希望


266. 内助の功は大切


スペイン王位継承戦争(1688〜1704)は、ルイ14世(太陽王と呼ばれた)の
介入でヨーロッパ中を巻き込んだ戦となりました。

軍人として出世階段を駆け上がった人がジョン・チャーチルで、マールボーロ公爵初代となります。彼は、1704年にド
イツのブレナムの地でフランス軍を破る勲功を立てました。その功績をたたえて、時の英国女王アンはオックスフォード
の町近くに広大な土地を与え、宮殿の建設までしてあげました。それがブレナム宮殿であり、建物のつくりはバロック様
式、宮殿の周りは遠くは英国式風景庭園がそして近くはフランス式あるいはイタリア式庭園が配してあります。

ジョン・チャーチルの妻はサラといい、アン女王に長く仕え、女王の無二の親友でもありました。アン女王はメアリー2世
女王の妹に当たります。メアリー2世は、オランダのウィリアム3世と結婚していてオランダにいましたが、英国政治の
ひょんなことから英国国王の座を主人と共同で分かち合いました。生憎と二人には子供ができず、妹のアンが次の女
王になりました。おそらくアン女王自身先の見えない政治の渦中にあって身近に頼りになるサラを持ったことは、心強
かったことでしょう。初代マールボーロ公爵の栄達は妻サラの内助の功が大いにあったことでしょう。

この宮殿で生まれた人に第2次世界大戦中の宰相ウィンストン・チャーチルがいます。
彼はこの広大な庭園の一角につくられた教会の中で眠っています。あるいはダイアナ姫も名門スペンサー家の人であ
り、チャーチル家にゆかりも人となります。
宮殿内を見学しますと、驚くことがいくつかあります。
正面玄関の扉の鍵は、大きくて大変に立派なものです。鍵文化とよく言われますが,なるほど安全確保の象徴としてもこ
れほど立派な鍵を持つ必要があったのでしょう。ルイ14世の肖像画がかかっていたり、9代目さんの生まれて半年目
のあどけない裸のハイハイしているブロンズ像、そして初代マールボロ公爵のブレナム戦勝の報告を走り書きした妻に
送った手紙もあります。手紙の左半分は、食料購入詳細が細かに書き記されたものです。余程うれしかったのか、急
いでポケットにでも入っていた紙切れに勝利を書いて知らせたものでしょう。
そして、この宮殿をプレゼントしてくれたアン女王の巨大な大理石像が、大広間(ギャラリー)に置かれています。
今は11代目家族が、宮殿の半分に生活していて、残りが一般公開されています。案内人は品があり、マナーが良く正
しい英語で親しみを込めて温かく迎えてくれます。
良き家は良き務め人によって支えられていることがわかりますし、良き主人を得て始めてそうなるのだろうなとも感じま
す。



 267. 駆け込み乗車は怪我の元


ヨーロッパでは町の中で、走っている人を見るのはまれです。

確かに夕暮れ時、地下鉄や郊外電車の出る駅の構内の風景は、あわただしく活気に満ちています。総じて、乗り物は
あわただしく入ってきて、あたふたと出て行く様子は、ありません。ベルなどの出発を知らせる合図もありません。弱者
(女性、赤ちゃんを連れた母親、老人など)を優先させるやさしい気配りが、まだ生きているように思います。

しかし、TGVなどの列車を含む乗り物の出入り口の扉は、情け容赦もなくビシャーとしまります。うっかりして、プラットホ
ームで立ち話などしていて、あわてて閉まる扉に体を入れると、大変なことになります。従い、長距離列車に乗るとき
は、出発時間の5分前には乗車して席についておくことや、途中駅でプラットホームに降りて、写真などを撮るなどはも
ってのほかです。
同様に、飛行機も出発時間の20分前には、ゲートに行き、待機している心構えが大切になります。飛行機の場合、駐
機場までバスで移動することもあります。その際には、よくゲートを早めに締め切り,たとえ時間前(10〜15分前)に来
ようとも受け付けてくれず、乗せてくれないこともあります。さらに、登場口の変更もしばしばおこります。
駆け込み乗車をしない分だけ、前もって時間の余裕をとって行動しているのでしょう。あるいは、急いで間違って乗った
場合には、自分に責任があると考え、次の駅に着いてから元へ戻るなり、他の乗り物に乗り換えるなり前向きに対応し
ているようです。

