希望

276. 順応性が高い人たちが住む国日本


紀元後6世紀、中国から入ってきた漢字をまもなくカタカナや平かなにくずし、話し言葉として
元々使っていた大和言葉を書き言葉としても使えるようにしたのは,すばらしい変革であったと思います。

同じようにインドで生まれた仏教や中国で始まった儒教、欧米から入ったキリスト教、そして明治以降積極的に取り入
れた欧米の先進技術(電気、鉄道、郵便、大学だど)も日本サイズに変えて導入しました。
あるいは、世界各国の料理にも興味を示し、しょうゆ味化されたラーメンやカレーライスを筆頭に数々の世界料理がい
ただける珍しい国でもあります。
 
強烈な個性を持ったリーダーを必要としなかった面も,次のようなエピソードから推し測れます。7世紀に一時的に国産
の貨幣(和銅通宝)をつくりましたが、16世紀の末に秀吉が通貨を作るまでの長い間、国産の通貨を持たず主に中国
の通貨で間に合わせました。
少々の国であればいち早くコインを発行するのが常識です。律令制度は取り入れましたが、科挙登用試験はなく、官僚
には宦官はいませんでした。牡馬は去勢しないで乗りました。
定期的にやってくる台風や地震の方がより強い関心事で、この国独特の風土が虚無感に似た思想を育てたようにも思
います。
一種の平等思想が早くから生まれ,万葉集などは乞食から天皇までの歌が一緒に収まっています。
孫文が晩年、神戸の女子高等学校で行った講演の中で,1858年に外国との間に不平等通商条約を結んで以降、日
清戦争(1894)前までは日本は先進諸国の植民地であったと言っています。当時の日本人は誰もそのようには考えて
いなかったようです。海を挟んで対岸の大陸から客観的に日本を見た孫文の話に重みを感じます。
ともすれば大局観や客観性に欠ける傾向があるのかも知れません。


 277. 巨石遺跡は何を語るか?


世界には不思議な巨石遺跡がたくさんあります。

エジプトのピラミッドもそのひとつと考えられます。地中海世界の小さな独立国家マルタ島にも、フランスのブルターニュ
半島にあるカルナックやイギリスのストーンヘンジ、アイルランドやスコットランドにも多く見つかっています。
中南米のピラミッドやイースター島の巨人像も不思議です。

大きな石には不変、永遠、不動、不死などの願いが込められているのでしょうか?
そして、巨石遺跡の多くが丘の上にあり、見晴らしが利き、誰もが目にできる場所に作られていて、季節の節目(夏至、
当時、春分、秋分)に太陽の光線が一点に集中するつくりになっているのも不思議なことです。
文字を持たない人たち(先史人)が残したメッセージは一体なんだったんでしょうか?


 278. 静かなたたずまいの港町オンフルールは荒々しい大航海時代の主要港
だった


旧ドック港周辺は、絵になるほど美しく落ち着いた風景で、晴れた日など画家たちがキャンバスを立て、港に係留され
たヨットやボートを入れた周りの中世の建物を描いています。
シードル(リンゴ酒)を売る店や画廊がたくさん並んでいて,石畳の歩道に設けられたレストランの店先に腰を下ろし、カ
フェなどをゆっくり飲むのはいいものです。

しかしこの町は、16世紀から17,18世紀にかけては、ノルマンディ地方を代表する新大陸へ向けての冒険,移民の出
発港でした。ジャック・カルチエがフランソワ1世(16世紀前半のフランス王)にカナダ(ヒューロン語で人々という意味)
発見の報告をします。スパイスや金や銀の土産を期待していた王は、カナダへの関心を示しませんでした。
17世紀に入り、シャンプランが、ケベックへと行き、後にルイ14世王(17世紀後半)の後押しもあり、本格的にカナダ
開発が行われ、移民が送り込まれました。
この時代の船大工が作った木造の教会が、港近くに立っています。天井は船底を思わせるつくりになっています。

19世紀に入ると、ナポレオン皇帝はヨーロッパ戦線での軍事費調達のために、当時フランス領だった,現在のアメリカ
中西部をアメリカに安く売りました。歴史では、、ルイジアナ・パーチャスといい、これほどの取引は、例がありません。
その結果、アメリカは一夜にして領土が倍になったほどです。

アメリカとフランスは18,19世紀は、大変に仲もよく、その証拠にニューヨーク港やパリのセーヌ川に自由の女神像を
互いにプレゼントし合ったほどです。
"敵の敵はお友達"の言葉通り,英国とフランスは積年のライバルであり、英国から独立を勝ち得ようとしたアメリカは、
フランスにとり友達と言うことで、物心両面にわたり援助したようです。



