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希望

146. ゴリラは近眼


ケニアのガイドでも、そうそうは隣国のルワンダの山林に住むゴリラの生態観察を目的に行くツアーを案内することは
ないそうです。
ましてケニアには種族が40余りあり、言葉、食習慣が異なっているそうです。
400人を越える大人数の日本からのツアーの為、ケニア人ガイドが集い語らう時間があり、私も輪の中に入り聞き耳
を立てていました。共通の言葉は、やはり英語でした。ただガイド同士は、、互いの出自を慎重に確認し合っている様
子でした。

やがて一人のガイドが、ルワンダへゴリラの観察に1週間行った話を始めると、みんな眼が輝き始めました。母ゴリラ
は、子ゴリラを片時も手元から離さないそうです。3日経ち、4日経ちましたが、ガイド氏始め全員初日の服装のまま
で、風呂に入ることもせず、辛抱強く、一定の距離を置いて観ているだけだったそうです。しかし最後に、とうとう母ゴリ
ラが、子ゴリラをガイド氏達によこしたそうです。母ゴリラは、人の匂いを嗅ぐことで、同じ人達が敵意なく毎日通ってくる
のを悟り、信用したのだそうです。じーと聞いていたガイド達は感動すら覚えている様子でした。

ケニアのリズムは、"ポレ、ポレ"です。スワヒリ語ですが、ゆっくり、ゆっくりという意味になります。


147. 自分の出自を明らかにすべし


小雨の降りしきる日曜日の朝、メトロ(地下鉄)に乗りパリのモンパルナス駅へ一人でやってきました。そして、人気のな
い通りに面した建物の下で雨宿りをしていました。

するとアラブ系の色の浅黒い若者二人が、近づいてきました。私は一瞬、緊張してしまい、頭の中が白くなり襲われた
らどうしようと思い始めていました。勇気を出して、こちらから"ジャポーネ"と言いながら自分の鼻を指さしました。
相手は、"ジャポーネ アミーゴ"と言い返してくれました。
アミーゴとは友人です。良かった、助かった、という思いで雨が弱くなるまで三人で会話にならぬ会話をしていました。


148. コインの片面に文化の違いをみる


古代ギリシャやローマの昔から現在のアメリカや英国に至るまで、貨幣(コイン)の片面に人物像を刻む伝統があるよう
です。
時の権力者は明らかに自己顕示欲からかコインを発行していますし、中世の時代には帝国自由都市の権利を貰ったド
イツ語圏の諸都市でもコインを鋳造しています。

我が国では、奈良時代のころ大唐に対抗する必要からか、和銅通宝のコインをつくりますが、その後は中国のコインで
まかない秀吉まではつくりませんでした。

切手なども英国では、エリザベス2世女王が片面を飾っています。我が国では、唾して手紙に貼る切手に天皇を使うこ
とはできません。
"たおやめ"を大切にして生きてきた日本と、"益荒男"を前面に出した大陸の違いを見る思いです。


149. 縄文人に出会う


縄文人はおおらかだったと言います。
縄文人の血を多く残す人にあったことがあります。

オーストリアのウイーンに到着した直後にお客様から、"コアラに会えるのが、楽しみだわ"と言われ、しばし返答に窮し
たことがあります。

インドのボンベイの飛行場周辺は、近辺の州から職を求めてやってくる人達の住む急造のスラム街が広がっていまし
た。街へ向かうバスの車窓越しに、この風景を観られた方の一人が"火山の噴火の影響が、まだ残っているのね。可
哀相に。"と言われました。
イタリアのポンペイの1900年も昔のベスビオ山の噴火を、きっと思い描かれていたのでしょう。


 150. 丘の上、橋の上から3つの国境が見える


1月に訪れた南米のイグアスの滝は、幸いに数日前に降った雨のお陰で滝へと落ちる水量は豊かでした。
滝の上から、あるいは4キロに及ぶ300近い滝を横に見ながら歩いたり、そして高速ボートに乗って滝壺の中に突入し
たりと、十二分に堪能しました。
しかし、10年前に行ったときは乾期だったのでしょう。ちょろちょろと流れ落ちるイグアスの滝を前にして、感極まった
(乾期わまった?)思いでした。
そして、今回の旅行ではイグアスの街の外れにある眺望のいい場所へ行きました。そこはイグアス河とパラナ河が眼
下で合流する所でした。前方にパラグアイとアルゼンチンの山林が広がっていて、両国の国旗がこちらブラジルの国旗
に呼応して翻っていました。
この渓谷に3カ国巡りが出来るゴンドラをつくる計画があるそうです。