以前、英仏海峡のドーバーから大型フェリーに乗り、フランスのカレーに移動したことがあります。出航した後、、船内
放送がカレー行きであり、何時に到着予定かを告げました。すると、デッキにいたリュクサックを持った若者たちは、い
っせいに驚き歓声を上げました。ベルギーのオステンデへ行くと信じて、乗り込んでいたのです。
しかし、そんな思い違いも高笑いで受け止め、カレーに到着後、別のフェリーに乗り換えて行くから心配ないと言ってい
ました。


 268. 犬が最初に宇宙に行く


1950年代だったと思いますが、ロケットに乗って最初に宇宙に旅をしたのは、犬でした。

さすがに帰還後のインダビューで"私はカモメよ"とか"地球は青かった"とは言わなかったようですが??。
犬と人間の関係は古いようです。犬は狼と同系のようですが、犬は早くから人間になつき、共存したようです。
牧畜業では、羊やヤギ、牛、豚などをまとめて監視してくれる良き友として、欠かせぬ存在ですし、子供の遊び相手とし
て、あるいは泥棒よけとしても一般にかわいがられてきました。

今でも、ヨーロッパなどでは、アパート暮らしをしている人までが、多く犬を飼っていて、引き続き変わらぬ友好関係を保
っています。
男と女の溝が深まり、一人暮らしが増える中、裏切ることのない犬は、メンタルな慰めの領域までも担当できる重要な
存在になってきているようです。


269. トナカイが最初の家畜


ヨーロッパの町では、広場や公園、交差点などに馬に乗った国王や将軍の銅像が立っているのを眼にします。あるい
は、博物館、美術館,、王宮、貴族の館などでは、女性が馬に乗っている彫刻や絵まであります。

馬と人との関係は、戦争に限らず、平和な時の農耕の手助けとして,あるいは」物の運搬にそしてただ趣味の乗馬用と
して深くかかわってきました。
次のようなエピソードが伝わっています。
16世紀の始め、コルテスがスペイン軍(300人あまり)を率いて未知の中央アメリカに侵入したとき、アステカの人たち
は馬を見たことがなく、鉄砲も知りませんでした。荷物を運搬するための車輪のついた荷車ももっていませんでした。お
まけに白い肌の白髪の神様(コルテスは実際そういう風体であったと言われています)が、近々やってきてアステカ帝国
の乱れた世を罰すると信じていました。戦で機動性に富み、敵への威嚇にもなり、荷物を運搬するにも手助けになる馬
を見て、先住民族は驚いたと言われます。
しかし、考古学者が調査したところでは、元々馬は、アメリカ大陸に生息していたと考えられています。サイズは小さく、
犬を少し大きくしたぐらいだったと思われます。いつのころか、ベーリング海峡を渡ってアジア大陸へ移動していきまし
た。サイズも段々大きくなっていったようです。

北極圏では、トナカイという動物が群れて集団で移動しながら生活していました。
狼などの動物は、トナカイを襲います。そのトナカイを守ってやり、トナカイの群れの中に入って、人が共存する生活方
法がいつのころか始まりました。トナカイの肉や皮、乳などを必要最小限いただくという交換条件だったと思います。そ
して、今もラップ人はその生活を守っています。
一方、馬の方もトナカイと同様にアジア大陸においては、人との共存生活が成立します。
お手本はトナカイにあったと思われます。
やがて馬に乗ることや、馬の足の裏に蹄鉄をつけることで、農耕や運搬用としてだけでなく、戦闘用の重要な役割がう
まれました。

モンゴル族の快進撃もモンゴル馬を抜きには考えられません。アラブ馬は汗血馬として活躍しました。
20世紀初頭には、日露戦争の際、馬に乗って鉄砲を撃ちながら突進してくるコサック兵
をどのように防ぐかが日本陸軍の重要な課題でした。馬に乗って同様に対抗するのでは、一日の長のある敵にはかな
いませんので,馬を降り塹壕を掘り、機関銃を据えて日本初の騎馬兵部隊(秋山好古率いる)は、戦っています。
長篠の戦い(1572年)で、信長が槍や剣を振りまわしながら突っ込んでくる武田の騎馬軍団を、足軽で構成する鉄砲
隊を三列に並べ順々に弾を込め、発砲した故事に習った戦法といえましょう。
今では、さすがに戦争では、馬は主役の座は下りましたが、競馬や趣味の友として引き続き人との関わりを持っていま
す。