279  自冶精神あってこその"都会の空気は人を自由にする"の格言


東方スイスのローヌ氷河、ローヌ渓谷から流れ出し,一旦レマン湖に入り,湖の西の端に開けたジュネーブの町から流れ
出し西へと旅をし、フランス中西部の山岳地帯から流れ下るソーヌ河とリヨンの町で合流して、南へと方角を変え、地中
海に注ぐのがフランス四大大河のひとつローヌです。

古代ローマ人は、ガリア(北フランス地方)支配の拠点として、このローヌとソーヌの二つの河が交わる所リヨンに町づく
りを行いました。今でもフルビエールの丘の斜面には、ローマ人が残した遺跡が見られます。
フルビエールの丘のふもとの河沿いには中世の時代(14〜15世紀)の建物が、数多く残っていて現在も旧市街を形
成していて、背丈のそろった石造りの重厚な個性を殺した景観をつくっています。そして、中心には、歴史あるサン・ジ
ャン教会が司教の座所として立っています。
第二のイエスと称えられた中部イタリアのアッシシの聖人フランチェスコの母親は、リヨンの商家の出でした。絹織物を
主にした商取引を行う商人ギルドや各種職人ギルドなどブルジョアジー階級が生まれました。
さらにこの人たちの間から、真摯にキリスト教を追い求める聖書を典とした生活を実行する人たちが多く排出しました。
しかし、在家出身の道を求める集団の多くは、ローマ法王庁から排斥されました。
サンジャン通りの両側には,当時の市民の生活空間が広がっています。
重厚な扉を押して中に入ると、通路に沿って3〜4つの建物がくっつきあっていて、独特の雰囲気になっています。所々
に明り取りを兼ねた小空間があり、井戸や階段があります。
市民の自治の象徴でもある市庁舎へ、建物の持ち主が集団で願い出て、通路を清潔にして管理し使うことを条件に、
このような空間がつくられました。

予期しない出来事、戦争や水害,火事やペスト病などの対応に、市民の自冶の意識をここを歩くと感じます。
狐狸庵先生こと遠藤周作さんも第二次大戦後、船に乗り40日かかってマルセイユ港へ到着、内陸の町リヨンへと旅を
続けリヨンの大学へ勉強にこられました。



 280. モン・サンミシェル近くのレストランでの昼食風景


9月に入ったばかりのころ、フランス人の平均年齢65〜70歳ぐらいと思われる35名前後の一団と、レストランで隣同
士で食事をすることになりました。

彼らの6卓のテーブルには、あらかじめ白ワインのボトルが置かれてあり、前菜、メイン料理ともに魚でした。食前酒の
カルバドス(リンゴでつくる,この地方の蒸留酒)が配られると、一人の老女が立ち上がり、各テーブルの私語を止めさ
せた後、歌を歌いそれが終わると、一人の男性を名指しして立たせ、蒸留酒の入った小グラスを干させました。一同盛
んに囃し立てていました。水道水の入ったピッチャーがテーブルには置かれていましたし、個人的に赤ワインのボトル
を注文する人もいます。しかし、ビールを頼む人はだれもいません。各テーブルでは話が弾んでいます。ほぼ男女同数
の構成ですが、必ずしも夫婦で参加しているわけではないようです。同じ村の老人会か同じ趣味のサークルの,日帰り
ツアーといった風に見えます。
メインコースの後は、チーズの皿が出ました。チーズを切ってゆっくりとパンにのせ、口に運んでいきます。その後は、
大きなグラスにたっぷりと入ったアイスクリームが出されました。ほとんどの人が、仕上げにカフェ(デミカップ)を飲んで
いました。
別のテーブルで運転手と食事をしていた元美人の50歳前後のエスコートが、食事の間に各テーブルを回って、物静か
な人への気配りを見せていました。カルバドス酒の乾杯の音頭をとった、背の小さい痩せた老女は布のテーブルナプ
キンを使って,何かを折り始め、他のテーブルの男性に指導したりしていましたが、やがて美人エスコートの所へやって
きて同様のことを教えていました。
私の目には、パンツかおしめを折ったように見えました。

別個に頼んだ赤ワインの支払いをめぐって,男性の間では、ギャルソン(給仕人)に自分の金を取れと日本風のやり取
りをしている人もありました。先輩か何かに当たる人への気配りでもあるように見えました。

訪れた国の人たちの食事風景を眺めてみるのも、また楽しいものです。


281. ポルトガルと英国は600年来の友人


英国の宰相チャーチルは、14世紀末の対スペイン軍との存亡をかけての戦い(アルジュバロッタの戦い)に英国軍が
ポルトガルに味方して以来の、両国の友好関係を称えました。

ポルトガルは、イベリア半島の大半を領有するスペインを背に負いながら、生きてきた運命にあります。海を隔てた少し
離れた所ですが、英国という理解者がいたということは、ポルトガルにとり、さぞ力強い支えになったことでしょう。
勿論、子供同士の仲良しというわけにはいきませんので、英国にとり利するところがあったのでしょう。

