希望

236. アテネのオリンピック選手村開きは鍵の受け渡しから


ヨーロッパで美術館に入ると、よく降伏した側の大将が、征服者へ街の出入りに使う大門の扉の鍵を手渡している絵画
を眼にします。

今でも儀式的に重要人物を町に迎え入れる際に、美しく装飾された鍵を差し上げたりしているようです。
古いホテルに泊まりますと、ずっしりと重い鍵を貰い、大きな穴へ入れて、右へ左へと回すことになります。その際、し
ばしば要領が分からず困ってしまいます。誰もが操作して、簡単に開くようでは部屋の安全は確保出来ませんから、
少々の不便は絶える必要があります。

基本的には、大陸では今でも、鍵をたくさん持ち歩いていて、古びた自転車にも頑丈な鍵をつけているのをオランダ辺
りでは眼にします。インドもまた鍵文化圏です。
セコムしていますか?の長嶋茂雄さんのコマーシャルと共に日本でも、ようやく大陸のリズムが入ってきつつあるように
思います。



 237. ローマのパンテオン、ナボーナ広場周辺


近世の初め(17世紀)に完成したのが、サン・ピエトロ大聖堂の天蓋です。
内壁の直径は42米50センチだそうです。お手本は、ルネッサンス発祥の地、フィレンツェのドウモ(大聖堂)だそうで
す。

サン・ピエトロ大聖堂とテベレ河をはさんで反対側に、2千年のも昔にローマの神々を祀る為につくられたパンテオンが
あります。球の上半分を天井として設計し、下半分は円筒形の壁で支えています。内円の直径は43米あります。古代
ローマ人の土木建築の水準の高さに脱帽するのみです。
そこから、歩いて5分の場所に、古代に馬車競技場として使っていたナボーナ広場があります。今でも地下5〜10米の
所には、古代の遺跡が眠っているそうですし、一部は広場への入り口の近くで見ることができます。17世紀(バロック
時代)を代表する芸術家ベルニーニとボロミニが競った彫刻、噴水と教会が、長方形の広場を飾っていて、周りにはレ
ストランや喫茶店が立ち並んで、ローマっ子たちのお気に入り所になっています。

首相官邸や上院議事堂なども近くにあります。歴史の中で、しばしばテベレ河を越えて氾濫した水が、どこまで上がっ
たかを示す石版が建物の壁に残されたのも見れます。
河の上流に向かって少し歩くと、古代ローマ初代皇帝アウグストゥスの古墳もあり、魅力いっぱいの散策となるでしょ
う。


238. 憧れはいつの時代も同じ


中国産の安い農産物が、日本のスーパーマーケットに溢れています。
農薬を始め、見た目に美しい形や色をつくるため、かなりの無理がされていると、聞いています。
そして、中国のお金持ちは無農薬、無添加で育てられた、値段の高い日本の農産物を輸入して食べているそうです。

30年も前に、インドへ行き、綿や絹のサリー布を買った私達ですが、当時からインドのお金持ちは、日本製のナイロ
ン・サリーに魅力を感じて、輸入して着ていました。


 239. 野鳥が逃げないストックホルム


長く厳しい冬は、各家庭で鳥の餌箱を用意して、野鳥を保護しているといいます。

夏に訪れたころは、穴ウサギが自動車道脇の土を出たり入ったりしながら、遊んでいました。
スエーデンでは、高速道路も大学までの教育費もタダと聞きました。消費税は25%です。
ストックホルム市が間接経営する王の島にある、福祉センターに入居している80代の男性の部屋を、前もって連絡し
ないで、訪問しました。車椅子生活をしておられますが、ゆったりとした部屋で、2年前に亡くなられた奥様の若い時の
写真と、晩年の写真が飾ってありました。彫金師として生きてこられた、マイスターです。子供もなく、一人暮らしとなら
れ長年住んだ近所のアパートから最近この施設に引っ越してこられました。
ネクタイをされ背広を着られ、物静かに話される紳士でした。


 240. バルト海は日本と同じ大きさ


ロシア、フィンランド、バルト3国、ポーランド、ドイツ、スエーデンそしてデンマークの国々に囲まれ、北緯60度あたりに
あり、出口は僅かに西の端から北海へと大洋につながっているのがバルト海です。

