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希望

196. 櫛の歯ほどに平等なイスラムの教え


アラビア語で書かれたイスラムの教典(コーラン)は、他の国語には訳し難い、独特のニュアンスがあるそうです。

例えば、櫛の歯ほどに人は、平等につくられたという表現は、日本語としてはそれほどのインパクトはないように思いま
す。
恐らく中東の砂漠とオアシスの風土に身を置き、一人櫛を使い髪を梳く女性を想像すると、多少思いが違って感じま
す。人前では、必ず被りものを使い、髪を隠すのが習わしの国です。
アラーの神は、女性に謙虚であれと言います。
美しい髪を歯の揃った櫛で撫で、それを布で隠して人前に出るのは、きっと誇りに満たされていることでしょう。


197. 鉄道駅だったオルセー美術館


鉄道駅をリノベーションして19世紀後半から20世紀初頭までの作品を展示する美術館として、再生した知恵は見事と
いう他ありません。

ヨーロツパでは、17世紀以降科学、合理主義の流れが強まり、18世紀にはインライトメント(啓蒙主義)へと発展して
いき、これに触発されてアメリカ独立宣言(1776)やフランス革命(1889)が起こりました。同時並行して、産業革命
が始まりました。
鉄鉱石と石炭(コークス)を主材料に始まった新しい産業は、その他の産業や分野にも影響を及ぼしました。やがて線
路の上には、蒸気機関車が走り、鉄道駅がつくられました。
オルセー美術館は、1900年に出来た鉄道駅で、ロワール河そばにある歴史ある街オルレアン間を走りました。鉄と
ガラスと石を使ってできあがったオルセー駅は、時代の先端を行く建造物でした。
しかし、やがて使われなくなり長い間、廃品同様に打ち捨てられていたこの建物が、19世紀後半以降活躍した、芸術
家達の作品を展示する美術館に生まれ変わったのです。
19世紀に入りますと、工場でつくられたチューブに入った絵の具や筆、ものをありのままに写すカメラができました。芸
術家は思想、社会、物の変化に強く影響を受けます。いやむしろ変化の兆しを読んで、一歩先を観る人達です。
伝統的な絵画は、アトリエで弟子を使い、パトロンの依頼に応じて神話、宗教、歴史などをテーマにとった絵を描きまし
た。アカデミー派の絵です。
それに対抗して、現場に出向き、キャンバスを立てて、工場でつくられたチューブ入りの絵の具や筆を使い、刻々と変
化する日の光や水を主役にした風景や、葬式、農民の姿、眠る自画像、女性の性器の克明な描写などといった反アカ
デミーな流れが生まれました。
そして、1848年に初めてナポレオン3世という理解者を得て、アカデミー派以外に反アカデミー派の芸術が世に認知さ
れました。この対比(アカデミー派 対 反アカデミー派)をオルセー美術館では、正面を入ると、かってプラットホームだ
った一階の広い空間を隔てて右側のギャラリーに、アングルやヌミエールなどのアカデミー派の作品を置き、左側のギ
ャラリーには反アカデミー派(コロー、ミレー、マネ、クールベなど)の作品を配しています。そして左側の2階から正面に
かけて、反アカデミー派の流れをくむ印象派、立体派、野獣派の作品が並べられています。
印象派の誕生は1874年だそうですが、その2年前に描かれた小作品シスレー、ピサロ、モネの風景画が、ひとつの
額の中に収まって掛けてあります。酷似しているのが印象に残ります。彼ら画家達のエピソードを思いながら作品を観
るのもいいかも知れません。
マネーは、貧乏でした。マネーの作品を尊敬する、モネは金銭の援助をしていました。
ギュスターブ・モローは印象派時代の人ですが、アカデミー派のギャラリーに置かれていて、インド的な神話に根ざした
作品を描きました。ドゥガが、友人としてモローの葬式に出たのを思ってみるのも楽しいものです。

この美術館の魅力は、作品の配置の妙以外にも、多々あります。
カメラや映画の誕生の秘密を教えてくれる部屋、オペラ座付近の家並みを足下(ガラスの床越し)に見たり、オペラ座
内部の模型、そして大きな時計塔近くの休憩所から望むセーヌ河や対岸の風景、豪華な正面入り口2階にあるレストラ
ンなどです。
半日ぶらぶらと訪れて見ると、建物が、彫刻が、絵が19世紀の時代を生き抜いた人達が語りかけてくるようです。20世
紀始めの鉄道駅跡が20世紀の末に、イタリアの女性デザイナーの手で21世紀への居場所を与えられた喜びを語っ
ているように感じます。


