希望




326. オペラ・コンサートは冬に行われた



1990年代の冬の頃でした。丘の上に中世の市壁がほぼ完全な姿で今も残る町、南仏のカルカソンヌに数日滞在しま
した。

泊ったホテルは、丘のふもとに開けた近世以降発展した、新市街にありました。一夜、市の配慮で劇場に案内され、オ
ペラを鑑賞する機会がありました。ハンガリーからのオペラ団の演ずるもので、オーケストラ演奏者に出演者(子供を
含む)そして裏方を含めると、100名近い一行です。秋から翌年の春にかけてヨーロッパの中小都市を巡っている劇団
です。一番いい席で3千円ほどです。出し物は、さまよえるオランダ人でした。
見ごたえのある内容でしたし,観に来ている町の人達も若者を含む、良質の大人たちで7〜8割方席も埋まっていまし
た。いい伝統文化が、今も続いていることが分かります。

ヨーロッパの冬は冷たく長く、日中もあまり日が差さない厳しいものです。このともすれば気の滅入りがちな頃、教会や
かっての王侯、貴族の館、そして設備の整った劇場を使い、開かれるコンサートやオペラ、ダンスパーティなどを楽しみ
ながら、冬の一夜を過ごすことで,やがてやってくる春を待ったひとたちでした。時代が移っても変わらぬ伝統を持ち続
けるヨーロッパの文化に脱帽します。



327. ニューヨークの地下鉄で悟ったフランス娘



フランスで生まれ育ったハイティーンの娘が,何らかの理由でニューヨークへやってきました。

一人で、昼間すいている地下鉄に乗りました。通路の向かい側に、同世代に見えるヤンキー娘たちが座っていて、ペチ
ャクチャ早口の英語で夢中になって話をしていました。このフランス娘は、英語は勿論話せませんでした。そこで、ヤン
キー娘への目線を切り、自分に関係のないことだと思うようにしました。ところが突然に次のような考えが湧き上がりま
した。
自分がフランスに生まれたのも、このヤンキー娘たちがアメリカに生まれたのも全くの偶然によるもので、立場が逆転
していた可能性だってあるはずだと。知らない者同士が、挨拶し合い、話をするのが大切だと気づいたそうです。

めったに接触することがない、外国人との出会いですが、海外旅行では笑顔、プリーズ、サンキュウぐらいは行いたい
ものです。

かっての英語の出来なかったこのフランス娘は、長じて世界私立幼稚園協会の会長になられ、英語もベラベラの方と
なられました。



328. 美術と産業を融合したジョサイア・ウェジウッド



ジョサイア・ウェジウッド(1730〜1795)は、陶器をつくる家にうまれています。

当時は、家族と数人の使用人でつくる小規模な時代でした。ストーク・オン・トレント(トレント川のストークの町)は、ほそ
ぼそと陶器を作る人達が生活していました。馬の背に原料の土や完成した陶器を積んで、舗装されていない道を運ん
でいました。
ジョサイアは生来の研究熱心に加え、時代は科学合理精神を鼓舞する啓蒙に満ちていました。安定して上質の陶器を
作るために、弛まぬ試験を繰り返します。思考錯誤した過程は、全て記録に残しました。釜の中の温度を計るための
道具(パイロミター)を考案しました。古典時代(古代ギリシャやローマそしてエトルリア)の作品に関心を示しましたし、1
8世紀に生きた多方面の芸術家たちとの交流もしました。

やがてトレント・マーシャ運河をつくることで、物資の運搬がはるかに安定しました。時代に先駆けた発想で、大いに地
域産業に貢献しました。それまで馬100頭が運んだ量を,1艘の舟が運べるようになりました。パトロン(大口の購入
者)との接触も怠ることなく、彼らの求めるものを作り、収めました。ジョージ3世国王の妻シャーロットや、ロシアの女帝
エカテリーナなどがパトロンに名を連ねています。
事業の拡大に伴い、新たにエトルリア工場(中部イタリアの古の文明エトルリアの名を付ける)を造る際には、片足切断
の災難に会いますが、麻酔なしで手術を行い、一ヵ月後には工場に出かけるほどの気持ちの入れようでした。
英国からの独立を目指したアメリカ独立戦争(1776)では、'鎖につながれた奴隷'の陶器(ジャスパー)を世に問うこと
で積極的に奴隷解放を支持しました。半引退生活を送る老後になってからも研究熱心は変わらず、古代ローマ時代に
ガラスでつくられた有名なポートランドの壺(当時ポートランド卿の所有になっていた)を陶器でつくり、評判になりまし
た。
19世紀の偉大な政治家グラッド・ストーンは、ジョサイアを讃え美術と産業の融合をもたらしたと表現しました。



329. 三界に家なしとは言うものの



英国に人生の半分以上(30年)を過ごした日本女性が、次のように述懐しました。

年をとってくると、日本食が無性に恋しくなります。医療も不便で、ホームドクター(平均2千人の住民の健康を看る地域
の担当医)制なので、専門医の治療を受けられるまでの時間が必要以上にかかってしまい、手遅れになりかねない。こ
の国に生まれ育った人の英語の機微の細かい表現が出来ず、理解も出来ない。実に寂しそうでした。
また、英国に住むことの良さも次のように言いました。
何処に行っても、暖かいお湯が常に出る。他人のことには干渉しない。国立の博物館や美術館は無料です。質の高い
劇やコンサートが安く見られる。価値ある歴史建造物や作品を民間レベルで保存する知恵(ナショナルトラストなど)を
百年前からつくっている。

今は、猫に囲まれ庭いじりをすることで、充分喜びを感じているそうです。



330. ビクトリア女王のバース嫌いの原因は?



