希望

206. ウエーブロックで学んだこと


オーストラリアのエアーズロックはあまりにも有名です。

その巨大さ、周りはなにもない砂漠が広がっている風景は、訪れる人を魅了します。
ウエーブロックはオーストラリアの西南にあり、インド洋に面した風光明媚な街、パースから内陸に数百キロ入った所に
あります。こちらは、訪れる人はあまりないようで、泊まった宿の主人も暇と見えて、私達を何かと連れ回して、親切にし
てくれました。
そしてこの宿の主人(ガイドの資格もあると本人は言っていた)が、波形のへこみがきれいに残る、高さ10米ぐらいの
横に長いウエーブロックは、かって海の中にあったことや、アボリジニ(先住民族)の岩に残した絵文字を解説してくれ
ました。
アボリジニは、海岸近くに生活する人達と、内陸で猟をしながら移動しながら生活する人達に分けることができます。つ
まり、風土が生活様式を決め、男は砂漠(内陸)に生きた人は割礼を行い、海に生きた人は割礼をしなかったそうで
す。
何も割礼は、ユダヤ教やイスラム教の専売特許ではないようです。

アメリカインディアンも海岸で生活する人達は、トーテンポールをつくりましたが、内陸の草原で生活する人達は、そうで
はありませんでした。
和辻哲郎さんは、ヨーロッパへと船で旅をし、乾燥したアラビアの風土を見て、触発され、後日'風土'という名著を残しま
したが、本当に風土が同じ人を大いに異なった習慣、生活様式へと変えていくようです。


 207. 健康な者が弱者を助けるのは当たり前


米国にある小中一貫学校を訪れたことがあります。

校舎内には、エレベーターやゆるやかなスロープが多くあり、階段が少ないのが眼にとまりました。そして、校長は"学
校は社会の縮図であり、社会の約一割の人は心か体に病を持って生活しています。健康な者が弱者を助けるのは、
当たり前の理念で教育しています。"と語りました。健康な生徒が、車椅子やその他の障害のある生徒に自然に接し、
手助けしていました。

弱者が明るく眼が輝いて生き生きしている学校は、心の健全な子供が育ち、社会でリーダーシップを発揮することでし
ょう。


208. オランダは世界の孤児になっては生きていけない


約2千年前、シーザーの率いる一団が、遠く北のオランダ辺りへやってきたとき、潮が引くと浜に入り貝などを取って、
細々と生活している人達を眼にしました。この人達の末裔が、17世紀に世界最初の市民国家をつくりました。

オランダの南、ベルギーとの国境近くにテルーゼンの港町があります。
ロッテルダム、アムステルダムに続くこの国3番目の貿易港です。この街の学校では、世界各国からやってくる子ども
達に対応した教育が行われています。イスラム圏、仏教圏、ヒンズー圏など様々な宗教、文化背景を持つ人達に、安
心して仕事をしてもらい、彼らの家族にこの街に住んでもらおう、子供たちに楽しく学校に来てもらおうと配慮し、努力し
ています。
そして、市役所ではこの国は世界の孤児になっては生きていけない。世界の人に自由にやってきて貿易や事業をして
もらい、この地を活用してもらうことで、オランダは生きていけると語っていました。


209. ジャスト・イン・タイムは年に一度か二度起こる


社会主義体制が壊れて(1990年)間もない頃、モスクワ郊外の大きなトラック製造工場を訪れました。

工場長の仕事の半分は、工場で働く労働者の家族への食糧確保だそうで、つくったトラックと農村でつくられた食料品
をバーター取引しています。そして、本体のトラック製造は各部品が遠くはシベリアから送られてくるので、めったに工場
内に部品が揃っていることはなく、年に1度か2度世に云うトヨタ工場のジャスト・イン・タイム方式のラインが偶然機能
することがあります。と工場長が昼食の際に話ししていました。
それでも幹部用の接待所で出される食事は、ホテルのレストランで頂くものよりは、遙かに手の込んだおいしいもので
した。


210. その街の、その国の良いところを語って欲しい


パンニュース社の社長は、女性であり、年に1〜2度パンニュース社後援のヨーロッパやアメリカへの同業種の視察旅
行をされます。

パリの下町で、早朝からアパルトマンの地下工房でパンを焼く、職人の人達を訪ねたり、同街のパン博物館を見学した
こともあります。またある時は、南ドイツのドナウ河のほとり、世界一高い鐘楼を持つカテドラルの街ウルムでパン博物
館を見学をしました。物理学者アインシュタインは、この街で生まれました。
この素晴らしい社長が、その街の、国の良いところを語って欲しいと私に言われたことがあります。欠点や嫌なところは
聞きたくないと言われました。私は以後、その事を心がけてきました。
アテネの人、アリストテレスは"希望は起きて見る夢"だと語り、あるいはアメリカの政治家ベンジャミン・フランクリンは"
希望を持って生きる人は断食しながら死ぬ"とも表現しています。


