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希望

111. ポパイの力の源、ゆでたほうれん草の缶詰は不味い!


レーガン大統領は、農業人こそ神に最も近い人達といい、讃えました。

アメリカでは、土地は国が所有し、その土地を州に貸し与え、建物や大学運営に必要な経費は全て州の才覚に委ねる
やり方で、半国立大学が全国につくられています。
ユニバーシイ・オブ・――州名で始まる大学は、その形態に属しています。
もともとアメリカが貿易で、ヨーロッパへ輸出出来る最大、最強のものは農産物でしたので、農学部だけは州に委ねず
国が直接運営したいきさつもあります。
穀物類である大麦、小麦、大豆、とうもろこし等は、ミシシッピー河とロッキー山脈の間の大地でつくられています。そし
てカルフォルニアでは、付加価値性の高い米、牛肉、オレンジ、イチゴ、サクランボ等の果物や野菜がつくられます。全
米の50%の生野菜、そして40%を越える果物をカルフォルニア州は生産しています。
ナパバレーでは、葡萄畑が広がり平らな地面で、水はけが良いため品質が一定しています。逆に、フランスの葡萄畑
は、傾斜のある丘陵につくられる為、品質が一定でないハンディがあるそうです。金にまかせて、優秀なワインの専門
家をフランスあたりから引き抜いてきて、品質の向上に当たらせるともいいます。
アラスカ寒流がカルフォルニアの海岸を流れ、内陸はステップ気候の為、灌漑農業により適期適作をしています。潅漑
用の水はシエラ・ネバダ山脈から引いてきます。
アポロ宇宙飛行士が地球で、人間がつくったもので確認出来るのは、万里の長城とカルフォルニアを網羅する人工の
河だと言ったそうです。西経100度を境に東側が非潅漑地で、年間500ミリを越える自然の雨が降りロッキー山脈の
ふもとから中西部にかけての穀倉地帯に当たります。そして西側のカリフォルニアが500ミリ未満の潅漑地農業だとい
います。500ミリを越える自然の雨が降るかどうかに寄るともいえます。
カルフォルニアでは、人口の3%が農業人だといいますが、農業食糧庁のもとダイナミックな農業を展開しています。


 112. 荒物屋がスタンフォード大学に、そして作業服を売ってストラウスが ジー
ンズ屋に


サッター幌馬車隊の一人が偶然に、サクラメント河で砂金を見つけました。1848年のことでした。

翌年には、サクラメント河の河口にあたるサンフランシスコの村へ、何万人もの人が押しかけ、ゴールド・ラッシュが始
まりました。一夜にして500人しかいなかったサンフランシスコの村が、都市へと変貌しました。サクラメントの街へは
サンフランシスコから河を利用して船で、あるいは今は車で2時間北の方角へ走ると行けます。州議事堂のそばにゴー
ルド・ラッシュ時代の街並みが残されていて、観光スポットです。
サクラメント河には水車を付けて走る当時の船が係留されていて、ホテルやレストランとして使われています。こういっ
たクラッシックな船は他には、アメリカ南部のミシシッピー河で僅かに運行されているだけです。カルフォルニア州議事
堂の中も一般に公開されています。議事堂の周囲の広い芝生では、家族連れやスクールバスでやってきた子供達で
賑わっています。オーストリアの第二の都市グラーツからやってきた、アメリカン・ドリームを地でいったアーノルド・シュ
ワルツネッガー州知事のいる所です。

結局、金鉱探しで一山当てた人が金持ちになったのではなく、金鉱堀に狂乱した人達を相手に、商売した地道な連中、
例えば荒物やスコップなどの作業道具、あるいは作業服を売った人達の中から巨万の富を築いたスタンフォードやリー
バイ・ストラウスが輩出しました。歴史の皮肉な一面と言えましょう。

日本に帰って来る前に、ジョン万次郎(中浜万次郎 )青年もスコップを手に持って、金を探しにサクラメントへ行ったエ
ピソードも伝わっています。


113. メッセは教会に集ったのが始まり


日本を始め世界中でメッセ(見本市)が盛んに開かれ、物産が展示されています。

メッセの語源は、マスあるいはミサだそうです。ミサとは神を讃えて集う行為です。中世の時代ヨーロッパでは、教会に
集い、お祈りをすることは村や街に住む人として大切なことでした。集うことを怠った人には罰則が科せられました。続
けて欠席を理由もなくすると、村や街から追い出されることもありました。
教会を中心にして生活が営まれた時代でした。
そんな折、自分の畑で獲れた作物を、あるいは鍛冶屋がつくった鍬を持ち寄り、祈り集会の前後に教会のそばの広場
で取引するようになりました。やがて地元の人以外にも遠くから人が集まるようになり、両替商も現れ大きな市が立つよ
うになりました。こういった素朴な交換の場から発展した先に生まれたのが、メッセとなりました。