バーゼルという街がスイスにあります。
町のそばをライン河が流れていますが、ここはフランスとドイツの国境の街でもあります。
いくつもある橋の上の道路標識は、しきりに3カ国の名称及び国旗の図柄が示されています。日本では味わえないもの
です。

アメリカのジョージア州コロンバスの街に滞在したことがあります。街の横にチャタフーチー河が流れています。河の上
に橋が架かっていて渡ると、隣のアラバマ州に入ります。 時差が1時間生じ、そして消費税が違っていました。勿論、
その橋にはなんの警備もありません。ぶらっと橋を渡って、隣町を散策して1時間後には滞在している街に帰っていま
した。


151. ヨーロッパ最初の修道院はカッシーノ山の上に


中近東ではイエスの時代から求道者が集まって、共同生活をする仕組みがありました。
死海のほとりのクムランの遺跡などの発掘から明らかになっています。

ヨーロッパでは、イタリアのローマとナポリの中間にあたるカッシーノ山に修道士ベネディクト(5世紀)が、最初の修道
会を開きました。その後、西ローマ帝国崩壊(476年)後もヨーロッパ各地に修道会がつくられ、キリスト教の布教そし
て文化布教センターとして発展していきました。農業指導、織物、生活必需品の制作、聖書の写本づくり、学問の学習
など修道院の果たした役割は大です。

第二次世界大戦では、このカッシーノ山(モンテ・カッシーノ)をめぐるドイツ軍と連合軍の攻防は辛酸を極めました。守
るドイツ軍は、山の上の要塞(修道院)に入り、南から攻め上った連合軍の主力は、日系アメリカ人により編成されたハ
ワイ・カルフォルニア出身の二世部隊でした。多くの日系人兵士が死傷しました。今もこの戦いで犠牲になった日系人
の家族の方々がこの地を訪れるそうです。日系一世である親達は、国籍は日本ですから強制収容所に入れられまし
た。その子供である2世の若者達は、志願してヨーロッパ戦線でアメリカへの忠誠心を示すべく勇敢に戦いました。

アメリカの首都ワシントンのモールに面した、アメリカ歴史博物館の二階には3年余りに亘った収容所生活を再現した
コーナーがあります。あるいは、ロスアンゼルスのリトル東京にも立派な同様の博物館があります。
アメリカの恥部を堂々と公開している度量の大きさ、そして日系アメリカ人の努力に心から賛辞を送るものです。


152. 二度あることは三度ある?


インドのニューデリーの中心コンノートプレイスを一人で歩いていました。
すると何処からともなく近寄ってきた若者が、米ドルとインドルピーの両替の話を始めました。歩きながら彼はポケット
からゴムに巻かれたルピー札を取り出し、それを数えます。確かに彼がいう金額が巻かれており、それは百ドルで交換
できる正規の額の倍ほどありました。
心が動き、財布から百ドル札を取り出し、ゴムに巻かれたルピーの束を貰います。彼は足早に去っていきました。はや
る気持ちを抑え、ホテルに帰るやルピーを数えてみると、目に見える外皮は元の通り大きな札でしたが、中身は少額の
紙幣と入れ替わっていました。結局、正規のレートで貰える4割程度のものでした。

ブルガリアのソフィアでグループのしんがりを歩いていました。
やはり若者がやってきて、米ドルとの交換を申します。正規のレートの3倍ほどの提案です。私の眼の前で数え、それ
を受け取った上で、財布から米ドル40を出して渡しました。
今度は間違いなし、儲けた、得をしたという思いがつのります。ガイドのブルガリア人にその話をしますと、貰った紙幣
を見せろと言います。見せると、ブルガリアのレバ紙幣にあらずして、近隣のギリシャのドラクマ紙幣だと言います。
1レバが、数百ドラクマに匹敵しますので私は、大損をしてしまいました。レバといい、ドラクマといい素人には、殆ど見
分けのつかないギリシャ系の文字のお札です。

一度ならず二度までも、さもしい心で自ら招いた災難です。反省は充分したはずですが、隙を見せれば三度目も無きに
しもあらず?


