希望

176. 古代シュメール人も飲んだビール


5千年の昔のメソポタミアのシュメール人の地から、くさび形文字でビールの事が書かれた粘土版が見つかりました。
あるいは、ほぼ同時代のバビロニア人やエジプト人も飲んでいました。
バビロンでは、19種類にも及ぶビールが知られており、ハムラビ法典には醸造が規定されていて、値段も決まってい
ました。違反者は、死刑になりました。
時代が下り、バイキングの時代には、北欧神話の中で勇者が死んだ後に行く、バルハラと呼ばれる広間では、男達の
コップはビールで満たされていました。
そして、中世のヨーロッパでは、キリスト教の修道院でホップが防腐用に入れられることになります。
19世紀の産業革命は、醸造過程を機械化しました。現在では、4つの主な材料として、大麦、ホップ、水、イーストを使
います。
しかし、ビールは味も色も、大麦を使うか小麦を使うか、水の質、麦芽のタイプ、イーストをどこで入れるか、あるいはテ
クノロジーによって変わります。
最も有名なビールにチェコのピルゼンがあります。製造過程もさることながら、柔らかい水、高品質の麦芽(モルト)そ
れに似合うイーストなどの材料が好評価の秘訣だそうです。
英国を代表するものでは、ポーターやスタウトビールがあります。
ポーターは、その名の通り重労働をする人達の、栄養ドリンクとして考え出されたものです。スタウトは、黒ビールで味
はヘビーです。アイルランドのギネスビールがそうです。適度に飲むと健康に良いと考えられ、各種のビタミンやミネラ
ルを含んでいるので、赤ちゃんにも与えた歴史があるようです。

バイエルン州の都、ミュンヘンにはビール醸造会社直営のビヤホールが、いくつかあります。その一つホフブロイ・ハウ
スで、大ジョッキ(1リットル)を手にして、ブラスバンドの演奏に合わせて、上半身を揺すりながら声をみんなで出すと、
ホールがこだまして最高潮になっていました。テーブルの前に座った、中年のドイツ女性の太いむき出しの腕で、首を
巻かれたまま私は、ほっぺたに強烈なチュウーをされたことがありました。
ムードに弱い南ドイツならではのこの体験は、ちらっと日本を思い出させました。


177. コッツウォルズとは森の中の小さな村々という意味


北はシェクスピアの生まれた街ストラトフォード・アポン・エボンあたりから、南は英国最大の温泉地バース、東は伝統あ
る大学街オックスフォード、西はブリストル湾が切れ込んだ最奥の港街グロスターに囲まれた地方が、地理で言うコッツ
ウォルズです。
英国のイメージを私たちが思う時、あるいはイギリス人が理想の地(田舎で犬を飼って、自適の老後の生活)を考える
とき、いの一番にこの地は、思い描かれるでしょう。
中世の教会の塔、古いパブ、きれいな小川、静寂がそこにはあります。
乳白色(アイボリー)や蜂蜜色の石灰岩でつくられた建物の屋根は、天然のスレート石が瓦として使われていて、こじん
まりした集落が丘のゆるやかな起伏の中に、見え隠れします。
中世の時代は、羊毛の生産やその交易、近世には縫製産業で栄えました。そして、俗に言うウール教会、マナーハウ
ス(田舎につくられた貴族の館と広大な庭)がつくられました。また、ローマ時代の村跡などもあります。このような景色
を背景に、19世紀以降、ボーガン・ウィリアムの音楽、ローリー・リーの文学やウィリアム・モーリスの民芸運動が盛ん
になり、クラーフツマンシップ(職人工芸)が見直されました。

バスの車窓に、小川のそばの土手で草を食べている牛の群を見ました。これこそオックスフォードの名前そのものでし
た。
こんな牧歌な風景がコッツウォルズを行くと出会えます。