114. 80日間世界一周の話は大英帝国の力を示した作り話


19世紀後半は、七つの海を駆け巡り、世界の富の1/3を一人占めした大英帝国の時代と呼ばれます。

1851年にはロンドンで、世界初の万国博覧会が開かれました。ハイドパークで鉄とガラスを素材にしてつくったクリス
タル・パレスの中に、英国の支配する地域から物産が集いました。時代の先端を行く鉄道の駅の建物に、この鉄とガラ
スが好んで用いられ産業革命を象徴する所となりました。
ロンドンのバッキンガム宮殿近くにあるポールモール通りには、紳士の集う社交の場であるクラブハウス(石造りの重
厚な建物)が立ち並び、フロックコートに身を包んだ紳士が一日中パンクチュアルに時を過ごす風景が見られました。
そんな中、果たして80日間で世界一周が出来るかどうかの話しが出ます。無理と見る大勢に抗して一人の紳士が、全
財産を賭してかけに応じます。
まずはドーバー海峡を渡りパリへ行き、南下してマルセイユから地中海を渡ってエジプトに行きます。開通したばかりの
スエズ運河を船に乗り、紅海を通りアラビア海からインドのボンベイに上陸します。そこから列車に乗り、カルカッタに向
かいますが途中で線路が未だひかれていず、象に乗ったり、インドのお姫様を悪党から救い出したりしながら、やっとカ
ルカッタに着きます。
再び蒸気船でマラッカ海峡を通りシンガポール、上海、横浜へ。そして太平洋を横切り、アメリカのサンフランシスコに
行きます。そこから大陸横断鉄道に乗り、東海岸のニューヨークです。
さらに大西洋を渡ってリバプール港に帰ってきますが、残念なことに時はすでに81日目になっています。賭に負けたと
思い、ロンドンに着きますが、なんと東回りで世界一周をしたお陰で、丸一日得をすることを知らされ、目出たし、目出
たしという作り話しでした。

1902年に、日本は英国と日英同盟を結びました。
日露戦争(1904〜1905)では、日本海海戦で見事にバルチック艦隊に勝利します。
遠くバルト海から大西洋、インド洋、黄海、東シナ海へとやってきたバルチック艦隊は、水や石炭、食料補給に立ち寄っ
た港は、多くは英国の支配下にあり断られました。指揮も振るわない中、疲れ切ったロシア艦隊を、乾坤一滴の大勝負
に臨んだ日本海軍の完璧なまでの勝利となりました。



 115. 運河の魅力


古くは3500年もの昔、エジプトの女王ハトシェプーストは砂漠を堀り、紅河へと通じる運河をつくり、南のプント王国と
の交易を盛んにしたといいます。
あるいは秦の始皇帝は、黄河と長江を結ぶ運河をつくり、南北の貿易を盛んにしました。
運河とは人工的につくった水の道です。

ミラノの大聖堂(ドーモ)の建設には多くの大理石が使われましたが、アルプスの山から切り出した大理石の大きな塊を
河に、そして運河へと運び、市内の作業場に持ち込んだ結果、あの壮大なゴチック様式の教会が出来上がりました。
現在のミラノ旧市街の道の多くは、かって運河だった水の道の上につくられているそうです。
大坂や江戸の街も運河が張り巡らされていました。同様にパリやロンドンもそうでした。パリ市の紋章は帆掛け船で、
水上交通で栄えた事が忍ばれます。
スエズ運河は19世紀後半につくられ、ヨーロッパとアジアを一気に近づけました。
パナマ運河もメキシコ湾(大西洋)と太平洋をつなぐことで20世紀の水運を大いに発展させました。
1825年には英国は、エリー湖とオンタリオ湖をつなぐ運河をつくりました。両湖の段差は100米余りあり、ナイアガラ
河が流れています。そして有名なナイアガラ滝の水はエリー湖からナイアガラ河へと50米の段差を流れ落ちます。1万
年の歳月をかけて流れ落ちる水が、10キロ米も周りの岩を削りながら現在の滝がつくられました。夜半から早朝にか
けて流れ落ちる水量の半分を発電に使うそうですが、その発電量は黒部ダムの10倍にもなります。
そして1950年代には、新たに運河が掘られ7つの水門を設け、平均すると14米の段差を調整することで、大型の船
が5大湖と大西洋の間を航行出来るようになりました。

フランスやベルギー、そしてドイツなどを旅しますと、いろいろ形の変わったユニークに工夫された運河や水門、船ごと
乗せる入れ物や機械装置など眼にすることがあります。



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