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306. 病気こそ旅の思い出
体調が良くないお客様を医者がホテルの部屋に出向いて,診察してくれました。
インドでのことです。診察を終えて一段落した所で、この男性インド人の医者は、通訳をした私に質問しました。何故日
本人は、お腹を太い紐で巻いているのか?それは胃下垂防止のためか?と問います。丁度その頃(1970年代)ウェ ストポーチが流行りだしていました。多くの日本人が着用していたのを不思議に感じ、質問したようです。
確かに目の前で横たわって診察を受けた方も、財布やパスポートの入ったウェストポーチをしたままでした。
エジプトでのことです。
やはりエジプト人医者が、ホテルの部屋へ診察に来てくれました。診察が行われる中、病人のご主人と奥様の会話が
ありました。それを耳にした医者は話の内容を知りたいらしく、通訳してくれといいます。通訳すると、医者の対応がが らりと変わり、真剣そのものになりました。'ここ3日間小水が出ていない'というちょっとした会話だったのですが…。
医者自ら座薬を病人のお尻に入れ、今夜もし大瓶が一杯になるほどの小便が出なければ、入院しなければいけない。
尿毒症を起こすと、命に関わる事にもなるといいます。幸いこの方は、翌朝には小便がたくさん出たので、入院には至 りませんでした。
日常忙しくしている人への医者の注意は、旅行前の3日間は充分に寝ておくようにとのことです。
私はアテネの街中で、10センチほどの段差を踏み外し、右足を捻挫してしまい夜になりくるぶしが腫れてきました。湿
布薬を貼り、包帯をして対応しました。痛みはありました。
ギリシャの次はカイロへと飛び、ギザにあるクフ王のピラミッドの中へと案内しました。
こんな足の状態で、あの狭い通路を這って玄室には行きたくなかったのですが、お客さんの言い分では、不安が一杯
の暗い穴の中へ行くには,まさかの時に備えて、私を人質代わりにしたいから、両肩を支えて入り口まで連れて行くの で、あとは自力でついて来いといわれました。仕方なくその通りにしました。正直大変なことでした。しかし、再び出口へ 出てきたときは,'成せば成る'などと感動した次第です。
チェコのプラハのホテルの風呂場で、転んだ女性がかばい手をした際、手首を捻りました。
御主人は医者のホテルへの往診を希望されましたが、あいにく不都合ということで、真夜中でしたがタクシーで10分の
距離にある、総合病院の救急センターへお連れしました。
パスポートを受付嬢に渡し、コンピューターに入力、手続きが始まります。
夜中の1時過ぎでした。がらーんとした空間に1〜2人の受付嬢そして2人の看護士(男性)とレントゲン技師(女性)に
落ち着きのある美人の女医さんのみでした。他には先客の患者と付き添いの人がいましたが、やがて治療を終え帰っ ていきました。
看護士の1人は40代半ばの耳にイヤリングをつけていて、ひょうきんな人柄でみんなを笑わせていました。イヤリング
を褒めてあげると胸をはだけて、一方の乳首にも同様のリングをつけているのを見せてくれました。片言の日本語も話 します。奥さんの健康な方の手を取ってレントゲン室まで、2度も紳士然としてエスコートしてくれ、大爆笑となりました。 最初のレントゲン撮影で,手首の骨が折れていることを確認し、2度目の撮影はギブスの上から撮り無事本来の姿に戻 ったことを、その都度女医さんは私たちにレントゲンで説明して見せてくれました。
日本では味わえない、リラックスした明るい病院風景でした。
痛み止めの処方箋を書いてもらい。待たせてあったタクシーに乗り、正面玄関横の薬局へ行きました。入り口の電灯
は燈っていて、ヘビ印(薬局のマーク)の看板を照らしています。夜中の2時を過ぎていました。ドアを開けてはいると、 シャッターが降りていますが中央に小さな四角い穴が開けてあり,奥には薬剤師がいます。薬代は、日本円にすると二 百円でした。こんなスタイルの薬局はオーストリアのウィーン市内でも体験したことがあります。夜中の営業での、危 険、盗難防止策なのでしょう。