 198. 幼い少女の心を傷つけた一言


バース(英国最大の温泉保養地)の街の小高い所にロイヤル・クレセントという美しいカーブを描いた建造物がありま
す。

18世紀後半を代表する建築家、ジョン・ウッズ(息子の方)の作品です。建物の前は、牛や羊が草を食べる野原だった
そうですが、野原の一角を19世紀に入り、公園にしました。この公園のオープニングにやってきたのが、少女だった後
のビクトリア女王でした。内股気味に歩く少女ビクトリアを見て、群衆の誰かがそのことを言ったのかも知れません。そ
の一言に傷ついたのか(?)二度とバースの地には来ませんでした。リゾート地で海に面したブリストルへは、列車で出
掛けられましたが、途中駅にあたるバースの駅では、挨拶にでた大勢の人達にも顔を見せず、そっけなかったようで
す。

ビクトリア女王の在位期間は長く、1837年から1901年に及んでいます。
英国の産業革命期と重なっており、世界へと雄飛した黄金時代と讃えられています。鉄道が、1830年から1860年に
かけて英国中に敷設され、1838年には早くも郵便物を鉄道で運びました。そして、1840年には、ペニーポストと言わ
れた1ペニーで、英国中何処へでも郵便を届けるサービスが始まります。同じ年1840年に、蒸気船による大西洋横断
定期航路が開かれました。1846年には、電報も始まりました。そして、1851年にロンドンのハイドパークで行われた
最初となる世界万国博覧会は、英国支配下の世界中の物産が集まり、大勢の人が連日押し掛け、大盛況でした。そ
の収益金で、ケンシントン近くに各種の博物館や音楽堂など素晴らしい建物が造られました。
明治になり初代の郵政大臣、前島密が英国の郵便制度を取り入れたことにより、我が国のポストは、英国同様赤いポ
ストとなりました。
ヨーロッパ諸国では、ポストは黄色が多く、たまに青色も見かけます。



 199. イスラムの五行六信とは


モスリム(イスラム教を信じる人達)は、5つの行為と6つの信仰を大切にしています。

5つの行いとは、
  1に、信仰告白(シャハーダ)です。
  アラーの神が絶対唯一神であり、アラーが最後に地上に送ったメッセンジャー(預言     者)がマホメット
で、最も偉大な方であると云う内容の詩をアラビア語 で朗誦します。
  2に、一日に五回お祈り(サラート)します。
  信仰告白の詩を、日の出前、正午、日が一番長くなる夕方(3時頃)、日が沈 んで陰が     消える頃、そし
て寝る前に行います。
  3に、一年に一ヶ月断食(サウム)します。
  日が昇り沈むまでの間は、水を含む一切の食物を取りません。
  4に、喜捨(ザカート)です。
  富める人、ゆとりのある人に貧しい人や病める人への寄付を勧めます。
  信仰を同じくする人達への絆(兄弟愛)を強くするのに、役立っています。
  5に、聖地巡礼(ハッジ)です。
  一生に一度は聖地(メッカやメディナなどマホメットにゆかりの地)を訪れることを勧め      ていますが、強
制ではありません。

次に六つの信仰とは
  1に、アラーの神のみを信じること
  2に、天使あるいは霊者(み使い)を信じること
  3に、預言者を信じること
  その中には、聖書に登場するアダム、ノア、アブラハム、モーゼ、イエスが入        り、マホメットが
最後に加わります。
  4に、いくつかの書物を信じること
  旧約聖書の中のモーセ五書、ダビデ詩歌、イエスの福音書、そしてコーラン
  5に、最後の審判を信じること
  裁きの日がいづれやってきて、ふるいにかけられる。
  6に、天命を信じる
  すべては決まっており、神の御手の内にある

ユダヤ教、イエスキリスト教と重なる部分を多く含む教えといえましょう。


 200. 一石は波紋となり広がり世界を変える


インドの大地で無抵抗運動に撤しきり、大英帝国から独立を勝ち取ったマハタマ・ガンディの投じた一石は、世界を変
えることになりました。

ガンディに触発され、南部アメリカでの黒人差別に対して、立ち上がったマーチン・ルーサー・キング牧師の公民権運動
は、アメリカ社会を根底から揺るがすこととなり、、今では差別も目立って減りました。ワシントンにあるリンカーン・メモ
リアル(記念堂)への石段を登ると、足下の石碑の中に"私には、夢がある"で始まる演説を1963年にこの場所でおこ
なったことが、示されています。

