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希望

226. 包装文化とおおらか文化


だいぶ前のことですが、ドイツの百貨店で千円前後のボールペンを50本も買った日本人がいました。中に入っていた
青のカートリッジのインクを、黒のカートリッジに全部替えさせた上に、一つ一つ包装紙で包むように売り子に命じまし
た。

2時間近くかかりました。その日本人は、喫茶店でも行き、コーヒーでも飲んで待っていました。他のお客や、同僚の従
業員に迷惑を掛けたのは云うまでもありません。
しかし、誰も文句はいいませんでした。
このような千円程度の買い物で、包装することは余程のこと(クリスマスとか誕生日プレゼントなど)でないと、ヨーロッ
パではしないと思います。

イタリアのローマで郵便局に行き、日本までの葉書に貼る切手を求めたことがあります。すると窓口嬢は、500リラぐら
いだろうと返事します。不安なのか他の仲間に問いかけた所、600リラ、700リラという返事が返ってきました。
結局、多いにこしたことはないだろうからと言われ、700リラ支払いました。
おおらかというか、仕事に不熱心というか、呆気にとられた瞬間でした。

しかし、ボールペンといい、切手といい、大局に影響はないのですからヨーロッパ風のリズムがあってもいいのではない
でしょうか?
私達は、末子末葉には気にかけますが、ともすれば全体を観るのが苦手の面があるように思います。



 227. ドイツ語圏での驚き


かっての西ベルリンの中心は、クーダム通りと言い、そのそばにヨーロッパセンターと呼ばれる商店やレストランの多く
入った新建材で出来た建物があります。
その最上階は、サウナとプールがあり、大勢の人で賑わっています。サウナの中は、男女共に裸で入りますし、プール
ですら女性の中には裸で泳いでいる人がいました。

ライン河のほとり、日本人在住者がドイツで最も多いとされるデゥセルドルフの街があります。そこから東へ数十キロの
山間にブッパタールの街があり、ここには1900年につくられたモノレールが今も市民の足として活躍しています。街を
見下ろす丘の上のホテルに泊まっていたことがあります。夕刻になると、近在の仕事を終えた人達が、ホテルのサウナ
に入りに来られます。勿論、男女混浴でタオルは、お尻の下に敷いていました。サウナで熱くなった体を冷やす為に、
外の庭につくられたプールに入っていますと、黄色く色づいた木の葉が舞い落ちてきました。秋のころでした。

そして、スイスのアイガー、メンヒ、ユングフラウ三名峰を訪れる為に泊まる街、グリンデルワルドの駅前には歴史ある
五つ星ホテルのレジーナ(女王という意味)があります。このホテルの地下には、数種類の療養プールとサウナがあり
ます。ここでも素裸の男女が一緒に利用します。

日本の風呂敷はその名のとおり、かっては蒸し風呂で熱くなった床に敷いて、尻を守ったそうです。日本といい、ドイツ
語圏のヨーロッパといいサウナ風呂では、人前で裸でいるのを気にかけない面がありますが、インド人(おおいに気に
かける)が知ったら何というでしょうか?きっと野蛮人と罵るのではないかしら?

だだ正直いって、男女が裸で一緒に入るドイツ語圏のサウナにはびっくりしました。


228. 組織の成否はボス次第


旅客機を束ねる人は機長です。
キャビンアテンデント(乗客の世話をするスチュワードやスチュワーデス)の接客態度はおおいにボスである機長の人柄
に左右されます。同様に、政治は制度の如何に関わらず、ボスの良し悪しに影響を受けます。
族長政治、領主制治、国王専制政治、共産主義、民主主義、神聖主義など数多くあります。民主主義も直接と間接と
あり、現在はほとんどが間接となっていて、住民から選ばれた人が集って、また執行部を選ぶといったやり方です。

僅かに古代アテネの都市国家(住民の半分は奴隷)やスイスのごく一部の村落に、直接民主政治が見られる程度で
す。
長く、政治の頂点にいますと、腐敗していくのが世の常のようです。
僅かに民主主義だけが、平和にボスのリコールが行われる可能性があるというだけのことかも知れません。


229. モスクワの自動販売機からビールが買える?