海流の流れは弱く、塩分も少なく、波静かで冬は凍ってしまいます。この海の周りは高い山はなく、氷河が削っていった
岩肌が海の中に露出していたり、淡水湖が多く森のなかに残っています。
ここを舞台に、バイキングやハンザ同盟都市、北方十字軍運動、旧教と新教の争い、そして、バルチック艦隊が20世
紀の初め、この海を通って日本へとやってきました。

白夜に近い夏のころ、ヘルシンキとストックホルムを結ぶ豪華フェリーに乗ると、数知れず点在する小島の間をぬって
進む風景は、絵も言われないほど美しいものです。
ヘルシンキ港でもストックホルム港でも冬に活躍する砕氷船が、港に係留されていました。


 241. フィンランドの苦労


ヘルシンキの港近くに元老院広場があり、広場の周りには教会や大学本部、政府の建物が立っています。全ての建物
は、19世紀につくられました。この広場のみならず、ヘルシンキの街全部が、1809年に長い間支配されたスウェーデ
ン(約500年)からロシアの支配に移って後、新しくつくられました。
そして、ようやく1917年にロシアの内乱に乗じて、独立しました。しかし、1939年から1944年の間は、対ソ連戦争を
国あげて闘いぬきました。1948年に至り、ソ連との間に友好相互援助条約が結ばれました。
現在も、NATOには入らず、中立を保ちロシアを刺激しないようにしています。

第1次、第2次世界大戦では、ソ連と闘った歴史からの教訓を忘れないように、小学生には12時間かけてその時のこ
とを教えています。戦争に行って闘った退役軍人が、教室で直に子ども達に語るそうです。

フィンランドでは、双子のチャレンジと呼び、高齢化問題とグローバリゼーションに取り組んでいるそうです。その為に
は、教育に特に力を入れていて、読書に費やす時間が多く、IT(インフォメーション・テクノロジー)を使った語学や文献
重視の教育を行い、小学校教師は修士以上の資格を義務づけています。
国家予算の9割が教育と福祉に使われているそうです。

対ソ連戦を指導したのが、マンネルヘイムという将軍で、後に大統領になりました。この人は、フィンランド語が出来
ず、スウェーデン語でもっぱら話したそうです。世界中を旅した際に、収集した品々が展示してある彼の邸宅は、一般
公開されていて興味に満ちています。
あのヒトラーがこの将軍を尊敬して遇したエピソードも伝わっています


242. 集中暖房、給温水設備の世界一備わった街ヘルシンキ


ヘルシンキでは、熱湯は石炭、天然ガスを燃やして発電所から直に各家庭に配られます。

市電の電線や街灯は、通りの中央に吊ってあります。公共の為には、否応なしに電柱の代わりに、通りに面した建物
の壁に電線を支える為の丈夫な留め金が打ち込まれています。
この街は、4万年前は厚さ2千米の氷がのっていたといわれます。今も、冬になると海は凍るため、砕氷船が活躍しま
す。対ソ連戦(第1次、2次世界大戦)では、フィンランドのスキー部隊が大活躍しましたし、日露戦争でロシアをやっつ
けた東郷平八郎元帥は、この国では人気のある軍人だそうです。

白樺の小枝を束ねてサウナに入り、厳しい冬に耐えた森の人(古ゲルマン語でフィン)は、自国のことをスオミ(アルタイ
語で湿地という意味)と呼んでいます。
訪れたのは夏、通りを飾る街路樹の菩提樹に葉がいっぱいに繁り、公園や広場そして海のそばの岩場では、日光浴
を市民がほとんど裸で楽しんでいました。