 270. スポーツ器具メーカーのナイキとは勝利


古代ギリシャ時代は、300もの都市国家が乱立する厳しい競争の時代でした。

領土を広げようという意識が強く働いていて、マッチョマン(軍人)の活躍に頼る割合が高かったと思います。勝利の女
神(ニケ)は翼を持った美人像で表され、彼女を祭る神殿や彫刻を多くつくり、勝利の祈願をしたかと思います。

パリのルーブル博物館にある巨大なニケ像は、サモトラケ島(エーゲ海にある)から出土したもので、舟の舳先に舞い
降りた彼女が、前方から吹いてくる風を受けて立っている姿で、湿気を含む風が彼女の身に着けている衣やすそにま
つわりついている様子まで表現した、ヘレニズム期(紀元前4世紀〜1世紀)の最高傑作のひとつになっています。

米国のナイキ社の名前は,勝利の女神(ニケ)の言葉の綾からつけられたようです。太平洋に面したオレゴン州のポー
トランドにあるナイキ社の工場を訪れたことがあります。工場内の一角では、無地のスポーツシャツにナイキ印の見慣
れたマークを器械が、スタンプしていました。この印があるだけでシャツの値段はぐーんとあがることでしょう。


271. 真夜中から夜明けにかけて忙しい


D.H.L.社という運送会社があります。

この会社を興した3人の共同経営者の苗字の頭文字を取って合わせて、会社名にしたそうです。歴史は浅く、創立して
さほど時は経っていません。しかし、彼らの考えた小包を主にした集配方法は、同業者ライバルの度肝を抜くものでし
た。全米中から出された小包は、飛行機を使い一旦シンシナティー(米大陸のほぼ中央に位置している)空港に集め、
真夜中から早朝にかけてベルトコンベアーを使った行き先別の仕分けを行います。そして、待機する飛行機に乗せて
配送先に近い、空港へ送るという壮大なものでした。

ロジスティクス(商品の効率的な流れにより、コストを下げる方法)が盛んに業界を超えて求められたころでしたので、
評判を呼びました。
このロジスティクスという言葉は、もともと戦争の際、軍人と軍需物資の配置、そしてその流れを最も効率的に行うため
に考えたことに端を発しています。
中規模の夜は使っていない飛行場に眼をつけ、安く使用させてもらい運行します。夜間仕分け作業をする人たちのほと
んどは、パートタイマーで昼間は,別の仕事を持っている人たちです。私たちを案内してくれた中年の方も、昼は別の会
社で働く人でした。
今では、D.H.L.と大きく書かれたトラックが日本でも街中を走るのをよく眼にします。

10年も前、このシンシナティーの飛行場を深夜訪れた際、パイロットが大きなコーヒーカップを手にしながら、大きな倉
庫の扉に寄りかかって手持ち無沙汰にしていたのを覚えています。


272. 成金(プチブルジョア)の旅行者は騙され易い


19世紀は、英国は産業革命の最中、早朝から夜遅くまで工場では女性や子供を含む大勢の人たちが、働いていまし
た。実際、強いウィスキーを飲んでは,一時しのぎで疲れを紛らわすといった状態が続いていました。


聖職者だったトーマス・クックは、団体でヨーロッパへ旅行をさせることで、疲れた体や心を癒すことを考えました。歴史
ある憧れのイタリアなどへ旅をした成金たちは、安物のがらくた骨董品を高値で買わされたそうです。

カイバル峠へのオアシス都市、パキスタンのペシャワールは、仏教のシルクロードへの伝播道であった歴史もあり、土
の中からガンダーラ仏が出てくることもあったようです。
泊ったホテルの中で、骨董品を商っている店があり、1970年代の仏像ファンの日本人はいい鴨になっていたようで
す。めったに価値の高い本物の仏像などあるわけもなく、またあったとしても国外に持ち出すためには、難しい手続き
が必要でした。ある時店の主人とお茶を飲んでいると、この辺りの丘で、本物が出るかもしれないとあたりをつけると,丘
ごと所有者から買取り、発掘するといいます。
めったに出るものではなく、店においてあるものの多くは、模造品を作り土の中にしばらく入れておいて、古く見えるよう
になってから取り出したものだそうです。