ツアーの予定にない状況になった時こそ、本当の旅に出会えると言った旅の達人がいました。
307. EUの誕生にはシャルルマーニュ大帝の影がちらつく
EU(ヨーロッパ連合)は、現在(2004年)25の国が参加しています。
その生い立ちは1960年ローマにおいて、フランス、ドイツ、イタリアとベネルックス3国(ベルギー、オランダ、ルクセン
ブルグ)が、普仏戦争(1870〜1871)以来世界第一次(1914〜1918)世界第二次(1939〜1945)戦争の火種 が、ライン河の傍にある鉄鉱石と石炭をめぐる争いであったことを、深く反省した所から出発しました。
紀元後8世紀後半、アーヘン(フランス語ではエクス・アン・シャペルという)の地に都を構え、フランク族の王として、敬
虔なキリスト教徒として君臨したのが、シャルルマーニュ大帝(ドイツ語ではカール大帝)です。
彼の支配地域は、現在のフランス、ドイツ、イタリア北部、そしてベナルックス3国に及んでいました。ラテン人の築いた
古代ローマ帝国とキリスト教(いづれも地中海先進文明)を吸収し、アルプスの北のゲルマン民族のリズムを融合する ことで、新しいヨーロッパの誕生に貢献しました。そして生まれたのが神聖ローマ帝国です。
象徴的な事件が紀元後800年丁度、シャルルマーニュ王がローマにやってきた際に起こりました。祈りを捧げていたフ
ランクの王の頭に王冠を、ローマ法王は載せたのです。後に中世時代以降、神聖ローマ帝国と呼ばれる広大な地域の 成立に精神的な後押しをすることになり、逆にローマ法王庁と神聖ローマ帝国皇帝との間の確執を生むことにもなりま した。
アーヘンの町はドイツに位置していますが、ベルギーやフランスとの国境に近くシャルルマニュ大帝の時代は良く収まり
ましたが,やがていさかいが生じ分裂しました。
ナポレオンもヒトラーもきっと古代ローマ帝国やシャルルマニュ大帝のよく収まった御世をもう一度と夢見たことでしょ
う。
そして今、ベルギーのブラッセルに行政、フランスのストラスブールに立法、オランダのハーグに司法の中心を置く三脚
の上に乗ったEUがあります。
308. ホテルで部屋への廊下の灯りが消えたとき
エレベーターに乗ると、'閉じる'ボタンがないものによく出会います。
ただじーと待つ以外にありません。そんな時、偶然乗り合わせた人たちの目線が会うと,にっこり笑顔を互いにつくる風
景をヨーロッパなどでは見ます。
アメリカや日本、アジアでは、'閉じる'ボタンが必ずといっていいほどついていますので、ついせっかちになって、それを
探しがちです。あるいは、仲間同士で僅かな時間も離れるのが嫌なのか、限られたスペースのエレベーターに無理して 全員入ろうとします。すると、
ブザーが鳴るなり、運良く扉が閉まっても作動しなくなり、時にはエレベーター内の電気が消えてしまい暗い中、不安を
募らせることになります。
多くは扉の傍についているセンサーが異常を察知して,機能を停止するせいであり、落ち着いて扉の傍から離れて奥
の方へ少し移動すると動くことがあります。
やっとの思いで部屋へと通じる階にエレベーターで着くと、廊下が暗く、ドアの鍵穴に鍵を差し込もうとしても穴がどこに
あるのかよく見えず、苦労することになります。
ドイツ語圏では、廊下の所々にスイッチがあり、そのスイッチボタンを押すと、1〜2分廊下に灯りがつくといった仕掛け
になっているホテルやアパートが、結構あります。
節電しようとする合理主義の表れだと思います。やっとの思いで、鍵穴に鍵を差し入れて左右にねじるのですが、ドア
ーが開かない場合がしばしば起こります。プラスチックで出来たカードキーでない、伝統的な重い鍵で鍵穴に向かって 外側へと鍵をねじり、回るだけ回し動かなくなったら、さらに親指に力を込めてぎゅっとねじると、やっと念願の扉が開く といった具合です。
大陸に住む鍵文化圏の人は常時セコム(安全確保)して生きてきたせいでしょうか?