そして、南ア連邦のネルソン・マンデラ前大統領の存在です。長い間、牢獄に入れられていましたが、釈放され、期待
の高まる中、積年の白人に対する恨みを復讐という手段に訴えることをせず、平和に和解を勝ち得た才能は、並外れ
たものでした。
また、ソ連のゴルバチョフ大統領が軍事に頼らないで、民主主義(ペロストロイカ)と情報公開(グラスノスチ)のモットー
を掲げ、政治の檜舞台に登場し、血を流さないで東ヨーロッパの人々に自身の行く道の選択を任せたのは、卓見であ
り素晴らしい政治家であると思っています。


201. 観光客にビラを配る馬上の3人の若者


6月半ばのフランスは連日晴天が続き、久しぶりに訪れたロワール河のそばにあるシャンボール城は、家族連れで賑
わっていました。

東京の山手線の内側に相当する広さの森と庭の中に、ロワール河最大のシャンボール城があります。フランス初期ル
ネッサンス様式のエレガントな風貌は、今も人々を魅了しています。
中世の乗馬服に身を包んだ20歳前後の男一人、女2人の若者が馬に乗り、城紹介のパンフレットを、庭を散策する人
達に手渡しています。
背筋をピンと伸ばし、馬と一体となった姿は、本当に美しくほっとため息が出るほどです。
旅も背筋を伸ばし、周りをそれとなく見渡し、注意を払うとそれまで見えなかったものが見えてきますし、全体の風景を
感じれます。そして、なによりも金ちゃっきりが、隙を見せない人には近寄ってきません。
せめて海外旅行中は、目線を高く背筋を伸ばし、落ち着いて行動したいものです。


 202. 国際列車内での詐欺のテクニック


タイのバンコックからマレーシアの国境の先まで、列車で旅をしました。

バンコックの駅はかなり古いものらしく、第二次大戦前に出来たように感じました。構内の簡易食堂で食事を終え、寝
台車に乗りました。
出発してしばらくすると、車掌が翌朝の朝食の注文を聞きに来ます。妻と私は申し込みましたが、他の人達はほとんど
頼みません。すでに用意して乗っているか、駅弁を買うようです。
妻と私の席が離れているため、白人の男性に迷惑料は払うから替わってもらえないかと、話ししたところ、厳しく'ノー'と
返事が返ってきました。知らない人の頼みを聞き入れるような優しい人は、旅をしてはいけない。と後日たしなめられま
したが〜〜〜。その時の私は、もう少し言葉があってもいいのではと思ったものです。
さて朝となり妻の席へ顔を出すと、見知らぬ30歳前後の女性と、けんめいに身振り、手振りでコミュニケーションしてい
ます。助け船が来たということで、私が通訳に回りました。
この女性の話は、自分はシンガポール人であり、好きになったタイ人の男性を追いかけて、タイへと行ったが、結局タイ
人の家族とうまくいかず、シンガポールへ帰る為に列車に乗っている。お腹には、彼の子を宿している。さらにタイで
は、滞在ビザを更新しないで居座っていたので、タイの国境検問で捕まるかも知れない。などと物騒な内容でした。

やがて、タイとマレーシアの国境駅に到着、全員プラットホームに降り、タイ側の検問所に並びました。そして、目の前
でこのシンガポールの女性が、寂しそうな眼を私たちに向けながら、別室の方へ連れ去られました。列の後ろの方から
声があり、日本人のバックパッカー風の若者でしたが、恐らく6万円ぐらいのバーツ(タイのお金)を支払わなければ、ダ
メだろうとささやきました。私たちはタイの検問の次にすぐ横にあるマレーシアの入国検査を終了して、プラットホームに
戻り、そばにあった両替所でマレーシアのお金に換えていますと、不思議なことにあのシンガポール女性が、車中に既
に座っていて、私たちに何か語りかけている様です。そして、すぐにプラットホームに降りてきて、6万円ほどの金がなけ
れば、このままタイに留まらなければならない。そこで私に何とか助けてもらえまいか?金を貸してくれといいます。心
の中で私は既に列を作ってタイ出国手続きを待っているとき、ささやかれた日本語の6万円が必要になろうという言葉
に、同意していたように思います。同情もありました。出発のベルが鳴る中、急いで金を渡してやり、別れました。