モスクワの地下鉄は概して大変に深く掘られた所につくられていて、駅構内の壁や柱、天井のモザイクの色タイルのデ
ザインには、見事なものが多くあります。独裁者スターリン時代につくられたそうです。非常時に避難所として、あるいは
美しく飾ったデザインの地下鉄は、国威発揚の意図があったことでしょう。

1990年代初めの、ある夏の暑い日、ホテルの前にある地下鉄の入り口近くに自動販売機があり、市民が備え付けの
コップで、泡が立つ琥珀色した飲み物を飲んでいるという情報をリーダーの方が知らせました。ビールに違いないから、
各自、部屋からコップを持参して、飲みに行こうということになりました。コインを入れてボタンを押すのですが、出てき
ません。強く販売機ごと揺するとやっと出てきました。しかし、冷えてはいませんし、ビールに見えた泡の立つ飲み物
は、リンゴジュースでした。懐かしい思い出です。


 230. インドの地で正月を迎えると


1970年代の旅は、何かロマンがあったように思います。

やっと希望すれば、誰でも海外旅行出来るようになり、羽田空港から出入りしていました。帰国すると、皆さんは何回か
集まり、写真交換などして、旅の思い出に華を咲かせたものでした。オーバーにいえば、同じ釜のめしを食べた戦友の
ような気持も少しはあったようです。主催する旅行会社にもゆとりがありましたし、ほとんどの人が初めての旅行であ
り、何が起こるか分からない面もありました。

正月をインドのドライステイト(禁酒を実施している街や州)で迎えたことがあります。日本から簡単なお節料理をダンボ
ール箱に入れ持参し、その朝は、テーブルの上に皿に移して並べ、カップ大関をコップに移し替えて置きました。
レストランの責任者には、日本では正月の朝は特別な料理を用意し、聖なる水を頂くのが習わしであるのでよろしく頼
むといって、許可を貰ったと思います。
インドでは、巡礼先の水(ガンジス河の水など)を故郷に持ち帰りますので、了解したのでしょう。懐かしい思い出です。


231. 修道院では暖房は仕事場のみ


ヨーロッパでは、今でも歴史あるいいホテルに泊まると、冷房設備が無いのが常識になっています。

日本と比べると湿気も少ないし、暑くて寝苦しい熱帯夜は、まず無いといっていいでしょう。冷房設備を付けると、ホテル
の景色(姿)は落ちます。縦長につくられた窓を開けると、涼しい風が入ってきて気持の良いものです。窓辺には、ゼラ
ニュームの鉢植えの花が置いてあります。そして、この花が放つ香り(人間には分からない)が虫を近づけないとも聞い
ています。
ヨーロッパの家屋は長いしばれる冬に対応する為に重厚な壁、暖炉を部屋に設置して、外からの冷たい空気を遮断
し、暖まった空気を外に逃がさないようにつくられています。
さて、その冬に備えて基本的には生きてきた風土にあって、修道院だけは暖房(暖炉)は僅かに写本をする仕事場の
みにつくられていたそうです。聖書を書き写す手仕事は、かじかむ手ではできません。食事も質素で栄養のあるものは
取っていなかったようです。

修道士達は厳しい環境の中で知恵を出し、ワインやビール、チョコレートなどをつくりすこしでも栄養分を摂取して、神
の教えを学んだようです。


232. カイバル峠で石の洗礼


古くから高地にあるアフガニスタンと低地パキスタンを結ぶ道として、カイバル峠は使われてきました。何度かバスで登
り下りをしたことがあります。

パキスタンのオアシス街ペシャワールには、カニシカ王(紀元1〜2世紀)の古墳があります。仏教の伝審に功績のあっ
た人です。ペシャワールの街を出て西へ向かうと、やがてゆっくりとした登り道になります。
歴史の中で繰り返された西から東へ(高地から低地へ)の民族の進入経路の一つとして、カイバル峠は有名ですし、今
も物産を運ぶトラックの群れが絶えません。アレキサンダー大王の率いたギリシャの精鋭部隊もここを通ったことでしょ
う。やがて彼らは、インダス河に出ましたが、それ以上の東進を止め、中近東へと引き返しました。

