希望

316. ホストファミリーとの夜は?


夏の1週間を英国で、ホストファミリーのお世話になりながら過ごすことになりました。

朝食と夕食付です。日中は引率していった高校生たちの英語の学習風景を、ケンブリッジ大学の教室で見ていました。
私と同世代(40歳前後)の夫婦とおとなしい小学生の子供一人の家でした。夕食は決まって6時に始まります。20分も経
てば夕食は終わります。後片付けは、ご主人と私の仕事です。そして、居間に移り、紅茶とケーキで食後の話などが始
まります。最初の2日間は、日本から持ってきた小さなお土産が役に立ったり、何とか話題を提供し時間を過ごしたので
すが、それ以後はお手上げの状態になりました。この夫婦は、夜中近くまで毎晩一階の居間で話をしていました。
私は一計を案じ散歩を夕食後したいと言い、紅茶を頂いた後は毎晩、11時のパブの終了時まで近所のパブに行ってビ
ター(ビール)を英国人の真似をして、チビチビすすって時を過ごしました。
なにしろこの時期、暗くなるのは10時を過ぎてやっとです。パブでは、みんな思い思いにゆったりと時を過ごしていま
す。ダートを壁に向かって投げて楽しんでいる人もいれば、過っては王侯貴族の楽しむものだったというプール(玉突
き)をしている人もいます。
10時半を回るとベルが鳴り、ラストコール(最後の注文)の知らせがあります。
11時過ぎには、玄関をそっと開けて2階の寝室に戻りました。しかし、一階の居間からは奥さのよく通る大きな声が、機
関銃から発せられる銃弾の音のように響きます。そして、時折ご主人の小さな声が単発銃の消音装置つきのピストル
の射音のように小さく発せられました。

2日に一度配られてくる大瓶のミルクが配られてくる朝は、壁越しに想像するのですが、奥さんが玄関の外に早朝配ら
れたミルクを取りに降り、台所で暖かいミルク入りコーヒーを作り、階上の寝室のご主人に持って上がっている様子でし
た。これで夫婦のバランスが取れているのだろうと思った次第です。
2階に風呂がありましたが、シャワーが基本であって湯舟に湯を張って使うのは、1週間に一度にして欲しい、部屋のド
アーは留守にする時は、少し開けておくこと。互いに約束を守ることで、余計な摩擦を避ける配慮をしているようでした。

相手の縄張りで生活してみると、普段気にかけていないことに気がつき、勉強になるものです。



 317. プールあれこれ


健康に良いと思い、水着をスーツケースに入れて旅行した時期があります。

ニュージーランドのオークランドでは、市民体育館は早朝5時から開いていて、一階はプールや器具を使ってのフィトネ
スセンター、階上にはラニングトラックまであり、務め前のサラリーマンで賑わっていました。
パリの過って市民の胃袋と言われた中央市場は、レ・アールという地下の大型ショッピングセンターとなりました。そし
て、その一角に大きなプールがあります。外からガラス越しに泳いでいる人が見えます。
北欧のストックホルムでは、古い集合住宅の地下にプールがあり、サウナまでありました。
コペンハーゲンには、リフォームしたお洒落なショッピング街の中に、オリエント風の内装をほどこした立派なプール設
備があります。このプールもストックホルムのプール同様、昨日今日作られたものでは決してないようです。

夏はなんと言っても屋外プールです。バスに乗って、あるいは歩いてジュネーブやローテンブルグ(ドイツのロマンチック
街道の花形町)、ミラノの公園内にあるプールへも行きました。家族連れや恋人、老人に子供と言った具合に各世代が
入り乱れて、ワイワイ短い夏を楽しんでいました。そして、ベネチアの有名なリド島のビーチでの海水浴にも行きまし
た。ベルリンの中心、ヨーロッパセンターの屋上プールでは、泳いでいると眞裸の女性が前方から泳いでくることもあり
ました。
ローマのベネト通り傍の会員制のプールは、私が旅行者であり近くのホテルに泊っている客だということで、使わせてく
れました。スチームサウナやドライサウナまであり、プールの横には立派な渦巻きプールが別個ついていました。
そして、ロスアンゼルスのリトル東京から歩いて10分の所には、YMCAが経営する大型の健康施設があり、よく利用し
ました。10年も続いたでしょうか。泳ぎたいという目標があって旅をしていた頃でした。

時間をつくり一人訪ねて行き、目標を達成する喜びは快感でした。


318. キッパーズ現象は先進国に広がる?