178. ヘリオット通りには宝島の作家の家があった


鉄柵で囲まれた大きな手入れの行き届いた、鍵を持つ人だけが出入り出来る公園が、エジンバラの町のヘリオット通
りの前にあります。

スティーブンソン(1837〜1880)は、この通りのアパートで生まれました。富裕な家庭に育ちましたが、病弱だったそ
うです。窓越しに見える公園の中にある池が、宝島のお話を考えさせたといいます。
深層心理学研究の一環としても価値が高いとされる、"ジーキル博士とハイド氏"の作家でもあります。自分の住む、エ
ディンバラの街で起きた事件を参考にして、だれもが持つ二重人格の面を浮かび上がらせました。晩年は、南太平洋
の島で送りました。この人は学校には行かず家庭教師によって成長した人です。

湖水地方は高級別荘地的な所ですが、その地のソールスリーに住み、ピーターラビットなど子供向けの絵本を書いた
のが、ベアトリックス・ポッター(1867〜1934)です。この人も学校には行かず、家庭教師により成長しました。
義務教育は、学問のすそ野を広げましたし、子ども達に子供らしい成長の機会を与えてくれましたが、配慮の行き届い
た個の特性にまで及ぶ教育は、難しいことを語っているように 思います。


179. 橋の上や側は商売に最適だった


河を挟んで両岸の人が行ったり来たり出来る便利な道、それが橋です。

中世の時代は、橋の上には、建物がたくさん建っていました。ヨーロッパに行くと、今でもいくつかそんな風景が残って
いて、利に聡い商売人が、商いをしていたのを感じることができます。

イタリアのフィレンツェのアルノ河にかかるベッキオ橋や、ベッキオ橋に触発されて出来たという英国のバースのエボン
河にかかるパルトニー橋は、その好例です。
一方、パリでは開明君主のアンリ4世は、セーヌ河に新しい橋を架けるにあたって、橋の上に建物をつくるのを初めて
禁止しました。そうして出来たのが、400年前のすっきりとした眺めの良い、新橋(ポン・ヌフ)です。今は、この新橋が
パリ市内では、一番古い橋となりました。
イランのイスファハンの河にかかる橋の、橋桁の袂には喫茶店があり、水パイプを吸ったり、恋人が語らったりと、今で
も昔通り、ゆったりと時が流れているのを感じました。2月のころ、日が沈み辺りが暗くなる頃でしたが、橋の上、そして
土手のあたりなど大勢の人で賑わっていました。

日本では、橋の素材は木でした。石のような堅牢な建築はありませんでした。橋の上に常設の商売用の建物は、つくり
ませんでした。しかし、東京の両国にある東京江戸博物館に入ると、隅田川にかかる両国橋の袂やその付近の賑わい
を再現して見せています。


180. 3人の女神の賭から始まったヨーロッパ


ホメロスの書いた"イリアド"の物語は、ヨーロッパとアジアの接点であり、地中海と黒海の海を利用しての交易ルートの
要にあたり、経済繁栄していたトロイの都市国家のプリンス、パリスをめぐり、ギリシャの3人の女神(アテネ、ヘラ、アフ
ロディテ)がそれぞれ、これはというプレゼントを用意して、誰がパリスの心を掴むかという賭から始まります。

アテネは知性を、ヘラは富を、そしてアフロディテは愛(美女)を用意します。若者パリスは、愛を選びます。当時、絶世
の美女と詠われた人は、すでにスパルタの王メネラウスの妻となっていたヘレンでした。ヘレンは遠くトロイへと連れ去
られてしまいます。ヘレンを連れ戻す為にギリシャ諸都市国家の連合軍が組織されます。メネラウスの兄であり、ミケネ
の王であったアガムメノンがリーダーとなり、アキレス(ギリシャ世界最高の戦士)を含む遠征隊で、10年もの長い間闘
いました。最後は、奇想天外な戦略で、木馬の中にギリシャ兵士が隠れ、潜み街の中に引き入れられ、夜半に打って
出て勝利して、膠着状態の戦争は終わります。
英雄アキレスにはお告げがあり、この戦争に参加しなければ長生きして、幸せな生活が保障されますが、名は後世に
残らない。戦争に行けば、若くして死ぬ運命にあるが、名は残るというものでした。英雄アキレスは、パリスの兄であるト
ロイ軍の英雄ヘクターと刃を交え勝利します。しかし、パリスの放った矢が、唯一の弱点であるアキレス鍵を射て死にま
す。イリアドの話しは、ヘクターの葬式で終わります。

