で出されるアルミフォイルに包んだカレー料理とマンゴを材料に香辛料を利かした独特の漬物の取り合わせは、
私も好きでした。
蛇足ですが、今まで聞いた機内放送で、一番心地良く、天国にいるような気持ちにさせてくれた声の持ち主は、インド航
空のスチュワーデスでした。エレガントにサリーに身を包んだ控えめな態度の彼女たちは、好感そのものでした。
インドに行く機会がなくなった今は、時たま行くロンドンやパリでインド人街まで足を運び、インド人経営のスーパーで、B
ORSTブランドの缶に入ったカレー粉やマンゴピックルズ(インド浸け物)、そしてあればオレンジペコ印のピンク色の包
み紙に入ったダージリンティを買ったりして、インドの味を懐かしんでいます。


 291. 見えない先を観るのは難しい


1970年代は,未だ南回りといって、東南アジアの国々やインド、パキスタン,中近東の国々に立ち寄りながら、ヨーロッ
パへ行くこともありました。24時間かかったと思います。

本流は、アラスカのアンカレッジ経由でヨーロッパへ16時間かけて行ったものです。
燃料の給油が主目的だったと思うのですが、行き帰りに1時間半ほどアンカレッジに立ち寄りました。行きに、免税店で
酒三本、タバコあるいは香水を免税限度枠いっぱい買い、ヨーロッツパからの帰りに品物を受け取って機内に乗ったも
のです。
日本人のヨーロッパへの旅が盛んになるにつれて、アンカレッツジの免税店は大きく立派になり、多くの日本人従業員
を雇って栄えていました。免税店はユダヤ人の経営になると聞いていました。

しかし、ソ連に共産党の希望の星、若きゴルバチョフが登場(1985〜1990)しますと、このアンカレッジ経由に変わり
シベリア経由が台頭してきました。最初はおずおずと、やがて堂々と主流になり12時間でノンストップでヨーロッパへ行
けるようになりました。

先を観るのに聡いユダヤ人をもってしても、この手は見えなかったようです。
やがてアンカレッジの免税店は閉鎖となり、多く勤めていた日本人スタッフも雲を散らすように辞めていきました。
今では、誰も酒3本、タバコ,香水、などを免税枠いっぱいに買って帰る人とてなくなりました。

"すべては変わる"のは、変わらない真理のようです。


292. 意見の相違なしには真実の発見は不可能なり


ドイツのベルリンにフンボルト兄弟の名を冠した名門フンボルト大学があります。

アレキサンダー・フンボルト(1769〜1859)は、カナリア諸島(大西洋上にあり、常春の島で植物学者の研究の宝庫
であり、コロンブスの若かりし頃生活した所)や中南米を広く旅した人で、博物学者として有名です。タイトルの名言はこ
の人から発せられたと聞いています。

またユダヤ社会では、全員が賛成あるいは反対した場合、一定期間の間をおいた後、再び決をとると言います。真実
の発見を大切にするからでしょう。

ともすれば全体の空気に流され、自分の考えを抑えて、全会一致で認めようとする、この国の風土とは異なる、生き方
を大切にしているひとたちがいることに、注目して見てはいかがでしょうか?



 293. レストラン、飛行場、電話ボックス、ホテルは盗みの温床


バンコックのレストランで海鮮料理を食べ終え、池のある中庭で雑談をしていました。

するとアラブ系の二人の男性が近づいてきて、"初めて日本に行くのだが、日本の紙幣を見たことがないので、見せて
もらえないだろうか?"と丁寧に尋ねました。
私は、周りに何人も共に旅をしている日本人もいるし、気軽に財布をポケットから取り出し、一万円札五千円札千円札
を見せてあげました。ほんの一瞬ですが,どうしたわけか財布ごと相手の手に渡りました。勿論直ぐに私に返されまし
た。そして二人は去っていき、私たちはレストランの前に待機しているバスに乗りました。待てよ!もしかしたらと思い財
布の中身を調べてみると、ちょうど5万円(1万円札が5枚)ほど無くなっています。
直ぐにレストランに引き返し,従業員に2人の行方を尋ねると、裏口から走って行ったといいます。まるで手品を見てい
るような早業でした。

早朝シアトルの空港に到着して,入国手続き、税関を通って迎えに来てくれたアシスタントに会い、サイドウォーク(バス
などが横づけするターミナルビルと車道の間)にスーツケースを並べて、バスの入ってくるのを待っていました。生憎の
雨模様で,小寒い朝でした。
お客さんは、ビルに入って暖をとったり私の傍に来てタバコを吸ったりされていました。
アシスタントも落ち着かず、電話を掛けに行ったりしていました。私は、両足の間にブリーフケースを置いて、じーとスー
ツケースの番をして立っていました。
しかし気がつくと、ブリーフケースが無くなっていました。お客様に尋ねると、私の横に背の高い白人がニコニコしながら
立っていたそうです。私は、そのことに全く気がつきませんでした。私のパスポートや全員分の航空券が中に入ってい
ました。その日と次の日丸2日間は、領事館や航空会社、警察へと出向くことになりました。