バースの町は7つの丘からなっています。

小高い丘の上に、18世紀後半にロイヤルクレセントという高級アパートがつくられました。下弦の月の形をしていて、3
0家族の貴族を収容するエレガントなものです。建物の設計者はジョン・ウッドといい、彼の父親も同名の建築家で、バ
ースの町の景観に多大な貢献をしています。父親の作品の中では、クイーンズ・スクエアーを取り巻く広場は有名で
す。もともとロイヤルクレセントの立っているあたりは、牧草地であり、羊や牛がのんびりと草を食べているといった所で
した。貴族や産業資本家の住まいするフラット(英国ではアパートのことをそう呼ぶ)の傍へ羊や牛がやってこないよう
に、1米あまりの石の壁をつくりました。この石の壁がハーハーの壁と呼ばれるようになったのは、丘の上に住む貴族
には段差のある壁が見えないため、時には誤って下の牧草地へ落ちることもあったそうです。それを見た人が陰でハ
ーハーと笑った所から付けたといいます。
やがて19世紀に入り開発が進み、この牧草地が公園となりました。ビクトリアパークと命名され、開園式に出席された
のが当時10歳だったビクトリアで、後に彼女は女王(在位1838〜1901)となり世界に君臨します。跡にも先にもこの
一回だけバースに来ただけで、バースを避けたあるいは嫌ったエピソードが伝わっています。
当時出来たばかりの鉄道に乗り、女王の好んだリゾート地,海のほとりのブリストルへ出かけるには、ここバースの地
を必ず列車は通過しますが、プラットホームで正装して出迎えるバースの市民には関心を示さず、窓のカーテンを下ろ
させたといいます。なぜそれほどまでに無視したのでしょうか?

バースの街並みは当時の国王ジョージの名を取りジョージアン様式と呼ばれ、ジョン・ウッド親子などを代表とする18
世紀のリラックスした新しい思想、試みに積極的に上流貴族階級が援助した時代(啓蒙時代)をバックにつくられまし
た。ついついパーティなども暴飲暴食になり節度を失いがち、肥満した人達も多くなりました。一方、ビクトリア女王は節
度を重んじ、建築も新古典様式の中の硬いイメージのゴチックを好んでつくり、ロンドンの国会議事堂などは教会かと
見間違えるほどです。同じドイツの血を引くハノーバー出身のジョージ王(1〜4世)に対するライバル意識が働いたの
でしょうか?
あるいは、10歳の少女が少し内股気味に歩くのを笑ったバースの市民に対する仕返しだったのでしょうか?



331. 同じ国からの移民で同じ頃つくった国とは言うものの…



オーストラリアとニュージーランドは約2百年前、英国からの移民が、先住民族(アボリジニやマオリ族)を押しのけてつ
くりました。

日本から20代の若者(女性)が、ワーキングホリデーを利用して、両国を体験しました。オーストラリアでは、アデレード
(南オーストラリア州の首都)に行き、ギリシャやイタリア、ドイツなどから第二次大戦後移民してきた家族の下で暮ら
し、彼女の下手な英語にも暖かく反応してくれる、懐の広い歓迎を受けたそうです。実際に生活のリズムもゆったりして
いて,大陸ならではののんびりして、おおらかさに大いに感動を覚え、ヨーロッパ出身地の違いが微妙に見られたとも
いいます。何年か後、再びアデレードを訪れると、以前と変わらず暖かく迎えてくれ、そこには変化があまりなかったそ
うです。

一方ニュージーランドでは、都会のオークランドで生活しているようですが、下手な英語にはシャープに批判的に反応す
る白人たちが多いようです。小さな島であり、四季もあり日本とさして違わない国柄です。先住民族のマオリの人は、生
来の人の良さで、日本からの一女性を暖かく歓迎してくれるおおらかさを持っているようです。
何がこの違いを生むのでしょうか?国の大きさでしょうか?考えてみる価値はあるようです。ワーキングホリデー組にフ
レーフレーと声援を送りましょう。



