希望

156. 私にとっての梅棹忠夫さん


京都大学で教鞭をとられ退官後も多方面で活躍される、人類歴史学の碩学です。

梅棹さんは、なぜユーラシア大陸の東(日本)と西(西ヨーロッパ)に近代文明が華開いたのかの問いに2つの要因を云
われました。
一つは、適度にお湿り(雨量)があること。熱帯地方のように降りすぎてもダメだし、また降らなさすぎても乾燥して砂漠
化してしまう。日本は、年間1800ミリの雨が降ります。
西ヨーロッパも日本の1/3から1/2程度の雨が降ります。
もう一つは、偉大なる先進文明の火照り(ほてり)に位置していたこと。日本にとって先進文明国は、中華の国、中国で
す。中国との間には狭くない海(シナ海や日本海)があり、ほぼ安心して西の文明を自由に取捨選択しながら、その栄
養を取ることが出来ました。
西ヨーロッパにとっては、地中海文明が考えられます。古代ギリシャ・ローマそれ以前の文化文明(ミノア、ミケネ、キク
ラデス、エジプトや中近東)そしてキリスト教を受け入れることで成長しました。特にアルプスの北に住んだゲルマンの人
達は、ローマ人の残した遺産やキリスト教の受け入れにより文明の光を見た思いだったでしょう。

燃える火(文明)に近づきすぎると、焼き尽くされてしまい存在を失いますし、遠すぎると知らないで終わってしまいます。
つまり火照りにいることが、成長に大切だということを述べられました。
梅棹さんは文明の生態史観を語った人でもあります。文明は生まれ、そして死んでいくそうです。
日本の近代文明(江戸期ぐらいから始まる)は、これからどこへ?


157. 私にとっての犬飼道子さん


道子さんは多くの方が承知の通り、岡山県の生んだ宰相犬飼毅の孫に当たる人です。

"話せばわかる"と云われたそうですが、問答無用ということで青年将校達の凶弾に倒れた、1930年代初め頃の5・1
5事件の首相がおじいさんです。
彼女のアメリカ留学を述懐した"お嬢さん放浪記"は、涙が流れてしかたがありませんでした。1950年代のアメリカの
自身に満ちた、明るい思いやりのある人達を描いていたと思います。
そして道子さんは、長くヨーロッパにも住まれました。
ヨーロッパアルプスを境に北と南に分けて、ヨーロッパ人を論じました。このアルプスは5つの国(フランス、イタリア、ス
イス、ドイツ、オーストリア)にまたがり、平均身長は2千〜2千5百米ほどあります。大まかに云って気候、風土による
違いを述べていたと思います。
南は、地中海性気候で、民族はラテン・アラブ系、宗教はローマンカトリック教、食物は豊かで新鮮、飲み物はワイン、
男女の仲は良好、何よりも太陽がさんさんと降り注ぎ、人のリズムもおおらかで、のんびりしていて、歴史が古い。
一方北は、大陸性気候で、民族はゲルマン、宗教はプロテスタントキリスト教、食物は乏しくまずい。飲み物はビールや
蒸留酒で、男女の仲は厳しい。11月から3〜4月は太陽があまり顔を出さず、墨を流したような暗い縛れる冬が続く。
しかし、街は綺麗でゴミが落ちていず、時間も正確で当てにできる。
すこし荒削りの評価に見えますが、大筋で納得出来るものです。

また道子さんは、ヨーロッパ人は4つの共通する糸が、縦糸となり横糸となって織り上げたタペストリとも云います。つま
り古代ギリシャ文明、古代ローマ文明、キリスト教文明そしてゲルマン人の生き方がミックスした中にヨーロッパ人は生
まれました。
すばらしいお話だと思います。
ただ私は、もう一つイスラム文明の影響を加えても良いのではないかと思います。
近代ヨーロッパ文明(15世紀以降)は、イスラムの刺激の上につくられた面が強いと感じます。
ヨーロッパ人の精神は、しばれる冬に鍛えられつくられたとも言われました。ヨーロッパを本当に知りたいのであれば、
冬にこそ行くべきだとも言いました。
道子さん、ご推奨の冬のヨーロッパを訪れる人も増えてきました。


158. 最後の晩餐の食卓には子羊料理があったはず


イスラエルの民の故郷へ帰りたい願いは、ファラオの許可が得られない為、神は10の災いをエジプトに課しました。そ
の10番目の災いが子羊の血を、玄関の戸柱に塗っていない家の初子は滅ぼし、塗ってあった家はそのまま過ぎ越す
というものでした。
こうしてエジプト人の初子は死に、イスラエル人の初子は助かりました。その結果ファラオは、しぶしぶ故郷への帰還を
許し、モーセに率いられてイスラエルの民はエジプトをあとにしました。およそ3500年もの昔のことです。