私はそんな時、よく日本の映画やテレビの時代劇などで商人の蔵の開閉に重たい鍵を使って開けているのを思い起こ
しています。
人にものを頼むときには、頼む人の眼を見て笑顔でゆっくりと言葉を言い、そのあとプリーズと言うことにしています。そ
して、頼んだ物がくればサンキュウと笑顔で相手の眼を見ながら言います。どこに行っても通じる最低のマナー、エチケ ットだと思います。
新しい出会い、体験は、失敗も時にはありますが、これほど楽しいことはありません。
309. プラハの春からベルリンの秋まで
1968年(プラハの春)から1989年(ベルリンの秋)にかけて、社会体制の中で生きた人たちを取り扱った本の題名だ
そうです。うまいタイトルを考えたと思います。
今は亡き随筆家、山本夏彦さんが新聞や雑誌、広告などの見出しを読むのが大好きだと本の中で述べて述べておら
れますが、さしあたり"プラハの春からベルリンの秋まで"などは,膝を打って喜ばれたことでしょう。
さて、日本では時の権威者に対して反対して抗議デモを行った歴史はあまりありませんが、大陸ではそういった際、市
民に大いに使われる広場があるようです。勿論、平時から広場は市民の憩いの場として使われているのですが…。
有名なプラハのバーツラフ広場は長さが700米もある広大な広場です。
プラハの春事件では、ここが抗議の中心となりました。鎮圧のために東欧軍の戦車部隊がこの広場に入りました。この
広場はかって、牛の売買をした所だそうで、ヨーロッパ中で2番目に大きな市民広場だといいます。一番大きな広場も プラハにあり、名前をカレル広場といい馬市が立ったそうです。
ハンガリー動乱(1956)では、ブダペスト市民は英雄広場へと集結しました。長くこの広場には、その際鎮圧に使われ
た戦車が置かれていました。
ベルリンの壁打ちこわし(1989)では、リアルタイムでテレビが放映しました。
今、ベルリンを訪れると壁はほとんどなく、わずかに残されている壁にはブレジネフ首相(ソ連)とホネッカー首相(東ド
イツ)が熱い抱擁している落書きが描かれていました。
東西ドイツ統一後,誰かがからかって描いたものでしょう。
310. 超スピードで造ったブールジュの大聖堂
フランスの中部の歴史ある町、リヨンからロワール河へと向かう途中にブールジュの静かなたたずまいの町がありま
す。
ブールジュの大聖堂は、1195年から1235年までという、たった40年で造られました。そのころは、フランス王家(カ
ペー王朝)よりも臣下であるアンジュー家の方が,フランス国土に占める領土も広く、なおかつアンジュー家出身のプラ ンタジュネット家の人たちが、英国国王になっていました。
そこで、アンジュー家の東の境界に近い、ブールジュの地に新様式で壮大な大聖堂を造ることにより、王家の権威を示
すとともに神のご加護を願ったと思われます。
町は豊かに潤っていて、商人や職人など市民の協力を得て、長方形のゴチック様式でカテドラルを建てました。正面は
入り口が五つあり、中に入ると天井は高く、屋根の重みを支える柱はどっしりとしていて、安定感を与えます。何よりも 空間が広く、明るい印象を与えますし、後じんのステンドグラスの見事さは眼を見張るものです。
碩学、木村正三郎さんがゴチックの教会は、深い森の中で木々のこずえを通して差し込んでくる日の光をイメージして
できたと述べています。教会の中の柱は、森の大きな木を表し,暗い堂内は森をイメージさせ、そこにステンドグラスを 通して神の恩寵が日の光となり差し込み、暗い世界を照らす効果があったと考えています。
約千年前から、ヨーロッパ人は深い森に覆われていた大地に敢然と挑戦し、森を畑へと変えていきました。この行為こ
そカルチャーだったようです。背景には、西ローマ帝国崩壊後の虚無感をようやく乗り越え、再び生きようと意欲する 人々が、天候の温暖化や鉄の農機具への普及、三ぽ式農業を始めました。そして、精神のより所として神の地上での 家(教会)をつくることで、どんなにか充足感をもったことでしょう。これは、町においても同じといえましょう
ブールジュのカテドラルは、ユニークな建築プランで造られたゴチック式教会として、ユネスコの世界遺産になっていま
す。
311. ムーシャのカレンダーに惹かれる