153. サントメ更紗は京阪の娘の憧れ


イエスの弟子の中で最も用心深く、容易には人の話を信じなかった人が、トーマス(トメともいう)です。
復活したイエスを疑い、手や足、脇腹に残っている傷を見て触れるまでは、信じなかったというエピソードが伝わってい
ます。この弟子が遠く南インドまで布教にやってきて、マドラスの地で亡くなったという話があり、実際にマドラスには聖ト
ーマスを祀る教会があり、信者で賑わっています。

マドラスから北へ数時間行った所には、手書きで天然染料で染めた更紗で有名なビジャヤワダの町や、マドラスの南
のほうには金糸、銀糸を使って織り上げるカンチプーラムの錦織は結婚式に花嫁の着るサリー衣装として、インド人に
は高く評価されています。
マドラスを始めインドでは至るところで更紗(木綿の布地に木版に彫られた模様を押す)産業が今でも盛んです。

江戸時代は鎖国中でしたが、オランダ船に乗ってインド更紗は日本にやってきました。サントメという名で呼ばれ、京都
や大坂の女性に大人気でした。
キリスト教布教禁止の最中、そうとは知らずサントメ(聖人トーマス)は衣に変装して、京阪の女性の心を捉えていまし
た。
下り物といわれた時代ですから、京阪で着古されたサントメは江戸へと旅をして、江戸の娘たちにもアピールしたことで
しょう。


154. 3つのホテルはインドの歴史と共に


ムンバイ(ボンベイ)のインターコンチネンタルホテルは、"ゲイト オブ インディア門"のそばに有り、宮殿を思わせる
造りです。ゲイト オブ インディア門は英国の皇太子が20世紀の初めインドへ来られた時に、歓迎するために港のそ
ばにつくられました。
大財閥のタジ氏は、若かったころロンドンへと旅をしましたが、有色でインド人であるがゆえに一流ホテルには泊まれま
せんでした。その時の悔しさを込めて、海のそばの一等地にインターコンチネンタルホテルをつくったといいます。

カルカッタにあるグレートイースタンホテルとグランドホテルは、いづれも交通の繁しい大通りに面して、英国統治時代
につくられた重厚なものです。
早朝、ホテルの厨房で焼いたパンを市民に販売していたのを覚えています。グレートイースタンホテルでは、ショッピン
グ・アーケイドが長く連なっていて、日本から到着したばかりの私達には値引きの交渉が楽しく、店の中へ誘われてよく
行きました。ホテルの外は暑いのですが、一歩中に入ると、ひんやりしてうす暗く、ロビーの天井から大きな扇風機がゆ
ったりと回っていました。
一方グランドホテルは、明るい大きな中庭があり、プールまでついていました。
大通りの騒音や雑踏も全く消え、別世界にいる思いでした。

1812年にイギリスにより博物館としてつくられた建物が近くにあり、仏教遺跡からの出土品を汗をかきながら観たもの
でした。そのころ(1970年代)は、カルカッタの貧民街でマリアテレサが身を粉にして働いていました。私は知りません
でした。
同様の貧民街にあるインドサルボダヤ会(スリランカの僧侶達が中心になって、インドの仏教遺跡を守り仏教を盛んに
しようとする運動)に表敬訪問をすることはありました。


155. 130年ほどの間に2度も生き方を変えた日本


明治維新(1868年)は真に文化革命でした。
それまで続いた長いリズム(徳川250年の文化)を捨て、全く未知の新しい西欧の文明に乗り換えたのですから、江戸
文化を支えた職業は一顧だにされなくなり、失業の憂き目に会いました。
明治天皇自ら模範を示され、洋服を着、靴を履かれ、髪型まで変えられました。年寄りは退き、若者が台頭しました。
江戸期虐げられていた外様藩の者が中央に進出しました。つまり世代交替と政権交替が同時に行われました。呆然自
失となった多くの人達を尻目に、国を憂い先進国の仲間入りをするのを悲願とする猛烈な産業化、軍事化が一心不乱
に始まりました。
日露戦争(1904〜1905年)までは国も国民も、平衡感覚が働いていましたが、その後は自信過剰、保身、私利が幅
を利かせるようになり、太平洋戦争で敗北します。

戦後は焼け野原からの出発でした。
血を流して勝ち取ったのではない、天(アメリカ)からのプレセントである民主主義や農地解放がありました。生活が豊
かになることを目標にひたすら働きました。田舎を離れ、若者は街へ出て働くようになり、学校へ行く目的はいい会社に
入り、金を儲けて楽をするぐらいになりました。

たった130年あまりですが、明治維新そして太平洋戦争の敗北という2度に亘る一大事の結果、この歩みは未知への
挑戦でしたが、失ってはならないものを失った思いもあります。
こんなに目まぐるしく方向転換をした日本に生きる私達は、今こそ腹を据えて生き方を見つめ直す時のように思いま
す。



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