朝鮮の歴史を見ると、背後に巨大な中国が地続きであるのですから、この脅威にいかに処するかに尽きたようです。
海を隔てた所には日本がありますが、この日本はいたって鈍感で朝鮮への同情や協力はなかったようです。もっとも中
国の力と日本のそれとでは、スペインんと英国の関係に比べるわけにはいきません。

当の中国人は、歴史の中で国家を信頼して生きることをせず、一族一党を頼りに望みをつないだのに比べ、逆に明治
以来日本人は国を信じ、各自が日の丸を背負った感じで歩んできた歴史の中で、現代アメリカ青年が中国人は一人一
人がリラックスしているが、日本人は緊張していて、その中間にあるのが韓国人のように見えると語りました。
そして、青年としては、中国人と接している時が楽しいと、緑さん(司馬遼太郎氏の妻)に話しているのをそばで聞いた
司馬さんは、つい笑ってしまったと述べています。



 282. 個の成立の背景


個が確立する為には、自分の意見を持ち他を尊重する姿勢が育っていて、行動力を持している必要があります。

西ヨーロッパ社会では、千年ぐらい前から都市市民にその芽生えが見られます。
都市は、村と村をつなぐ街道(中には古代ローマ人がつくった軍用道路であるローマン街道をそのまま使ったものもあ
る)沿いに村から引っ越してきた商人や職人を中心にして、つくられました。そして、都市の周りは、壁で囲み外部とは
一線をがしました。

壁の中での生活は、限られた土地空間の有効利用から、複数階の建物(アパート)に部屋を得るという暮らしであり、
町の規則に従って諄々と生きていきます。又、一朝事あった場合は(敵が攻めてきた時など)武器を持って戦う人にな
りました。

今の私たちから見ると随分不自由な生活のように見えるのですが、"都市の空気は人を自由にする"という言葉が残っ
ていますので、それでも村の生活よりは、良かったのでしょう。
英語でシビック、シビルという言葉があります。これらの言葉は、礼儀正しい市民、公民、都市民間人に使われ、宗教
や軍事から独立した意味を含んでいるといいます。
シビック、シビルと同義語にシビリゼーション(文明)やシティズンシップ(市民権)、シビルエンジニアリング(都市土木工
学)があります。
誰もが参加できる普遍性を持ったシステムを中世のヨーロッパ人は、都市につくる夢に挑戦しました。
兵士が着るカーキ色の目立たない服装のように、ヨーロッパの歴史ある町は没個性的で、屋根の色や建物の高さや壁
の色を統一して、外からやってくる人には迷路のような道をつくりました。町それぞれが独特の個性を持って生きてきま
した。
金持ちもそうでない人も、アパート暮らしが基本ですから、広場や緑の公園、水汲み場だどは、しっかり確保されていま
す。

個の我がままを押し殺して、集団の中に生きることで、したたかに行動力を持った個人、個性が育ちました。
都市の顔としての心のより所としてのカテドラル、そして市民の自冶権の象徴としての市庁舎に行くと、個の成立は集
団(都市市民の一員)なくしては、考えられないものであり、厳しい生活環境に耐えて、初めて生まれ得たのだと知らさ
れます。



 283. 4千年前のレンガが線路の底びき砂利替りに使われた


パキスタンのラホールの町から丸一日かけて、ハラッパ遺跡までバスで往復したことがあります。

着くと、小さな博物館があり、小さな土偶や文字の刻まれた印などがありました。遺跡は、焼きレンガでつくった建物跡
や下水道跡が、丘の上や下に発掘されていて見えました。
インダス河流域に栄えた都市国家文明のひとつであり、遠く、メソポタミアの人たちとも交易をしていました。

インド亜大陸が英国統治下(1757〜1948)に入っていた頃、英国では綿を原料に繊維機械を使って、工場で大量に
木綿布を生産する産業革命の時代になりました。
19世紀半ばまでは、アメリカ南部で取れる綿が主要な供給地でしたが、1846年の不作、そして南北戦争(1861〜1
865)の結果、インド綿がランカシャー一帯の綿産業を支える所となりました。ムンバイ(ボンベイ)の港へ農地から収
穫された綿を迅速に運ぶために、鉄道が1853年に敷かれました。インドでの鉄道敷設の始まりでした。
その後、鉄道はどんどん拡張され、兵隊を輸送する手段としても重要さを増しました。

そして、カラチ(アラビア海に面した港町)とラホール(内陸の重要な物産の集散地及びムガール王朝の都のひとつ)を
結ぶ鉄道が、英国人技師により敷かれた折、線路を安定させるための石替わりに、知らずにハラッパ遺跡のレンガ
(竈で焼かれた強度のもの)を160キロに渡って使いました。20世紀に入り、ハラッパの遺跡調査が行われ、古代都
市国家の存在が分かったのですが、カラチ/ラホール間の鉄道の敷設から60年も経っていました。