ミラノのスフォルシェスコ城の正面横の電話ボックスの中で、大切な連絡事項をローマの事務所へ電話していました。
不幸なことに、財布の中に仕舞ってあるテレフォンカードで掛けるため、電話機の上に書類と共に財布を置いたままで
話をしていました。するとガラス越しに、私の左手後方からしきりに男性が、私の前方を指差しながら大声でガラスをた
たきます。つられて前方を見ます。しかし次の瞬間には、財布が消えていました。右側の折りたたみ式のガラス扉を開
けて,女性がどうやら持ち去ったようです。
中央駅近くの警察に届けましたが、担当の警察官が大変に親切で、日本語で応対してくれ盗難に会って気の毒に思う
と語り、わずか20分ほどで盗難証明書が出来るというおまけがついていました。彼女が日本人だとも言っていました。

今は私は、財布はチェーンでズボンのベルト通しに結び、ブリーフケースは止めてショルダーバッグにして、パスポート
や航空券は魚つり用のベストのポケットにしまい、私を拉致しない限りは盗めないようにしています。



 294. トマトの気持ちを誰が知る


スペインの夏は暑く、食卓に冷たく冷えたガスパチョ・スープが出されます。
喉越しが良く、食欲増進の役目を果たしてくれます。材料は、トマト、きゅうり、ピーマン、パン、葡萄酢、オリーブ油、ガ
ーリック、ひめういきょうです。
トマトは種を持っているので、果物に分類されます。野菜になるには、葉や茎、根が食べられるハードルをクリアーする
必要があります。
年間百万トン作られていて、ライバルの林檎やバナナ、葡萄やオレンジを凌いでいます。
ビタミンAやCを多く含んでいて,酸化防止に役立ち癌の防止になるとまでいう人もいるほどです。しかし、こんなに人気
のある商品になるまでには、長い道のりがありました。

元々は、南アメリカのアンデス山中に自然に生えていたのですが、やがてメキシコへと旅をします。アステカの人たち
は、トマトルと呼び、サルサ(トマトソース)は料理に欠かせないものとなりました。スペインの征服者たちもサルサの味
を好み、記録によるとメキシコ在住のイエズス会神父は、トマトは滋養に富み食べておいしく、またジュースはよいソー
スになると述べています。スペイン人はトマトの種を、本国スペインやカリブ海の他の植民地そして遠くフィリッピンにま
で送っています。

ヨーロッパへとやってきたトマトは、植物学者によってソラナシア科に属する分類をされました。これは、ナス科の有毒
薬用植物の一種ということでした。そして、トマトの葉は強い匂いを出していて、毒性があると言われました。また他の
学者は、トマトが性欲を促す媚薬の効果があるともいいました。
そこでフランス人は、ポーム・ダモール(誘惑のリンゴ)と名づけ、道徳的に芳しくない評判を広げました。北ヨーロッパで
は、トマトはパッとせず、わずかに装飾用や薬用として栽培されていました。

幸いにもイタリアでは、16世紀にはポモ・ドーロ(金色のリンゴ)と呼ばれ、17世紀初めには人気のある食物になりまし
た。最初にイタリアで栽培されたトマトは,黄色だったのでしょうか?
やがて蔑視、差別された食物から人気商品への転換期が、やってきました。
19世紀半ばには、イタリアのナポリで最初のピッツァリア(トマトとモッツァレーラチーズをベースにしたマルゲリータピッ
ツァが人気を博す)店がオープンします。
1870年代には、アメリカにおいてカルフォルニア産の獲れたてのトマトが、ニューヨークへ大陸横断鉄道に乗せられ
運ばれました。
20世紀に入ると、スープにジュース、あるいはソース、ケチャップやピッツァの中に、そして料理に欠かせない材料とし
て重要視されるようになりました。中近東の砂漠や北海の風の吹きすさぶ石油発掘現場においても、わずかの手入れ
で強く育つトマトは,園芸用として人気を博しています。


295. ショーンブルン宮殿のグランドホールでのコンサート


三枚の大きな天井画を美しく見せるために、吊り下げられた巨大なシャンデリアの下、グランドホールで観光客のため
の毎夜行われるコンサートです。

2時間ほどのものですが、素晴らしい演奏以外に、男女ペアーによるバレーや社交ダンス、そして男女二人によるオペ
ラの声楽もありました。ラデッツキー行進曲を最後にプログラムの終了ですが、アンコールの催促が鳴り止みませんで
した。

このホールではかって、ナポレオンがモスクワ遠征(1812)に失敗して、エルバ島(地中海にある)に流された後、勝利
したヨーロッパの国々の代表者が集まり、昼は会議に夜は舞踏に舞った所です。"ウィーン会議は踊る"という映画がつ
られたほどです。
この会議をリードし,その後1848年に失脚するまでの30年以上の長きに亘って、ハプスブルグ家の外交を担った人
が、メッテルニヒでした。

今でもウィーンは、世界で最も古い(マリア・テレジア女帝によりつくられた)外交官養成学校があります。日本からも優
秀な一流企業の若手エリートや外務省の選ばれた人たちが学んでいるといいます。
1990年代の半ば訪問したとき、学長は40代半ばに見え長身でハンサムな人でしたが、
究極の外交官とは口で相手を言い負かし、勝利することだといいました。武器を使わない戦争とでもいえましょう。そし
てオーストリアが生んだ最大の外交官は、メッテルニヒだそうです。

それにしてもショーンブルン宮殿内、最も広い建物の中心に位置している二階のグランドホールでの一夜は、十分に私
たちを酔わせてくれました。


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