英国では、K(Kids)I(in)P(Parent)E(Eat)R(Retire)S(Savings)キッパーズと呼ばれる、子供が親元を離れず、
親は老後の保障が不安な現象が話題になっています。

土地や建物の値段が異常に上がる中、国の医療や年金補償が問題になっています。公立大学では初めて、授業料を
とることになりました。私立大学や名門私立小中学校での授業料も値上げされています。
若者が安いアパート住まい(愛の巣)からスタートして、子供の成長や収入の増加に応じて住み変えをしてきた本来の
姿は、消えつつあるといいます。
ロンドンでアパートを借りるとすれば、週に500ポンド(約10万円)するのはざらにあるそうですし、買うとしたらミリオン
ポンド(2億円)以上だといいます。日本のデフレ現象(1990年以降今まで続く)は、不幸中の幸いに思えます。
ただ、人類史上かってなかった先進国での、子供の少子化現象に歯止めがかからないのは共通で、このまま行けば
前代未聞のBane(破滅)がくるかも知れません。
これまでもBane(戦争、天候不順、疫病など)はありました。きっと今回も乗り越えられることでしょう。


319. トラファルガー広場から鳩が消えた!


'私の体は海に投げるなよ'と伝統に逆らって遺言して、死んだのが名将ネルソンです。

鷹と恐れられた人で、'自分は義務を全うした'という名言を残しています。
産業革命は、労働者に工場の機械の一部品のごとく,正確に働くことを要求しました。
ナポレオン軍とナイル河に、そしてスペインの地中海沖トラファルガーで勝利したネルソンは、英国海軍(機械)の一部
品として役目を果たし切った末の言葉のように受け取れます。
ロンドンの中心は、トラファルガー広場であり、デモなどの行進の起点や終点になっています。大晦日の夜には、恒例
になった若者たちによる、ここの噴水池に飛込みがあります。また、名物の鳩が多くいることで知られている所ですが、
今はその鳩が消えてしまいつつあるといいます。鳩は、羽の生えた鼠にすぎないとして、糞公害などを理由に撲滅作戦
が行われています。鼠の天敵である鷹(ネルソン提督の愛称)を空に放っているそうです。

当人ネルソンは、この広場に立つ20米の柱の上で、宿敵フランスを睨み続けています。



320. ローソクを灯すとは


映画のシーンで、あるいは実際に欧米に行き、いいレストランなどへ入ると、夕食のテーブルにはローソクが灯されま
す。

私達にはなんとなく暗く、あるいは年配者の方にとっては戦時中を思い起こすので、あまりいい印象は与えないようで
す。しかし、キリスト教を信仰して生きてきた人達にとっては、ローソクの灯は次のような象徴的な意味があるそうです。
イエスは、神への祈りの大切さをローソクの灯で言いました。また、たとえ話をローソクの灯を使ってしました。そして、
愛と希望のシンボルとしてローソクの灯を灯すようにとも言いました。
教会のなかに入ると、薄暗い堂内にローソクの灯だけは赤々と灯っているのを眼にします。
ヨーロッパの旅行土産に、お洒落なローソク(ローソク専門店が多くあり、安く手に入る)を一本買い、ワインとパンで一
夜、部屋の蛍光灯の明かりを消して、ローソクの灯を灯し留守を守ってくれた方と、ヨーロッパの旅の思い出話などをし
てみてはいかがでしょうか?