この話しには、人生訓がいろいろ込められています。
 若者は美女に弱い
 勇者は長命、安楽よりは名誉を重んじる
 女達(アテネ、ヘラ、アフロディテ)の意地と所有欲の張り合い
 義理(戦争に参加せざるを得ない状況)と人情(父子、兄弟の愛、務め)
 トロイの木馬(うまい話しに乗ってしまう弱さ)の悲劇

実話か寓話かは別にして、3千年も前のギリシャ世界とオリエント世界の軍事、経済、文化を比較すれば、レベルの低
いギリシャ側が何も失うものがない、恐れないチャレンジする立場であったことが見えてきます。
トロイの陥落の際には、息子として父への務めを果たすべく、アエネアスは父を救って脱出して、やがてローマにたどり
着き、ローマ建国神話がへと繋がりました。あるいは、トロイ戦役の英雄ブルータスも英国建国神話に登場することに
なりました。


181. 鍛冶屋は人望が高かった!


青銅器時代(金属を溶かして合金をつくる)の到来と共に、鍛冶屋は村や街にとり、大切な職業人となったことでしょう。

生活用品、農業用の道具、あるいは戦争用の武器類は彼等が一手に担いました。鉄器時代に入ると、ますますその
需要は増したことでしょう。高品質で、実用性が高い品物をつくる人達は、信頼と尊敬を勝ち得ました。

鍛冶屋は、英語ではスミスといい、スミスの前にブラック、シルバー、ゴールドと付けば、材料の希少性、付加価値が高
くなり、専門家していったことがわかります。産業革命時代でも、蒸気機関車の部品などは鍛冶屋の手作業でつくられ
ました。

スコットランドとイングランドの境に、グレトナ・グリーンの村があります。
両国はかって法が違っており、結婚できる年齢がスコットランドでは16歳から、イングランドでは18歳でした。その為、
イングランドから多くの若者が、スコットランドに入った所にあるグレトナの村にやってきました。この村の鍛冶屋は、人
望、信頼を集め、結婚の仲介をしました。今でも伝統にならって、結婚式を取り行っており、世界中からここで式をあげ
るためにやってくるほどです。トイレ休憩をかねて、この村に立ち寄ると昔ながらの小さな小屋で式をあげる様子を、感
じることができます。ここで販売されているショートブレッド(クッキー)の入った正方形の缶の蓋には、当時の服装で、鍛
冶屋が若者カップルを結び、祝福している風景が描かれています。旅の思い出に相応しい土産になります。

村を出て少し行くと、ラストハウス・イン・スコットランドと書かれた家の先には、ウェルカム・トゥウ・イングランドの看板
が、道路脇に立っています。
近くにはここからは見えませんが、1900年近く前に築かれたハドリアヌスの長城が残っていて、両国の境を今に伝え
ています。


182. 帰国便がキャンセルになって過ごしたカルカッタでの3日間


労働争議のことをインダストリアル・ディスピュートといいます。

英国航空傘下の組合が、ストライキを30年近く前にしました。私たちはすでにインド国内の2週間の日程を終え、次の
日は日本へ帰るべく、英国統治時代に建てた重厚なグランドホテルで、床に就いて寝ていました。朝方近く、ドアの下
からメモが差し入れられ、ロンドンから飛行機が飛んで来ないことが書いてありました。替わりの飛行機もなく、ただ英
国航空機を待つだけでした。ホテル側は、延泊や食事の支払いを誰がするのか、私に(添乗員)迫りましたが、のらりく
らりとした返事をして過ごしました。
お客様はほとんどが、第一線を退いた方々で、急いで日本に帰る必要はないと言われ、むしろ延泊を喜ばれました。
そして、カルカッタでの予定外のプログラムが始まりました。

