希望

166. グラッツェミーレの言葉の裏


イタリアでは、"ありがとう"というほどの表現を、"グラッツェミーレ"といいます。

グラッツェはありがとう。そしてミーレは数字の千です。
従い、千もありがとう、たくさん、たくさんありがとう、と言っていることになります。言葉で人を楽しくさせる、気持ちよくさ
せる知恵が働いているのではないでしょうか?

しかも具体性のある千という数字を聞くとき、心のどこかに明るい千もの光が差し込んでくるような思いを抱かせる言葉
のような気がします。
人の笑いを誘う表現を常に探している、話し好きな人達は人たらしです。


167. ヘラクレス(克己)とバッカス(快楽)


古代ギリシャや古代ローマ時代の人々の生活には、二つの大きな考え方の流れがあったようです。
一つは、頑張って困難に打ち勝とうとする克己、忍耐、禁欲をモットーに生きる人達で、代表格としては英雄ヘラクレス
がいます。12の困難な課題を乗り越えて生きていくヒーローです。
もう一つは、人生を楽しく過ごそうとする考えで、おおらかな性、祭り、酒、劇、踊りなどを発展させました。代表格として
はバッカス(ディオニソス)信仰となります。

港町であったナポリ近郊のポンペイ市民は、おおらかに生を喜び、楽しみながら生きていた人達が多かったようです。
ナポリ国立考古学博物館の中に展示される発掘品には、バッカス関係のものが多くみられます。


168. エボンとは川という意味


てっきりイギリスのバースの街の側を流れているエボン川と、ストラトフォード・アポン・エボンの街を流れているそれと
は、同じ川だと信じていました。
しかし、そうではないと英国人公認ガイドが言うのです。歳を経たベテランの見識ある女性が言うのですから、間違いな
いのでしょう。エボンとはただ単に川という意味だと教えてくれました。
少しショックでしたが、しかしシェークスピアの街を流れているエボンも、温泉地ローマ遺跡バースの街を流れているエ
ボンも、共に人や物や情報を運ぶ大切な水運の主役であったことに違いはありません。

スペインにもグワダラで始まる川がたくさんあります。意味は川だと聞いています。


169. 英国の英語は大和ことば


漢字を並べた音読みの文章や話し言葉よりも、やさしい平仮名であるいは漢字を訓読みする伝統の大和ことばの方
が、聞いていて分かりやすいし、耳に心地良く響きます。
同様に、英国の英語と米国の英語では、歴史の長さも違いますし、新しいものにどんどんチャレンジして大きくなってき
た、米国の生き方を背景としている言葉にはおのずから違いが生じるように思います。

英国では、父と子をファーザー、サンと呼ぶそうです。米国では、シニァー、ジュニァーと固く表現します。
英国では、自動車道はモーターウェー、入り口はウェーイン、出口はウェーアウト、地下道はサブウェーなどといい、理
解し易い長い歳月の中で磨かれた、無駄を省いた気取らない優しさを感じます。


170. スーリスとミネルバを合体させたバース神殿


英国最大の温泉地バースは、暖かい水が湧きだし泉となっていて、先住民族ドブリは聖なる所として、地母神スーリス
を祀っていました。
そして、やってきた地中海からのお風呂大好き人間である古代ローマ人は、学問、戦さ、知恵の女神であるミネルバ
(古代ギリシャでは、アテナイ)の信仰の地として、ここを選び友好の民ドブリの人達を巻き込んで、合体神殿を造りまし
た。英国津々浦々から、この霊験あらたかなる地への参拝が盛んになりました。。
本来、水に入りあるいは湯に入り、体を清潔に保つことは神に近づくことでもあり、病いや痛い所まで直るのであれば、
それに越したことはありません。

現地の公認ガイドによれば、地下三千米までしみ込んだ水がマグマに温められ、地上に湯となって湧きだしているそう
です。
ミレニアム(西暦2千年)企画の一つとして、新しい温泉センターをつくっています。
気楽に現代人も、古代人や18,19世紀の貴族、ブルジョア階級の人と同様、楽しめるように近くなるそうです。



 171. レスポンス(応答する)とレスポンシビリティ(責任)は同義語


パリの地下鉄は14ラインあり、乗り換え自由で、均一料金ですので、どこへ行くにも市内であれば便利です。乗り換え
の表示は、コレスポンダンスとフランス語で書かれていて、その表示に出ている終点駅を見て、道を進めば希望のプラ
ットフォームに出るようになっています。コとは、互いにという意味です。
英語では、コレスポンデンスは文通という意味です。両国語とも互いに応答し合い、反応し合うという、人として大切なコ
ミュニケーションの基本を示しています。
人に話かけられた時には、応答することがエチケットであり、それは責任を持って行うのがルールです。
このように語って、小、中学生に海外に行った際の、基本マナーを説いた、先生がおられました。



 172. ラクダの糞を防染にしていたアーメダバードの染織


浮世絵の制作と同様に、木版をいくつか使って異なったデザインを彫り、それぞれの色を付けて布地の上に押すと、美
しいインドらしい模様が出来ます。
長く続く白地の布に、数多くの模様を描く為に、2,3人の職人が一斉に木版を重ねながら押していきます。ほとんどの
色は、基本デザインの枠の中に収まっていますが、時には枠に色がかかっていたり、はみ出していたりします。ブロック
プリント染色といいます。