321. 三日月のパン(クロワッサン)を食べるとは


カラスの濡れ羽色と言えば、黒い色を象徴するものです。

オーストリアのウイーンのリング通り近くに、馬に乗ったシュバルツェンベルグ(直訳すれば黒山)公の石像があります。
また、チェコのチェスク・クロムロフ城内には」シュバルツェンベルグ家の家紋が残っていて、カラスがオスマントルコ兵
の剃りあげた頭を突っついている図柄を見ます。シュバルツェンベルグ家は、オスマントルコ帝国(三日月の紋章)との
戦いで勲功が著しかった家柄です。1683年のウイーンをめぐるオスマン回教軍に勝利して、三日月型をしたパンをウ
イーンでは食べる(オスマン回教軍を打ち砕く)ようになりました。そしてこのパンはウイーンに宮廷を置いたハプスブル
グ家の令嬢マリー・アントワネットのフランス王家への興し入れ(18世紀半ば)と共に、クロワッサンとしてフランスでも
食べるようになり、今に至っているといいます。あまりうまく出来ている話のように思えるのですが…。

一方、イギリスのバース(風呂の語源になった町)には建築家ジョン・ウッド(息子の方で18世紀後半の人)が造った、
貴族のためのフラット(アパートにあたる)ロイヤル・クレセント(三日月)があり、下弦の形をしていて、緩やかにカーブ
をえがくスタイルの建造物は、その後流行となり、ロンドンやエジンバラの町にも多く造られました。
曲線の美しさを建物の正面に使うという発想は、ローマのサン・ピエトロ大聖堂の正面を飾るキリストが大きく両手を広
げたように見える、サン・ピエトロ広場から生まれたそうです。
4本の柱が直線に並び、しかもこれらの柱が曲線を描いて信者たちを包み込むように設計した人は、17世紀のバロッ
ク期の巨匠ジャン・ロレンツォ・ベルニーニでした。


 322. 世間の目は女性の活躍に冷たかった


イングランドの湖水地方に、桂冠詩人ウィリアム・ワーズワース(1770〜1850)が後半の人生を送った、ライダルマ
ウントの家(1813〜1850)を訪れました。

案内してくれた管理人の女性は、次のように詩人の妹ドロシーについて語りました。
兄ウィリアムの作品に影響と理解を与えたふしがかなりあると、最近の専門家の研究で明らかになってきています。常
に兄の傍にあり,年も少ししか違わない妹ドロシーの存在は、強い味方となり気を許して語れる友だったのでしょうか?
幕末期に活躍した坂本竜馬にとっての姉に相当するような気がしてきました。

同じく19世紀に生きた、裕福な英国国教会の牧師夫妻の家庭に育った、ブロンテ3姉妹も才能もあり、教育も受けまし
たが世間の評価を得るには苦しんでいます。
あるいは、モーツアルト(1756〜1791)にとっての姉の存在も見逃せません。子供の頃は、世間はちやほやして認め
ますが、それ以降となると姉にとっては、音楽の才能を生かす道は閉ざされたのでしょう。


323. 家紋が語る日本とヨーロッパの違い


ヨーロッパでは貴族だけが家紋(コート・オブ・アームズ)を持ち、日本では元々は武士階級が使ったようですが、次第
に庶民層にまで浸透しました。
世界中で僅かにこの二つの地域にしか見られないそうです。

ヨーロッパでは、十字軍遠征(11世紀末〜13世紀)頃から、目印に旗や楯などに使われ始めます。日本では同様に、
蒙古襲来(1274〜1281)頃から旗や兜などに使われました。紋章のデザインとなると、ヨーロッパにおいてはワシ,ラ
イオン、馬やドラゴン、一角獣、カラスなどの実在の動物から架空の動物,そして月や太陽、植物あるいは抽象のデザイ
ンなど多岐に亘っています。日本のそれは、植物や鳥の抽象化されたデザインが一般のようです。どちらかと言えば、
控えめなシンプルな意匠です。