332. チップ(Tip)の名の由来



ロンドンの劇場街として有名なストランドを過ぎ東へ少し進むと、道の両端に銀色のドラゴンの人形が見えてきます。

ザ・シティーの始まりで、ローマ人により2千年前につくられた町に入ったことになります。紅茶の老舗で名高いトワイニ
ングの本店の小さな建物が、左右の大きなビルに挟まれて立っています。
昔からここにあり、19世紀の初め中国から持ち帰った紅茶を、この本店の中の喫茶室で飲むのが流行ったそうです。
女性も初めて、ここでは殿方と一緒に楽しむことが出来るようになりました。大変に流行り、なかなかサービスが追いつ
かない中、To Insure Promptness(敏速を保障する)と書かれた箱が置かれるようになり、その箱の中にコインを
投げ込むと、音を聞いた給仕人が素早く反応し、サービスが早くなったといいます。三つの英語の頭文字をとって、後
にチップと呼ばれるようになりました。



333. ヨーロッパのケチの代表



まずはスコットランド人の登場です。
エジンバラ城の正面入り口の周りは堀がありますが、一度も水を張ったことはないそうです。なにしろこの国の水は、ス
コッチ・ウィスキーをつくるのに、一滴も無駄にはしたくないからだそうです。城内に入ると見張り台に砲台があります。
ワンオクロック・ガンと呼ばれ、昼過ぎの1時に一発打って、時刻を市民に知らせたそうです。12時では12発となり、も
ったいないと考えたようです。ビールをみんなで飲みに行くと、誰かが全員分買って支払う習慣があるそうで、第2、第3
ラウンドと進むにつれて、順番に支払いを回していくのですが、最後まで支払う番を待つのがスコットランドの男性だと
いいます。

オランダ人は、ダッチアカウントという名があるくらいですから,見栄をはって生きることはしないでしょう。
周りを列強(フランス、イタリア、ドイツ、オーストリアなど)に囲まれて汲々と生きたスイス人は,屈指のケチとして折り紙
つきです。



334. 南極近くから始まったスコットランド



スコットランドは6億1千年前(地質学では、前カンブリアン紀)は、南極近くの浅い海の中にありました。

そして5億1千年前(カンブリアン紀)になると、大きな大陸の南の端っこになり、北に向けて移動を始めます。4億4千
万年前には、北アメリカやグリーンランドも一緒になり、引き続き北へ向けて移動します。4億1千万年前(シルシアン
紀)には、イングランドと合体します。3億8千万年前(デボン紀)には、赤道近くに達しています。3億4千万年前(石炭
紀)になると、赤道あたりで大陸の一部となっていました。2億6千万年前(2畳紀)には,赤道の北へと移動します。1億
6千7百万年前(ジュラ紀)には、大西洋や地中海がつくられました。6千万年前(第3紀)には、グリーンランドや北アメ
リカが分かれていきます。それ以降は、160万年前から1万年前(第4紀)までは、氷河期と温暖期が繰り返され、引き
続き北に向かって移動しているそうで、これから4〜5千万年後にはスコットランドは、北極の近くにいるだろうと予想さ
れます。スコットランドで石炭や石油が採れる背景には、赤道を時間をかけて旅したことによるのでしょう。また、英国
の東海岸に多く見られるチョーク色の絶壁は、白亜紀(1億4千5百万年前〜6500万年前)つまりチョーク紀にできま
した。

以上の事は、エジンバラの旧市街にあるスコットランド国立博物館(入場料無料)の地下1階の第1室で見たものです。
なによりも入り口に29億年前の斑文様になった大きな石が置いてあり、触れます。この石がスコットランドの西側の島
に存在していることを教えてくれます。生命としての地球の中で、スコットランドがどういう位置にあるのか子供から大人
まで、誰もが楽しめるように工夫されていて、18世紀の学者が述べたことをビデオで紹介したり、絵パネル、そしてハ
ンズ・オン方式(手で触る)などあります。そしてやがて人間の登場となり、先史、歴史時代へと進んでいく流れが、地下
1階から順を追って建物の上へと登っていきます。屋上に上がると、旧市街が眺められ起伏に富んだ景色が楽しめま
す。

中がつながっている隣の国立王立博物館の大ホールは,19世紀後半の特徴である、鉄とガラスを使った内装で、185
1年にロンドンのハイドパークで行われた1回目の世界博覧会のメインパビリオンであったクリスタルパレスを彷彿させ
るものです。展示品も多岐に亘っていて、実に見ごたえがあります。



335. グラスゴーとエジンバラ



スコットランドで4半世紀暮らした日本女性の述懐です。

18から19世紀沸き立つような産業革命期に港町として、貿易や造船で栄えたグラスゴーですが、労働者階級の人が
多く、経済的には今はあまり恵まれていません。しかし、人情は温かく、例えば食事時に訪れると、上がって食べていけ
と心から誘ってくれます。

一方エジンバラは、どちらかと言うと鼻持ちならないそうで、長い歴史の伝統もちらついて、食事時に行っても、ただお
茶しか出さないのが普通だといいます
聞いていて大阪と京都のイメージに似ているように思いました。

スコットランドの素晴らしさは、自然が豊かに残されていることに尽きると、彼女は目をきらきらさせて語りました。スコッ
トランド人のご主人も典型的なケチだけれど、優しく包容力があり,日本を遠く離れてしまったが,後悔はないと言い切り
ました。


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