別の機会にシリアの古都アレッポの国立考古学博物館に行ったことがあります。館内には、この地で発掘したものが
所狭しと置かれていました。閑散としていました。すると館長が現れ、館長室へ私たちを導きいれ、国からの援助も乏し
い中,館を維持していくにはお金が足りないので、過去百年未満につくられた小さな出土品は、館長の本物だという証
明書をつけてくれ、一律50ドルで売ってあげますといいます。
皆さん感激して買ったのですが、翌日、城近くのバザールで、なんと同じものが多数並べられて売られていました。値段
も前日よりはかなり安いようでした。


 273. 英語成立の背景

世界で最も広く話され、理解される言葉が英語と今ではなっています。

しかし、アングロ・サクソン時代(5〜11世紀)は200万人程度の人が話した言葉でしたし、近代初期(16〜17世紀前
半)でも500万人程度の人が話す島国の言葉に過ぎませんでした。

英語は、ゲルマン語の中の低地ドイツ語(北海に臨む北ドイツ海岸地方で話される言葉)を話していたジュート人や,サ
クソン、アングロ人が5世紀半ば以降約百年に亘ってブリテン島にやってきて始まりました。
英語(イングリッシュ)の原義は、アングレ語(アングル人の話す言葉)からつけられました。日本で聖公会と言われる英
国国教会は、正式にはアングリカンチャーチと呼ばれます。

英語が文献に登場するのは紀元後700年ごろからです。
 古英語時代(オールド・イングリッシュ)700〜1100年ごろ
 中英語時代(ミドル・イングリッシュ)1100〜1500年ごろ
 近代英語時代(モダン・イングリッシュ)1500〜 と分けます。
古英語は地域により4つの方言に分けます。  
 北部(ノーザンブリアン)は、787年バイキングの進攻以降、修道院が略奪され、多くの写本 が焼かれました。
 南西部(ウエストサクソン)は、都をウィンチェスターとするウェセックス王国があり、9世紀後 半のアルフレッド王の
活躍で、バイキングを撃退し、文献は残りました。
1066年、フランス語を話すノルマン人が支配するところとなり、古英語は断ち切られました。

中英語は、中東部(ケンブリッジ大学やオックスホード大学を含む地域)そして南部あるいはケント地方で話される言葉
が、混ざり合う所がロンドンに当たっています。このロンドンで話される英語が、今日の英語に発展していきました。14
世紀後半に書かれたチョーサーやガワーの英語は標準的な文学語として認められました。

近代英語は、ルネッサンスとともに始まります。
 1500〜1650年  初期近代英語
 1650〜1900年  後期近代英語
 1900〜       現代英語

ヨーロッパを見渡してみると、中世の時代は、ラテン語が学問、そして教会の言葉として広く学者,聖職者の間で国際
語として使われました。近代に入ると、フランスの国威や文化を背景に広く外交、社交場の言葉としてフランス語が、主
流となります。
そして、第一次世界大戦後、ベルサイユ講和会議で英語とフランス語が外交用語となりまた。第二次大戦後は、強国と
してのアメリカの発言権、アングロ・サクソン文化の優位性など影響し、英語が広く話される言葉になっています。

英語の中には,おびただしい外来語が含まれている特長があります。
第一にラテン語です。
 ゲルマン人が大陸において、ローマ人との接触により借入したものや、先住民のブリトン人  (1世紀から5世紀まで
ローマ人の支配下にあった)から間接にラテン語を取り入れた面もあ ります。さらに6世紀末、キリスト教に改宗後、ラ
テン語書物から入ってきた英語もあります。  また、ラテン語には古代ギリシャ語からの借入語も多いので、英語はラ
テン語を通してギリシ ャ語も取り入れています。
 Street,Wall,Mile,Wine,Butterなど
第二にスカンジナビアの民族語です。
 北欧のバイキングが、9世紀後半から11世紀にかけてイギリスに定着しました。文献では、中 英語時代になって現
れます。
 Rose,Noon,Schoolなど
第三には、1066年のノルマンディ候ウィリアムによる、イギリス征服から始まる流れです。
 支配階級はフランス語を話し、文学もフランス語やラテン語で書かれた時アングロ・フレ
 ンチ語(イギリス化したフランス語)が、宮廷や法廷、議会、学校での言葉になりました。14世 紀後半になり、ようやく
英語が失地回復し、英語文学も盛んになります。
 しかし、多数のフランス語が含まれることになりました。フランスとの間には、戦争や結婚によ る接触が多かったこと
もあります。
 Aunt,Uncle,Prince,People,Veryなど
第四には、近代英語期はルネッサンス(文芸復興)によるおびただしいラテン語が入ってきまし た。
第五には、学術の進歩により、学術語が必要となりギリシャ系の要素をラテン化した語形を使 うのが、習慣となりまし
た。18世紀から始まる啓蒙時代に当たります。
 Psychology,Anthropolpgyなど。
第六には、近代に入り、海外発展した結果、イタリア、オランダ、スペイン語からも借したり、極 東の日本、中国やオー
ストラリア、アフリカの土着語アメリカ・インディアンの言葉まで入っき  て、コスモポリタンな性格を色濃く持つのが英
語です。