 324. 三途の川は本当にあった


北インドの内陸に、ビハール(ビハーラとは僧院)州という、今は大変に貧乏な地域があります。

2500年もの昔は、栄えた所でした。そして釈尊は主に、このあたりを中心に活躍しました。王舎城(ラジャグリハ)はマ
ガダ国の都だった所で、釈尊当時はビンビサラ王という善王がおられ、ブッダ(釈尊)に帰依していました。今は、ラジギ
ールと呼ばれ、周囲を囲っている起伏のある山や町への出入り口付近には、防御用の石垣が残っています。
ラジギールにはインドに珍しく温泉があります。雨期(6〜8月)には、とても説法の旅など出来ませんから、金持ちの信
者が寄進した精舎(住まい)に釈尊は留まられました。竹林精舎といいます。その場所は今は公園になっていて、名に
ちなんで竹が多く植えられています。あるいは王城跡に行くと、考古学者が立てた看板があり、息子により牢獄に入れ
られたビンビサラ王は、面会にやってくる妻の体に塗った蜜をなめて生きながらえたエピソードが仏典にあり、このあた
りが牢獄跡かも知れないなど書いてあります。

霊鷲山もこの村にあります。決して高い山ではありませんが、釈尊は好んで弟子を伴って出かけ、瞑想三昧にふけった
といいます。山の名前の由来は、ビンビサラ王の愛する妻が死に、心を乱した王は政治が留守になる中、大臣たちの
願いを聞きブッダは王に説法をしました。目の前に横たわっている王の妻は早やウジがわき,山上で舞っている鷲に食
べさせるのが、せめてもの供養であろう。王には王としての民衆の為の務めがあろうと言ったそうです。ゾロアスター教
の鳥葬にも似た仕方で、亡き妻を葬った所から霊験あらたかな鷲の山と呼ばれました。また、この村には、岩肌の露
出した洞窟がいくつかあり、そこで釈尊入滅後、最初の結集(釈尊が弟子や信者に生前何を語ったかを、正確に記憶
しようと集まった会議)が行われたところです。
そして、噂の三途の川もこの村にありました。
ただちょろちょろと流れ落ちるだけの小川でした。ひょいとまたいで向こう岸(彼岸)へ行き、何の苦もなくこの世(こちら
側)へ戻れました。勿論、渡し守の船頭もおらず、お賽銭もかからずじまいでした。最も雨期ともなると、話は全く違うこ
とでしょう。さて、本当にあの小川が三途の川だったかとなると、大いに疑問です。


325. 聖なる岸辺で用を足した人


ヒンズー教で最もパワーフルな神といえばシバ神で、民衆からあつい信仰を集めています。

シバ神のよじれた長い髪は、ヒマラヤの雪解け水を受け、適量に調整して洪水を防ぎ、民衆の生活を守ってくれます。
そして、聖なる河となってインドへと流れ出します。
ガンジス河がそれで、バラナシ(ベナレスとも呼ばれた)付近では水の流れが逆行して、ヒマラヤ(シバ神が住むカイラ
ーシャ山がある)へ向かって流れる所から、シバ神信仰のメッカとなりました。インド中からやってきた巡礼者たちは、早
朝ガンジス河に入り、東に向かって日の出を拝みつつ、シバ神を讃えます。太陽の昇るのをさえぎらないように、東の
岸辺には建物は何も立っていません。ただ草むらと木が植わっているだけです。
観光客用のチャーター舟に乗り,水上から沐浴風景を見るのが常でした。
一人の若者が突然お腹が痛いと言い出し、大きい方の用を足したい旨訴えました。窮余の策で東の岸へと漕ぎ寄せ、
難を逃れたことがあります。無事思いを果たした若者の顔は、沐浴している信者に負けないくらい輝いていました。
今は、この観光舟も廃止になったということを、風の便りに聞きました。


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