1週間後、シンガポール空港の日本航空カウンター前で、もしかしたらの期待もあって、現れるかも知れないこの女性
を待っていました。マレーシアに住む日本人に云わせると、典型的な詐欺の手法だそうで、旅行案内書の中に、その通
りのだましの例が載っているそうです。
それにしても3千円も使って列車に乗り、あてのないカモを探すのも大変なことだろうと多少今も同情をしている自分を
見いだします。


 203. 思いがけないご馳走はニューヨークと台北で


マンハッタン島の南にチャイナタウンがあります。

昼時、ぶらっと入ったレストランで、頼みもしないご馳走が出てきました。周りの人達も普段と違って華やいで見えて、何
か違っています。それは、旧正月の祝いの最中だったので、店の主人の計らいでした。店内は、祝い言葉が書き込ま
れた赤いビラが壁に貼ってあったり、天井から吊されていました。

台北に行ったとき、取引先の台湾人の経営する旅行会社の年に一度の社長主催の、従業員慰労夕食会に招かれまし
た。
一卓には10人ぐらいづつ座り、20卓はあったと思います。料理は一品ごとに、ドラを叩いて紹介され、テーブルに出さ
れます。テーブルでは、会社の悪口や、社長のケチ振りなど凄まじい会話が、飛び交っています。そんな中、社長自ら
お酌して回ってきます。すると、みんな笑顔をつくり、社長を讃え、感謝する合唱に変わりました。
本音と建前は何処にでもあるのですね。


204. 日本人は塵(ちり)?


"あヽ、野麦峠"の原作者は、山本茂美さんです。

敗戦後の疲弊した中で、長野県の農業青年に夢や希望を与える書をかかれた人です。
1970年代の末、インド仏蹟巡りの旅に参加されました。3週間近いものでしたが、インドの印象を旅の終わりに近づい
た頃、聞いたことがあります。
答えて言われたのは、インドは何十年か遅れて、日本の物質礼拝主義を追っかけている。ブッダを生んだ風土であり、
日本が見失った精神の拠り所をこの地に求めてきたが、既に消えていたようだ。と。
中国にも招かれて行って来られた後だったので、その印象については、中国人は砂である。歴史の中で、一度としてま
とまりを見せたこともなく、一族一党だけを信じて生きてきた人達だと思う。
さらに日本人については、手の平を広げて息を軽く吹きかけ、チリだと言われました。
バブルの最中の頃のお話であり、先生の日本を憂う気持ちがこもっていました。


205. "百聞一見”そして”温故知新"こそ旅の魅力


アメリカの未来学者、アルビン・トフラーは権力は三つの足に支えられている。
軍事力(暴力)、経済力(金)、そして情報力が、その足であると述べています。

そして21世紀に最も大切な役割を担うのが、インホメーション・テクノロジー(情報)となるであろうと予測しました。

15世紀の半ばに、南ドイツのマインツの地でグーテンベルグが、活版印刷機をつくって以来、一部に独占されてきたラ
テン語聖書が、各国語に訳されて安く手に入るようになったことで、聖書の本当の中身を多くの人が知ることで、宗教
改革運動が盛んになり近代が始まりました。
1980年にアメリカのジョージア州アトランタで、24時間ニュースを報道するテレビ局CNNが始まりました。ベルリンの
壁が若者により、ハンマーでたたき壊される場面や、湾岸戦争の有様がリアルタイムでテレビに映し出されました。そし
て今では、インターネットや携帯電話で一人一人が欲しい情報を手にする時代が来ています。

しかし、こうして手にする情報がどれほどの価値を持ち、判断、決定への尺度となりうるかは、情報の真偽性を含めて
問題を抱えています。やはり正しい判断をするためには、時間が必要ですし、バランスのとれた情報収集と思考判断能
力が大切です。
旅は、人を自由にします。
既成概念をはぎ取り、裸の眼で見る姿勢(百聞一見)と、私達にとって未知の地で生きる人達にも日本と違った生き方
にも理由があり、それを認める心のゆとりも生まれてきます。
情報が豊かにある今ほど、逆に真に役立つ知恵(温故知新)を見つけるのが、大切に思います。

 

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