チェコのブルダヴァ河の上流にある町、チェスククロムロフの市庁舎前広場で、昼食前の30分自由散策となりました。
広場の真ん中には、ペスト記念塔が立っています。この病気のすざましさを今に伝える、大切な石の彫刻です。広場の
一角には観光案内所があり、奥まで行くと、そこは売店になっています。残った小銭を使う手立てを探していました。眼 に飛び込んできたのは、ムーシャの描いた絵が毎月載っているカレンダーです。
淡い暖色系の色使いで、風景やあるいは室内に憩う優しく物静かで、落ち着いた女性が主に描かれています。
同時代(19世紀末〜20世紀始め)に生きたクリムトの神秘的な荘厳な、金や原色を配した絵とは違う、雰囲気を持ち
庶民、中産階級の大地に生きる知性を漂わせています。
プラハの町では、ブルダヴァ河に面して、20世紀の始めにつくられたドーム型(ガラスと鉄で出来ている)の建物があり
ます。この建物の設計者は、広島の原爆ドーム(商工会議所であった)も設計しました。
勝手な想像ですが、大正時代(1912〜1926)のイメージポスターの多くはムーシャの絵にぴったり重なるように思い
ます。
312. 教会と病院はセット
中世の時代ヨーロッパでは,巡礼が盛んでした。
神の救いを信じ、奇跡を信じ、人々は生きていました。しかし、世情は決して安心、安住していた訳ではありません。戦
争や病気,飢饉や洪水が頻繁に起こりました。
そんな中、三大巡礼の聖地が、人々の関心を惹きつけるようになります。
まずはイエス・キリストの殉教したエルサレムです。この地へ行くためには、船に乗って地中海を航海しなければなりま
せん。アドリア海の女王と謳われたヴェネチアの町は巡礼者で沸き立ったことでしょう。
次は、ローマン・カトリック教の総本山であるローマです。サン・ピエトロ(初代ローマ法王)は、神の代理人として、やが
てやってくる'最後の審判'の日までは、この世の支配者にイエスキリストにより任じられました。バチカンの丘で逆さ十字 の刑で殉教した場所に、教会が立てられました。その他、ローマには、三つのバシリカ教会があります。
サン・ジョバンニ・ラテラーノ教会、サン・パオロ教会、サンタ・マリア・マジョーレ教会です。
これら四つの教会には聖なる扉があり、扉の下を通ると罪が清められるといわれています。
最後に北スペインのサンチャゴ・コン・ポステーラです。サンチャゴとは12使徒の一人,大ヤコブのことで、彼の骨がこの
地で見つかったことで巡礼が盛んになりました。
スペインは、711年以降イスラム教を奉じる北アフリカやアラブの人たちの支配下にありましたから、特に大ヤコブ聖
人の力を借りて失った土地を、取り戻そうという軍事活動(レコンキスタ)の精神的支えとしても重要でした。
こうして大勢の人々が巡礼の旅へと駆り立てられました。しかし、旅は順風満帆、何事もなく行くといったものではありま
せんでした。危険(山賊や追いはぎ、海賊や戦争)や病気が常に伴っていました。
危険な目にあった人や病人のために、手厚く看護し勇気づける施設や病院が巡礼の道に沿って、ありました。
中部イタリアのシエナの大聖堂の傍には,立派な病院,宿泊施設が残っていますし、パリのノートルダム大聖堂の傍に
も、神の家と呼ばれる施設は今も病院として機能しています。
バスで高速道路や道を走っていますと、広告宣伝の看板はほとんどありませんが、その代わりに教会や病院の看板が
目に入ります。教会はミサの時間まで書いてあって、現在でも神を中心にして生きた中世の匂いを感じるほどです。
313. インド亜大陸は宗教の総卸し元
インドには、大きく分けて八つの宗教が現存しており、その半分はこのインドの大地で生まれたと言います。
ブラフマ(創造神)、ビシュニュー(維持、成長神)、そしてシバ(破壊神)に代表される八百万の神々を信仰するヒンズー
教は、地映えの筆頭格でしょう。さらにブッダの教えを発展させた仏教。ブッダと同時代に生きたマハビーラ(勝利者と いう意味)の説いたジャイナ教。さらに西北インドのパンジャブ(5つの河という意味)に数百年前に生まれたシーク教が あります。
シーク教の男性は、見た目に分かる5つの特徴があります。
髪の毛を切らない。顔の髭を剃らない。短刀を腰に差す。頭に櫛をさす。ショートパンツをはくなどです。イスラム教徒と