以来、ニサン(ユダヤ暦の最初の月)の14日には子羊をほふって祝い、イスラエル人はこの故事を大切に守ってきま
した。イエスも聖地エルサレムに弟子達と共に、ニサンの過ぎ越しを祝う為にやってきました。一日は日没後に始まり、
翌日の日没に終わると考えていました。
イエスと弟子達は日没後、有名なパンとワインで晩餐を行い、翌日の日没にはイエスはゴルゴダの丘の上で杭にかけ
られて亡くなりました。
イエス自身が子羊となり生け贄となることで、人類の祖であるアダムとイブの犯した罪が過ぎ越され、再び神の元へ帰
る機会が生まれたということでしょう。
ニサンの16日には収穫した大麦の初穂が神殿に捧げられる習慣がありました。
イエスの復活は、初穂としての蘇りを意味することも含んでいるようです。
ニサンの15日から21日に亘って無酵母のパン祭りも行っていました。
イエスはイスラエルの民としての習慣に従って生き、そして死んだのでした。


 159. 武器庫は軍事力の象徴


フランス革命(1789年)は、階級制を廃止し宗教を否定することになり、その後の世界の流れを変えました。
事の始まりは、数人の思想犯が捕らえられている警備の薄いバスチューユの牢獄を、パリ市民が襲ったことでした。そ
して、牢獄を襲う前に武器弾薬庫を陥れています。
どこの都市でも非常時に備えて、街の中心に武器庫がありました。

オーストリアの山間に美しいグラーツの街があります。
16,17世紀は、オスマン・トルコ軍が何度となくオーストリアを脅かしました。そこで、このグラーツの街に巨大な軍備
を整えることにしました。全国から鍛冶屋を集め、武器を製造し、重厚な建物の中に蓄えました。しかし、結局トルコ軍
はこの街を襲うことはありませんでした。
そして現在、当時のままに武器庫が武器博物館として公開されています。


160. マホメットの最初の信者は妻ハディージャ


聖書のヒーロー、アブラハムとその下女ハガルとの間に生まれた子が、イシマエルです。
しかし、やがて年老いた正妻サラとの間に次男のイサクが生まれました。結果として、ハガルとイシマエルは砂漠へと
追い出され、やっとのことでメッカのザムザムの泉までたどり着き、九死に一生を得ます。このイシマエルの直系の子
孫にあたるのが、マホメットです。名門クライシュ族に属していますが、両親との縁は薄く親戚に育てられます。

寡婦で、商売を手広くしていたハディージャは年上でしたが、思慮がちで、物静かな青年マホメットと結婚しました。
隊商を組んでメディナやエルサレムへマホメットは旅をしました。そんな折り、洞窟の中で神アラーの言葉を聞きます。
各部族がそれぞれの部族神を拝んでいましたが、唯一絶対神アラーのみに忠誠を求める教えは、身内のクライシュ族
にあっても反対が多くありました。そんな状況下で、妻のハディージャがマホメットを信じて勇気づけ、最初の信仰者に
なりました。
イスラム教では、女性としては、アイーシャ(マホメットの妻の一人)やファティマ(マホメットの娘)などが人気が高いよう
です。


161. 雪の舞う中、わざわざ車を停めて手助けを申し出た黒人の方々


ニューヨークのマンハッタン島のセントラルパークよりも北にあたる地区は、ハーレムと呼ばれます。
その一角に名門私立大学コロンビアがあります。著名なアジア研究所がそこにありますが主任研究員を訪れ、話しをし
ていただいたことがあります。
70歳前後の白人の日本語が堪能な方で、1時間あまり国際情勢に関するお話をされました。話しが終わり、雑談の中
で真顔で日本の文部省は、未だ意図して鎖国を勧めているのではないかと思うと言われました。
要は、私達日本人のほとんどが英語の会話も出来ないことに対する疑問があったようです。

徳川時代の中期、大阪の町人学者であった富永仲基は、日本人は閉鎖癖があると言いましたが、今に至るまでこの
癖は続いているのでしょうか?

また別の機会にアメリカ人から生きていくには、本音と建前は当然アメリカにもありますと言われました。自分だけで勝
手に思いこみ、外国の方との会話を止め、決めつけるのはやはり早計だと思っています。
ただこんな体験もしました。冬のある日、雪の舞うマンハッタン島のハイウェイで車を停めて車酔いした人を車外で介抱
していた10分の間に、わざわざ車を停めて何か手伝えることはないかと、聞いてくれたのは3台ありました。いずれの
方も黒人でした。黒人は日本人に親近感を持っていると聞いていましたので、先入観が当たったかなと思ったりしまし
た。


 162. 異国の占星術者がいち早くイエスを知る


東方から3人の占星術者(マギ)が流れ星に導かれてベツレヘムの地に、生まれたばかりのイエスを訪ねます。
ユダヤ人の王となる方の生誕を祝い、金と乳香そしてもつ薬をプレゼントします。乳香も、もつ薬も香木から取れるもの
で聖なる儀式の際、香や油の成分として使ったものです。異国の多神教のマギがいち早く神の子の誕生を知るという
聖書のエピソードも興味をひきます。
イタリアでは3賢人のイエスへの礼拝をエピファニアをいい、1月6日を聖なる日として祝います。子ども達にとってはプ
レゼントが頂ける日ですので、待ち遠しいことでしょう。12月に入ると教会の中や教会前広場では土を焼いて作った人
形で、ベツレヘムでの3賢人の礼拝を中心にした誕生風景を再現して飾ります。
夜も明るく照明してあり、家族で楽しく神の子の誕生を祝います。立派なエピファニア飾り人形ですと、ナポリ郊外のカ
ゼルタの離宮のなかに、王妃や王子、王女が自ら縫って着せた豪華なものがあります。大きな部屋いっぱいに飾られ
ています。