 211. パリジャンのさりげない優しい気づかい


パリの免税店で働いていた日本女性は、本当に穏やかな優しい表情と女性らしい仕草と言葉使いに満ちた人でした。
この方がある時、次のような話しをしてくれました。

若かった頃、画家志望の主人と2人で日本を後にして、パリへとやってきました。そして2人の間には、愛の結晶が生ま
れました。しかし、収入が十分にあるわけではなく、また主人が家事や子育てを手伝うタイプでもなかったそうです。そ
んな中、地下鉄やバスの乗り降りなど、パリジャンがさりげなく赤ちゃんを乗せたバギーを持って手伝ってくれたそうで
す。
子供は今は大きくなり、日本に行ってしまったそうです。
しかし、年老いた主人と自分は、若かった頃親切にしてもらった、このパリに骨を埋める積もりです。と語りました。
この女性は、今はどうしているのでしょうか?
パリに多くあった免税店もどんどん減っています。別の仕事でも見つけられて、きっとパリで生きておられることでしょ
う。


 212. 感動したテレビドラマ


だいぶ以前、テレビのチャンネルを回すと、偶然にドラマが始まったばかりで、そのまま終わるまで引き込まれていまし
た。

シーンは、老夫婦が一軒家の縁側で、日向ぼっこをしながら、お茶を飲んでいます。
通りがかった愛し合う若者が、垣根越しに覗いて老夫婦の風景を見て、自分達も年とってあのような穏やかな夫婦にな
りたいと語り合います。
しかし事実はこの老夫婦は、数日前にやっと何十年振りに会い、今の生活が始まったばかりでした。
若かった頃、このおばあさんに乱暴を働いた男を、殺してしまったこのおじいさんは、刑務所に入れられました。おばあ
さんは待ち続けました。
そして、今長い歳月の後、晴れて一緒になれたということです。


213. 英国人の庭いじり好き


王室園芸協会(1804年)が出来て200年が経ちます。

今では、英国は園芸人の国と云ってもいいほどで、シャクナゲ(バラ科)について話しをすると、誰もが独自の考えを持
っているそうで、庭に温室を備えている人も多くいます。なぜそんなに庭いじりに夢中になるのでしょうか?
土の中に手を差し込み、自分独自のものをつくるのは、人間の本能に近い経験のひとつであり、現代に生きる多くの人
にとり、土いじりがただひとつ残された喜びなのかも知れません。あるいは、英国の国の小さいこと、土地の狭いこと
が、社会的地位の表現を土地、土に求める傾向を生んでいるかもしれません。
英国人らしい庭園へのこだわりは、18世紀頃から顕著になったと言います。
17世紀は、ヨーロッパ大陸のフランスやオランダの、人が一段高いところから自然を見下すような、コンチネンタル(大
陸)庭園が人気がありました。そこでは、人が、テラスに立ち、あるいは手すりに寄り掛かりながら、塀で囲った庭や装
飾用に刈り込んだ木々、運河などを配した庭をめでるといった自然を支配している人間の、優越感を感じさせるもので
した。

しかし、18世紀頃から英国では、自然を庭をただ見るのではなく、自然の中に入り、庭園を通り植物と気脈を通じ合
い、固ぐるしくない関係に向かっていきました。そして、今英国では庭いじりをすることで誰もが、会話が出来るほどにな
っています。
また、庭の世話をしていると人は思いがちですが、逆に多くの場合、庭やそこに育つ植物が、人を慰め癒やしてくれて
います。


 214. 値引きのテクニック


インドの西北にカシミール地方があり、中心都市はスリナガルです。

昔々、苦行、修行することで悟りを求める 僧(小乗)の周りに在家の人達が集まり、一緒に心の安寧を求める流れ(大
乗)がこの地方で生まれたと考えられています。
こうして生まれた大乗仏教が、シルクロード、中国へと伝わり朝鮮を経て、日本に入りました。ブッダ入滅から千年も経
っていました。

16〜18世紀に北インド一帯に勢力を張ったムガール帝国時代には、スリナガルに離宮を営み、素晴らしい庭園をつく
りました。イスラム教の人達はパラダイス復帰への願いが強いので、庭園には特に力を入れたようです。

そして、英国支配時代になると、高地にあり夏涼しく、過ごしやすい景勝の地スリナガルは、英国人の好んで過ごす所
となりました。ダル湖と呼ばれる大きな湖が街にあり、その湖の中に係留されたボートハウス(ホテル)は喜ばれたよう
です。夕方など湖上を這って吹いてくる涼しい風は、なんとも気持の良いものです。
そんな夕涼みを楽しんでいますと、小舟に商品を積んだ売り子が船縁に近寄ってきました。私は、お客さんに手本を見
せようと、30分もかけてある品を値引きさせました。やっと半値になり、一件落着するはずでした。5分もすると、別の
小舟がやってきました。買う気は無しに、同じ品物の値段を聞いてみました。すると最初から半値を云うではありません
か。
がっかりするやら、お客さんの手前ばつが悪い思いをしたものです。


 215. ある駐在員のはなし


アメリカに家族でやってきて数年が経ちました。
海外に来て初めて、家族の絆、団結が生まれました。
子供の宿題を親子3人で、難解な英語にチャレンジしながら解きます。
あるいは、食事などの招待には夫婦揃って出掛けます。

めずらしく生き生きと語る日本人中年男性の表情に、日本ではとうてい経験出来ない、未知の国で生きる、そして体験
がプラスへとつくり変えさせていく、アメリカの風土に私は魅力を見ていました。



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