243. ミューズが集うところがミュージアム


20世紀のアメリカ文明の象徴のような街が、ニューヨークのマンハッタン島のように思います。

高層ビルが乱立する中、ミッドタウンからアップタウンにかけて南北に長いセントラルパークがあり、そこには氷河が削
っていった荒々しい岩肌を露出した風景も残しています。
この人工公園の中の5番街に面した一角にメトロポリタン・ミュージアムがあります。
ミューズ(古代ギリシャ時代の各芸術を担当する女神)が集うところがミュージアムとなったようです。この博物館には実
に多くの多岐に亘る世界中のものが、集められています。
そんな中で、私が特に感動を覚えるのは、広い空間いっぱいに置かれたアフリカ、南太平洋方面の赤道を中心にした
人々の生活道具(カヌー、宗教儀式に必要なもの、衣装、仮面など)を一堂に展示したところです。
あまりにも類似、近似しているのに驚いてしまいます。
ここを見ると、誰でもが回遊する潮の流れを利用して、古から人々は旅をしたであろうと…‥。
1947年、ノルウェーの若き古代文明研究者、ヘイエルダールは、葦でつくった筏の舟(コンチキ号)に乗り、ペルーか
らイースター島までの800キロを101日かけて旅をしました。インカ帝国以前のティワナコス文明からポリネシアへ石
の文明が伝えられたことを証明しようとしました。ペルーの4千米の高地にあるのがティティカカ湖です。先史時代から
今に至るまで葦の舟が水上生活者ウロスの人たちの足となっています。

1970年には、古代エジプト文明が中南米へと伝わったことを証明するために、パピルス舟ラー2世号に乗ってヘイエ
ルダールは、モロッコから南米への6100キロの旅を57日かけてしました。
果たして、その結果文明文化の伝播が証明されたのかどうかは分かりません。


 244. 飛行機の中でコーヒー?ティ?と聞かれて思ったこと


大切なお祈りの時に、眠気をもよおすという情けない有様です。

そんな中、アラビア半島南部の高地やアフリカ産の強い刺激性のあるコーヒーの豆を溶かして与えると、眼がパッチリ
と開き、偉大な神アラーを讃える行事が、無事進行することがわかりました。イエメンやアビシニア高原で野生していた
コーヒーは、このようにしてイスラム世界へと伝わり、やがて地中海世界、あるいは17世紀の後半ウィーンを取り巻い
ていた、オスマントルコ軍の急ぎ立ち去った塹壕の中に、コーヒーが見つかり18世紀には、ヨーロッパでも上流社会を
中心にして、飲まれるようになったといいます。
ウィーンやベネチア、ローマなどへ行きますと、1700年代創業になる老舗のカフェがあります。
フランス革命(1789年)は、パリのカフェに集まったインテリ達が情報を交換し合いながら、醸造された面もあります。

一方紅茶も似ていて、中国やインド、セイロンの高地の適度なお湿り(雨)の中でつくられます。茶の歴史は、中国では
古くからありましたが、長い船旅の中で自然に蒸されて、生まれた紅茶は19世紀には、スクーナー船(高速帆船)に乗
せられて一番茶を、ロンドンへと競って持ち帰りました。大変な高値で取引されたことでしょう。
ボストン港での茶会事件や紅茶にかけられた税金は高く、桂冠詩人となったウィリアム・ワーズワース(1770〜 185
0)ですら三回は、紅茶の葉っぱを乾かしながら、出涸らしになるまで使って飲んだといいます。

今では、コーヒーも紅茶も誰の口に入る安価な飲み物になりました。


 245. 成長を育むのに適した、床にしゃがむ時期とは?


アメリカやヨーロッパなどで博物館や美術館に入ると、幼稚園や小学生の一団が先生に引率されて、お目当ての彫刻
や絵のある部屋に入ると、床に座らされて先生からあるいは館付きの専門家から話を聞いているのを、眼にすること
があります。

修学の一環として、集団で専門知識のある人から、価値ある芸術品を幼くして説明され、鑑賞できる機会を持てるのは
なんと恵めれたことでしょう。

しかし、高校生にまで成長した日本の若者が集団で制服に身を包み、ヨーロッパあたりの空港で強制的に床に座らさ
れて、ひとしきり先生や添乗員から注意を受けているのを眼にするのは、残念ながら美しいものではありません。
修学の旅であり、異文化との個々人の接触の機会のはずが、失敗を恐れるあまり型にはめ常に管理するという引率
側の都合で、いつまでも子供子供した言いつけを守る良い子を演じさせられる高校生は、不幸にみえます。



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