今から30年近く前にハラッパ遺跡に行った時には、その価値も良く理解していず、冗談とも駄じゃれともとられかねな
い、ハラッパ遺跡は原っぱだったと友人に言ったのを思い出します。


284. アマゾン河の中州で空き缶を標的にピストルを撃った


1990年代の初め、30時間(東京/ロスアンゼルス/サンパウロ/ブラジリア/マナウス)かけて,アマゾン河の中流
にあるマナウスの町に行ったことがあります。

やっとの思いでホテルに入り、"さあ、少し町にでも出てみましょうか"と声を出したところ、ガイド氏(日系ブラジル人2
世)が"1万円も出せば、殺人を請け負う人がいくらでもいるから、止めなさい"と言います。確かにホテルの周りは,高い
塀で囲われていて,外からは見えないようにつくられています。ただし、ホテルの内部は流れ落ちる滝もあり、大きなプー
ルを備えた申し分のないものでした。
マナウス市内見学では、かって生ゴム生産で世界一を誇った時代に、わざわざイタリアの大理石を始めとするヨーロッ
パ各地の贅の限りを尽くして造った、オペラハウスを見ました。また動物園の檻の中には、猫科の動物が多く入ってい
る理由の背景には、ペルーやコロンビア、ベネゼイラなどと国境を接していて、常にジャングルをパトロールしていま
す。兵隊たちは,食料源にジャングルで遭遇する動物を捕らえて、食べることもしばしばあります。しかし、猫科の動物だ
けは味が不味いので、仕方なく動物園へと送られてくるといいます。
丸一日、2階建ての木造船をチャーターして、アマゾン河クルーズに出かけました。異なる水源から流れ出る河が合流
する地点辺りに行くと、水の色が明らかに違い、スケールの大きさを感じさせてくれました。
生ゴム園を見学しましたが、すでに幹に切り傷が無数に刻まれていて,樹液の一滴すら出てきにくいほどでした。男性
ばかりの客は、退屈し始めました。そこで、ガイドの日系人2世の男性は、"ピラニアを釣りましょう"と提案しました。竿
の先の糸に肉の小片をつけて、水の中に入れ30分も食いつきを待ったのですが、全く反応はありません。もっとも傍
で子供たちが、泳いでいるほどですから,おかしいとは思ったのですが…。

昼食には、早朝船長が釣ったピラニアのフライを船上で供するので、楽しみにしてほしいと言われました。姿見で出て
きたピラニアの味は,いまいちだったと思います。骨が太く,身はあまりなかったように思います。
日系人の経営される水族館にも行きました。大きな水槽の中に一匹異常に大きな異形の魚が,泳いでいました。この
魚のウロコを使い、爪切りならぬ爪を削って揃えるのだそうです。確かに硬いもので、白い色をしていて、民芸品の飾り
の一部につかわれていて、アクセントになっていました。
昼食を終えると、いよいよ皆さん退屈され始めました。
ここで、ガイド氏が発した提案は、"ピストルで撃ちましょう"でした。
10名の私たちを守るために今日は、ピストルを家から持参しているので、中洲に船を乗り上げて、空き缶を標的に撃
ちましょう。と言います。
5米もはなれていたでしょうか?一回づつ打ってみましたが、空き缶が音を出すことは、ありませんでした。
ようやく陽が西へ沈む頃、マナウス港へかえりました。


285. 木の実の収穫風景


米国では、広い地面にビニールを敷いた後,大型機械(シェイカー)を使って太いクルミの幹を揺すり、実を地面に落とし
ていました。

ヨーロッツパでは、古代ギリシャ以来、オリーブの実は竿で枝を叩いて地面に落として集めます。木と木の間にネットを
張って、途中で受けたりしている工夫もみられます。
そして日本では、果物の木の実にいちいち覆いを被せ、念入りに育てた上で、ひとつひとつ手作業でハサミや手でもい
で収穫します。形の悪いもの、サイズの合わないものは,落ちこぼれとなり消費者の口には入りません。
台風など予期しない災難の為、青森県あたりのリンゴが大量に地面に落ち,傷ものになったとかで、スーパーでそれで
も一個が50円で売られるのがニュースになる国です。

イギリスのウェジウッド社の工場(ストーク・オン・トレントの町にある)見学に行くと、見学コースを一回りすると、立派な
販売コーナーがあり、客一人に店員一人が対応して免税の手続き書類までつくってくれます。面白いのは、このコーナ
ーを出ると広場をはさんで、すぐ近くにファクトリーショップがあり、工場でつくられた多少の欠陥商品(見た目にはわか
らないほどのキズなど)を安く販売していることです。


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