1970年代の半ばは、未だ仏蹟巡拝団の人達がアフガニスタンの首都カブールにある国立博物館の中に、仏教遺跡
から出土した仏像などの出土品を見に、またバーミアンの岩壁に彫った巨大な仏像やバンディアミール湖の神秘の色
を見に行ったものでした。

ある時、カイバル峠の途中でバスを止め休憩していますと、かなり離れた所から薪を背負った女性の一群が現れまし
た。カメラを向けると、にっこりと微笑む替わりに、石を一斉に投げつけられた思い出があります。このあたりに住む部
族(パシュート族)は、独立心に富み、よそ者に対しては徹底して闘う人達だと云われています。
車窓に見える村も、一つ一つの家が4〜5米の泥か石の壁に囲われていました。

アフガニスタンでの印象は、男らしい侍の仕切る土地柄というのと、ほとんどが乾燥していて瓦礫と小石が荒い土に混
じって起伏のある土地だったぐらいです。
ガイド氏が、小川の中に入れて冷やしていたスイカを、ホテルで用意して貰ったピクニック昼食を食べた後、大きいジャ
クナイフで切ってくれ、かぶりついた時のみずみずしい冷たい味が忘れられません。夏の暑いころでした。


 233. カトマンズで家庭料理をご馳走になった思い出


同じヒンズー教あるいは仏教を信じるインド人とネパール人ですが、なんともネパール人は穏やかで、シャイで、エレガ
ントな人達だった印象があります。

1970年代半ばの頃、旅行会社を経営するネパール人社長宅にツアーの全員(10人ぐらい)招いて貰ったことがあり
ます。奥様の手料理をご馳走になり、応接間へと席を替え、社長宅でつくった地酒(果物のリキュール)を頂きました。

社長、奥様、そして養子の息子さん(25歳前後)が、優しい笑みを常に目元、口元に帯び、物静かな立ち振る舞いで、
ゆっくりと英語で私達の質問に答えてくれました。遠方からの友を両手を広げて包み込んでくれた彼らは、真に心の広
い人達でした。


 234. ダブルデッカーの車掌がウォーキングの勧めの始まり


1960年代にロンドンのダブルデッカー(2階建てバス)の運転手と車掌の心臓病との関わりの比較が、発表されまし
た。

結果は、じーと座ってストレスがたまりやすい運転手が、階段を通路を、1階から2階へあるいは逆にとバスの中を駆け
回る車掌よりも心臓病にかかりやすいデータがでました。
そして、事務所で働くデスク・ウワーカーと、郵便配達人との比較もありました。
結果は、精神面でも労働面でも郵便配達人が、健康管理に長けていました。

このようにして、ウォーキングが健康増進に役立つことが明らかになり、現在のブームが生まれるきっかけになりまし
た。

本家のロンドンでは、ダブルデッカーは多くがワンマンカー(運転手のみ)になっていますし、やがてダブルデッカーも廃
止され、一階建ての横長の(真ん中がじゃばらで連結された)ワンマンバスが登場する予定だそうです。


 235. 旧名は大切にしてほしい


ロンドンのテームズ河ぞいのザ・シティー(1.6平方米)は、2千年もの昔にラテン語を話すローマ人が入植して以来、
中世、近代そして現在にいたっています。ウオール街(ニューヨーク)や兜町(東京)と並んで、ザ・シティは世界の金融
の中心となっています。

ザ・シティにあるアンダーグラウンド(地下鉄)駅バンク(イギリス国立銀行)近くには、中世のころ軒を並べて同業種の
人達が、商売をしていた名残を残す通りが数多くあります。
ガター(内蔵)通り、チープサイド(サクソン語に由来する商売という意味)、ミルク通り、オールド・ジューエリー(中古の
貴金属飾りでも商いしたのか?)通り、ポールトリー(鶏肉)通り、などなどです。そんな通り名を見るだけで気持がワク
ワクしてきます。

日本でも鉄砲町、鍛治屋町、紙屋町、竹屋町、など歴史を感じさせる名前がたくさんあります。
便利という名の下に、旧名を消してしまわない配慮を忘れないようにしてほしいものです。過去の中にしか、未来への
希望は捜すことは出来ません。



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