ヨーロッパでは、翌日の1月7日からバーゲンセールが一斉に始まります。
ミラノの街には、イエスを訪ねた占星術者の墓を納めた教会があるそうですし、オーストリアやドイツには、3賢者ホテ
ル、レストランまであります。


163. ニコロ(父)、マフィオ(叔父)はマルコよりえらい


ベネチア出身のポーロ一家のカラ・キタイ(キャセイ、現在の中国)への冒険は1260年に始まり、そして1295年に終
わりました。
マルコは1271年(17歳)から父と叔父に加わって、24年旅をしています。

ニコロとマフィオは、コンスタンチノープル(今のイスタンブール)で手広く商売をしていました。この地で儲けた金を宝石
に換え、さらに東の西モンゴルの中心都市サライ(ボルガ河畔)へと旅をして、財産を倍に増やします。しかし戦火の
為、帰国を断念しさらに東へと旅をして、商業都市として栄えていたブハラ(ウズベキスタンにある)に行きます。治安不
安定な中、3年滞在します。その時、フビライ帝へのヨーロッパ人の使節団がブハラを通ったので、同行することにしま
す。
元の皇帝フビライは、東は朝鮮から西はポーランドまで治めていました。一年かけた旅でしたがジンギスカンの孫に当
たるフビライ帝に、ニコロとマフィオは会いました。
フビライ帝は西洋に関する質問をしたあとで、無事にベネチアへ帰れるよう金で出来た印を与え、ローマ法王に宛てた
親書を託しました。親書にはローマ法王が元の国にキリスト教学や7つの学問に精通した数百名の賢者、学者を派遣
してくれるよう書かれていました。

そうして1269年に無事ベネチアに帰り、15歳に成長したマルコに会いました。
時はあたかもクレメンテ4世が亡くなり、3年もの長い法王空位時代でした。新法王の返書にしびれを切らしたマルコを
含む3人は、1271年に東へと旅立ちます。それから24年に亘るカラ・キタイの旅が続けられました。

東方見聞録には数多くのエピソードが綴られています。
当時のヨーロッパ人にとり、耳新しい東方の情報は競って読まれ、発行から25年以内にフランコ・イタリア語、フランス
語、ラテン語、トスカーナ語、ベネチア語、ドイツ語と訳され中世としては稀にみる成功を修めました。
エピソードの中には、ノアの箱船がアララット山にあることや、ユダヤ人の王の誕生を祝う為にベツレヘムにイエスを訪
ねたマギ(賢者)の墓がペルシャにあること、石炭を燃やして毎日、中国人は湯を使うこと、さらに紙幣が流通している
ことも書かれています。
マルコが口述した話しが後日、大航海時代への火付け役となりました。


164. 地中海の春


2月から4月にかけて地中海に面したヨーロッパ世界は、色とりどりの花が咲き美しく色どられます。
桃や梨、リンゴやサクランボ、そしてアーモンドの花が木に咲き、白やピンクに色づきます。オレンジやレモンの実がた
わわになり出します。
イタリアではミモザの花を3月になると、女性にプレゼントします。あるいはエニシダは、ジュネの木とフランスでは呼ば
れ、ジュネの黄色い花のついた小枝を兜にさし、戦に出たジュネの君ヘンリー2世は有名です。プランタジュネト家(エ
ニシダの家という意味)は、英国の王にもなりました。
そして復活祭の頃になると、濃いいピンクの花をつける木、はなずおうが街路を飾ります。この木は俗にユダの木と呼
ばれ、イエスを裏切ったユダがこの木で首をくくったので、その花はユダが流した血の色に似ていると言われます。
地中海の気候は、温暖で人々の心を落ち着かせ和ませてきました。
復活祭が過ぎると、冬篭りを止め、旅行者や友人たちが外へと出始める、忙しい車の音や人の声が高鳴るシーズンが
始まります。


165 ゴムの車輪の誕生から死まで


人類は長い間、車輪のついた乗り物や荷車を使ってきました。
しかしゴムを使った車輪が生まれたのは、1800年代に入ってからです。ゴムに弾力性と耐久性を与える為に、高温で
イオウ処理したタイヤが作られたのは1839年で米国のグッドイヤーによります。さらに空気の入ったゴムタイヤが作ら
れたのは、1888年でスコットランド人ダンロップによります。
車軸からタイヤを取り外して、パンクなどの修理が可能になったのは1891年で、フランス人ミシェランによります。
そして現在では200種に及ぶ原材料を使い、タイヤを作ります。中には13万キロも走れるタイヤが生まれています。
日本で使用済みになった中古のタイヤがアジアへと売られ、さらにタイヤとして使用された後、最後の最後にはゴム草
履となってその寿命を終えることを聞いたのは、パキスタンでした。30年ほど前のことです。



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