英語のルーツをもっと深く古く眺めますと,印欧語族(インド・ヨーロッパ語族)に属しています。1786年にウィリアム・ジ
ョーンズ卿(イギリスの東洋学者)が、サンスクリット語(インドの古語)がギリシャ語やラテン語と著しい類似性を持って
いることを発表してから研究が進んだ結果によります。

この印欧語は紀元前3千年ごろ、ユーラシア大陸の大部分で話されていた言葉だと考えられていて、インド語,イラン
語、バルト語、スラブ語、アルメニア語、アルバニア語、ギリシャ語、イタリック語、ケルト語、そしてゲルマン語のもとに
あたるそうです。


274. 火災警報器が鳴ったら


ホテルの部屋には、非常時の際の処すべき指示が書いたものが、壁や扉にかかっているの
が普通です。

 ロンドンのホテルで夕刻6時ごろ、けたたましく警報器が鳴り続けました。廊下や窓の外など周りを見回してみたので
すが、変わったことはないようです。しかし、すばやく身支度を整え、必要最小限度の物(パスポート、財布や航空券な
ど)を持ち、階段を降りホテルの外へ出ました。FIRE BRIGADE(消防隊)と赤い胴体に大きく書かれた消防車が二
台来ておりホテル責任者と話を消防夫がしていて、泊り客も百人あまりすでに外に出ており、すべての荷物を持ってき
た人もいれば、何も持たず軽装で飛び出した人もいるようでした。10分あまり待っていますと、何事もなかったかのよう
に、部屋に帰っていいというジェスチャーがありました。警報器の誤作動だったようです。

ロンドンのガイド氏の話では、結構警報が鳴ることがあるようで、夜中とか早朝などは、パジャマ姿や振り乱した髪のま
ま裸足で、路上に多くの人が出ていて騒ぎが収まるまで粛々と待つといった風景が見られるそうです。

日本と違い、ヨーロッパの都市に住む人々は、昔から複数階のアパート暮らしですから非常時にはどのように対処する
か知っているようです。
しかし、日本のように地震の多い国に来ると、彼らはきっと対応に苦慮すると思うのですが〜。


 275. ハーハーの壁


18世紀の後半、建築家ジョンウッズ・ジュニアにより貴族のための巨大な、湾曲したアパート(英国ではフラットという)
が、バースの丘の上につくられました。

ロイヤルクレセント(高貴な三日月)と呼ばれ、曲線を持ったエレガントな建物は、当時の流行となって、この町以外に
もロンドンやエジンバラでも多くつくられました。

元々は、牧草地であったところでした。牛や羊が草を食べ、自由に駆けずり回っていたので、引っ越してきた貴族たち
は牛や羊を近くに来させないために、石垣をつくりました。動物を追い払うときに発する声が、ハーハーということから、
ハーハーの壁が今でも残っています。

そしてやがて19世紀に入り、近くに公園がつくられました。ビクトリア公園といいます。公園の開会式には、少女だった
後のビクトリア女王が出席されました。足の見えるスカートでもはいておられたのでしょう。多少内股で歩くこの少女を見
た市民がそのことを野次ったようで、傷ついた彼女は二度とバースの町を訪れなかったそうです。
夏になると、ブリテン・イン・ブルーム(英国は花いっぱい)のコンペが英国中で競われます。バースの町は、優勝の常
連だそうです。
従い、このビクトリア公園も美しい花壇がつくられ、訪れる人々の眼を楽しませてくれます。


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