日本人にとっては色がはみ出すことは許されないそうで、不良品として処分してしまうのでが、このあたりにも几帳面す
ぎる性格が表れているようです。機械ならいざ知らず、手作業で行うインドの風土の中でつくられる染織の品々は、不
良品と思われるものも含めて、優として評価すべきだと言われたのが、日本染織界の大御所でした。その先生は、イン
ド人と同様に、小さなカンカラに水を入れて野原に行き、大便をして、左手で尻に水をかけながらお尻を拭いた後、気
持が晴れ晴れしたと言われた方でした。
土地土地には、それぞれ似合ったリズムがあり、価値があるはずで、日本から来た者は謙虚になるのが、正しいと思
われていたようです。

インドの西部にグジャラート州があり、都は染織の街として有名なアーメダバードです。乾燥した土地柄で、ラクダが荷
物の運搬によく使われています。このラクダの糞を染めてはならない所に塗ると、防染されて、染まった所との鮮やか
な違いが出ます。
市内には、有名なカリコ博物館があり、この地方の伝統の染織産業の歴史が分かります。郊外には、縦横かすりで有
名なパトラ織りの村があります。手染めした糸を、伝統の機織り機で職人が、ゆっくりと時間をかけて織っていました。


173. マリア・テレジアのつくった外交学院


ウィーンの街中に伝統ある外交官養成学校があります。
日本からも外務省や大企業の若手のホープが、学んでいると聞いています。以前、ここを訪れ1時間学院長との話し
合いの場にいたことがあります。

歴史の中では、1700年代後半のハプスブルグ家は、マリア・テレジアに代表され、音楽と芸術の都としてヨーロッパを
魅了し、政治的には結婚により勢力を伸ばし、平和な時代という印象があります。実際には、戦争も行っていて、息の
抜けない、駆け引きを常にやっていた時代でした。
ほとんど一人で話しまくった、40歳前後のハンサムな長身のオーストリア紳士である学院長は、'外交とは口を使って
行う戦争です'と言いきりました。そして、オーストリアの歴史の中で最も優秀な外交官は、メッテルニヒだったと思うと言
いました。
ナポレオン失脚後のヨーロッパのまとめ役として、1848年の革命で退くまで30年もの長きに亘り、国益の為に尽くし
ました。
華やかな舞踏の裏では、決死の外交が繰り広げられていたことでしょう。


174. 南フランスとイタリアは同じ文化圏


フランス中部高地あたりから流れで出るロワール河の水は、西へと流れナントの街から大西洋へと注ぎ出します。
ロワール河の南は、オック語圏で、ラテン語が強く残り、地中海性気候に浴した地域です。
中世の時代、フィレンツェの人、ダンテが赤茶けた岩盤の露出したプロバンス地方のボー・デゥ・プロバンスへと旅を
し、神曲に登場する煉獄地獄の場面の構想を得たといいます。ダンテの話したトスカーナ語は、きっと南フランスでも理
解されたことでしょう。
また第2のキリストと称された、中部イタリアのアッシシ出身の聖人フランチェスコのお母さんは、フランスのリヨンの人
でした。フランス人を母に持つ聖人は、実名ではなくニックネーム'フランチェスコ'(フランス野郎)と呼ばれました。
ユネスコの世界遺産である、南イタリアの街アルベロベッロのコーン型の石造りの屋根とそっくりの建物が、南フランス
にもあります。

コルシカ島出身のナポレオンは、たまたま生まれる数年前に島が、フランスに帰属することで、フランス人として成長し
ました。
今はフランスになっているニースの街は、イタリアに属していたこともあり、19世紀後半イタリア王国誕生の為に汗を流
した、赤シャツ隊の隊長、ガリバルディ将軍はニース出身です。一時は、フランス大統領にという声もあった、知性派俳
優であり、シャンソン歌手であったイブモンタンは、聞くところによると、第二次大戦後、アメリカで夢を掴もうと故郷イタ
リアを後にして、船で向かう途中立ち寄ったマルセーユで下船してしまい、その後フランスを代表する人になりました。


175. ラベンダーは昔から愛され続けた植物


古代ローマ人は、浴槽にラベンダーのオイルを入れて、香りを楽しみました。

学術上の正式名称は、ラバンドゥラといい、ラテン語のラバレ(洗うという意味)が語源です。2千年前から、薬として使
われていたそうですし、中世の時代は、'四人の泥棒の酢'と呼ばれ、ペスト(黒死病)への混合薬の成分にもなりまし
た。ペストにかかって亡くなった人の墓を掘り起こし、金目なものを盗んだ泥棒が、ラベンダーをベースにした溶液で洗
うと、感染を免れたエピソードが残っています。

英国の女王エリザベス一世は、食卓に薬味としてラベンダーを使い、フランスのシャルル六世は、ラベンダー入りのクッ
ションを愛用し、ビクトリア女王はラベンダー入りの水で、手を洗いました。16世紀の植物学者は、風邪や頭痛に効
き、さらに手足のしびれ、ノイローゼまで直す効用があると述べています。
今でも、産婦人科病院によっては分娩室で、鎮静用として使ったり、出産後の数日間、部屋にラベンダーを置くことで、
不快を鎮める効果があるとして、用いられています。
ビスケットやケーキ、アイスクリームにも、フレーバーとして使われますし、部屋の中にも虫避けとして置かれ、広くセン
ス(感覚)への奉仕者として栽培されています。



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