みなさんで、3時間以上も続くインドの娯楽映画を見たり、動物園で白トラ、植物園、グランドバザールでは、紅茶をご
馳走になりながら、商人の繰り出す反物の生地を値切ったりして、楽しい3日間となりました。
お国柄もあり、日本への連絡もテレックス(英文)や何時つながるか分からない電話に頼る時代でした。テレックスは、
出来るだけ文章や単語を切りつめて、経費を浮かすかが腕の見せ所的な競争意識がありました。電話もライトニング
コール(稲妻?)を頼めば、30分も待たないで、つないでくれました。だだ料金は、2倍かかります。つながった電話も
声がエコーしたり、ザーザーという雨のような擬音が流れたりしたものです。

あるベテランの旅人は、予定外のハプニング発生の時こそ、新しい出会いがあり、真の旅があるといわれました。


183. 一流ホテルのあかし


ロケーション、従業員のサービスやマナー、インテリア、家具調度品、バスルームや洗面所のスペース、レストランの落
ち着いた雰囲気や料理の味、くつろぎを与えてくれる庭や建物の風格などさまざまな要素が、浮かんできます。

しかし、私が一番感動を覚えるのは、生花がロビーや各階のエレベーター近くの空間に、ふんだんに生けられているホ
テルです。
そして、この生け花は5日ぐらいごとに取り替えられるそうです。


184. ベナレス(古都)でサリーを 着てモデルになった日本女性


プロの画家の多く集まった、スケッチツアーの方々をインド・ネパールへ30年余り前、案内したことがあります。
勿論、何人かの人は、全く関係のない観光客でした。日程には、ガンジス河の中流にあるシバ神(破壊神であり舞踊の
神)ゆかりの聖なる街、ベナレスで、サリー美人を写生するとなっていました。しかし、この歴史ある街で人前で、しかも
外国人のモデルになるような人はいないとベナレスに到着後ベナレスに住む人から言われました。
窮余の策で、グループの一員で若い日本女性に、サリーを着て1時間ぐらいホテルの庭でモデルになってくれるかと尋
ねた所、サリーは一度着てみたかったのでいいという返事をもらい、その場は、しのげました。そして翌日、プロのモデ
ル(売春婦?)に来てもらい、ホテルの部屋の中で、写生してもらいました。

ネパールのポカラでは、ホテルにサリーが制服の女子大生達が訪ねてくれ、楽しく歓談をしました。
夕食後は、サロンに席を移して、のんびりと夜が更けるまで、語らったものでした。帰国後は、何度か集い旅行談に華
を咲かせた、リズムの時代でした。


 185. 地中海に浮かぶ美しい山コルシカ


5月までスキーが楽しめる島に、フランスの英雄ナポレオンは生まれました。
南フランスのニースにはコルシカ広場があり、その前が旧港です。この港からコルシカ島へフェリーが出ます。この旧
港の風景を好んで描いたのが、画家三岸節子です。

南コルシカの人達は、ナポレオン・ハット(帽子)を含むナポレオングッズを観光客に売って、生計を立てていますが、決
してナポレオンを島出身のヒーローとは、思っていないようです。独立心の強いコルシカ人にとっては、ナポレオンは故
郷を離れ遠くパリへと去った一人の離郷者のようです。
コルシカは島ではなく、山と言ったのが作家モーパッサンです。一度は、コルシカ山へ行ってみたいものです。すぐそば
には、サルディニア島があります。サルディニアに行ったときにも、ガイドからコルシカの人々の屈折した歴史の話を聞
きました。



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