の土地をめぐる確執の中で、シーク教の戦士たちはストイックな生活を送るうち、郷土愛や団結心が生まれ、これが宗 教にまで高まり独特の風貌をしたシーク教徒が生まれたと言います。
そのほかには、ユダヤ教、ゾロアスター教、キリスト教、イスラム教など他の土地で生まれたものがインドの地で信仰さ
れています。
インドは大陸ほどの大きさはない(日本の9倍)にしても、亜大陸(サブコンティネント)と呼ばれ、こよなく大陸に近い敬
称を与えられています。人種、言葉、文化、風俗習慣は多岐に分かれていますが、宗教などはその極めといえましょ う。
インドは訪ねてみる価値があるかと問われれば、駄じゃれに聞こえるかもしれませんが、インドはいいーんどーと答えま
す。
314. 同じ道を2度歩かないと決めた男
大旅行家イブン・バトゥータ(1304〜1368)は、21歳の時メッカに向けて初めて旅をしました。
裁判官になる為でした。どうやらその時、同じ道を2度歩かない決心をしたようです。生涯の中で44ヶ国を訪れ,11万キ
ロに及ぶ旅となりました。30年の長きに及んでいます。イスラム教の教えが広まっている地域を旅したのですが、アフリ カ、中近東、ヨーロッパ,中央アジア、インドそして中国に亘っています。
そして今は、大西洋と地中海の接点にあたるモロッコの港町タンジェ(タンジール)の丘の上の墓地に眠っています。
モーツアルト,長島茂雄と並んで私の3人の旅の神様の1人です。
モーツアルトは、いい創作をする人は人生の1/3を旅に過ごすべきと言った人で、実際に彼の人生の1/3は旅の中に
ありました。長島さんは、予測できぬピッチャー投げるピンボールまがいの球にも対応し、ともかくバットの芯に当てるこ とが出来た稀有なバッターでした。まさに旅では、このような動物的感が大切な要素だと思っています。
旅は、自分を謙虚にし、深く自分を見つめる機会を与えてくれます。
そして、自分以外の人や万物に真に出会えるまたとないチャンスになります。
315. バランガ村でバザールを催した思い出
コレヒドール要塞島など浮かぶマニラ湾に面して、バタン半島が伸びています。
第二次大戦の最中、アメリカ人捕虜やフィリピン人を炎天下歩かせて、デスマーチ(死の行進)として後日有名になった
所です。
ある宗教法人がこのバターン半島の人たちと友好親善を取り結ぼうと青年の船を計画し、船には日本中の信者が寄
付した品々をチャーター船に載せ、マニラに行きました。
無事通関後、トラックでバタン半島の中心バランガ村の広場に面した建物に運び、並べて数日間バザールをして、安く
村の人に買ってもらい、収益金はバランガ村に寄付して有効に使ってもらおうという主旨でした。本当はタダで配っても 良かったのですが、それでは失礼であろうということでした。
ところが、バザール初日の朝になると広場は大勢の人で溢れています。建物の入り口付近は押すな押すなの混沌とし
た有様となってしまい,さらに悪いことには一番値の張るものはタダで裏から村の実力者に渡っているなどと言う風評が 飛び交っています。
このままほっておいては大変なことになると思ったので、私はメガホンを手に取り、踏み台の上に乗り、集まった人達に
静かに語りかけました。
決して値の張るものを内緒で有力者に渡していないことや、バザールの主旨は日本の友人が過去に迷惑をかけたバ
ランガの人たちと再び、仲良くなりたいという思いで寄付した品々であって、本当はタダで差し上げたいと思ったが失礼 になると思い、安い値で買ってもらうことにした。収益金は全て村に寄付して有効に使ってもらう。皆さん全員に買って いただけるほど充分品数は用意してある。暴動化してけが人が出るのを心配している。静かに入り口の前に並んで欲 しいと。
すると何人かの人から声があり、そういうことならば静かに並んで買うと言ってくれました。実際その通りにしてくれ、無
事バザールは終わりました。
話せば分かるとはいいますが、その経験を日本ではないフィリピンの地で、しかも英語で、繰り返すのでなく一回だけお
願いしたのですが、分かってもらえたのは30歳を少し出た旅行会社の添乗員である新米の私には、震えるような感動 でした。
それ以上にこの村の人たちの純な心に拍手を送ります。
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