希望

106. 樽のように密閉した船体をつくり世界へ乗り出したポルトガル人


カラベラ船という3本マストに帆を張ることで、例え前方から風が吹いても、帆の操作でジグザグ漕法で前進が可能にな
りました。

甲板は、おそらく一面に板が張られ船内への出入り口は、開閉式のハッチであったろうと考えられています。ハッチを
閉じれば、荒波が襲おうとも樽のようになるので、沈む心配はありません。
インド洋へと進出した、このカラベラ船は小型のイスラム世界の船を簡単に蹴散らす事が出来ました。当時の最新鋭の
造船技術を駆使して出来た大型カラベラ船に、鉄砲や大砲、火薬に羅針盤などを装備したハード面でのリードに加え、
十字軍運動(11世紀末〜13世紀半ば)の余熱の冷めやらぬイベリア半島から、アフリカ、インド、アジアそしてアメリカ
へと進出したポルトガルやスペインはイスラム世界を越えて異民族の人達にキリスト教を広めようと、真剣に汗を流す
ことで精神面の強い支えもありました。
勿論、現実にはアフリカ、インド、アジア、アメリカから得られる物産に、触手が大いに動きました。1415年のモロッコ
のセウタ要塞陥落から、約百年後の1522年にはマゼラン一行による世界一周がなされました。

強固な意志と軍事的に優位な武器、そしてカラベラ船、その操舵技術の結集した結果でした。



 107. ワシントン特別行政区(アメリカの首都)の中心は十字の形に設計


メリーランド州とバージニア州から土地を譲り受け、計画的につくられた街、それがワシントン特別行政区と呼ばれるア
メリカの連邦政府のある所です。

東の方角にキャピタル・ビルディング(立法府の連邦議会堂)、西の方には南北戦争のきっかけになった奴隷解放宣言
を行った16代大統領リンカーンを祀るリンカーン・メモリアル。北には、ホワイトハウス(大統領官邸)があり、南には、
独立宣言の起草者であり、3代大統領ジェファーソンの記念堂が配されています。そして、東西南北の線の交差する地
点には、初代大統領のワシントン記念塔が立っています。

英国からの独立戦争(18世紀後半)や南北戦争(1861〜1865)に遭遇しながらゆっくりと、この街はつくられました。
首都計画の設計者は、フランス人だったそうです。パリ郊外にあるベルサイユの街は、太陽王と自ら呼んだルイ14世
の宮殿の寝室に、朝の一番の陽の光が射すようにつくられています。あるいは、教会はヨーロッパでは東向き(聖地エ
ルサレムを向いている)につくられていますが、ワシントンの街もそのようにつくられたのではないでしょうか?
東すなわちイエス・キリストの頭に当たる所が、キャピタル・ビルディングになっているのは、連邦議員の担う責任の重
要さを示しているように思います。


108. 世界三大奇襲作戦とは


紀元前200年頃、新興勢力であったローマは、古くから北アフリカのチュニス(チュニジア国の首都)郊外に都を構えて
いた海洋都市国家カルタゴと地中海覇権争いをしていました。
第二回ポエニ戦争と呼ばれますが、カルタゴの勇将ハンニバルはアフリカ象と共にアルプスを越えてイタリアへ侵攻
し、象軍団を戦闘に使いローマ軍を各地で敗りました。

難攻不落の都市と云われた、コンスタンチノープルが1453年にオスマン・トルコに敗れました。黒海と地中海をつなぐ
マルマラ海に面した丘の上につくられた要塞都市コンスタンチヌス帝の都は、長年に亘るトルコ軍の猛攻に耐えまし
た。しかし、要塞の横っ腹に当たる金角湾に軍船が突然に浮かび、予期しない方角からの攻撃を受けて落城となりまし
た。金角湾に軍船を持ち込む作戦は、予想を超えるものでした。陸路で軍船を運び、金角湾に持ち込む作業は大変な
事でした。

そして3番目の名だたる作戦は、日露戦争の際の日本海海戦です。縦一列で突進してくるバルチック艦隊を、彼等の
眼の前で横一列に船を並び変えた日本海軍の作戦は、完璧な勝利をもたらしました。

残念なことには、真珠湾攻撃は宣戦布告30分前に行われた為、奇襲とはなり得ず、卑怯の汚名を被ることになりまし
た。
ワシントンの日本大使館には、宣戦布告の暗文を英文に訳すのに使ったタイプライターが寂しく置かれています。暗号
文が届いたのは日曜日であり、その日の朝は大使館員の葬式があったり、人手不足もありタイプライターに不慣れな
人が打ったのや、内容の重大さに圧倒されたのでしょうか?やっとのことで訳し終え、アメリカ国務省へ届けた時には
既に真珠湾攻撃は始まっていました。


109. ウマイア家の王子アブドラ・ラーマン1世がコルドバ王朝を興す



ウマウア王朝は約百年栄えました。

都はダマスカスにあり、初めてイスラム教の創始者マホメットの血筋ではない人が、カリフになった王朝でした。それ以
前は、マホメットの亡くなった後を継いだ4人のカリフはいづれもマホメットの親戚に当たる人でしたが、3人は暗殺され
ました。正統カリフ時代と呼ばれ、短い期間の統治でした。特に4人目のカリフは、アリという人ですがマホメットの従兄
弟に当たり、またアリの妻はマホメットの娘でファティマという人で、イスラム教徒に大変に愛され、キリスト教における
聖母マリアのような存在になり、今でもファティマの手が城の入り口の上や家々の鴨居の上に描かれ、祝福を与えると
共に敵から守ってくれる意味が込められているようです。そしてこのアリとファティマの間には、2人の息子ハッサンとフ
セインがいましたが、いづれも父アリと同様、殺されてしまいました。この結果、マホメットの血を引く後継者は亡くなりま
すが、ハッサンとフセインの悲劇を重んじ、血統を大切にする宗派であるシーアが生まれました。

イスラム学に長け、人望のある人がカリフになり統治するのが正しいとして生まれたのが、スンニー(正統派)で、その
最初の王朝がウマイアです。しかし、8世紀の半ばには中央アジアから黒い旗を掲げ、馬に乗ったアッバス一族がダマ
スカスを襲い、ウマイア朝を終わらせ、新しくバグダッドにアッバス王朝をひらきました。
辛うじてダマスカスを脱出したアブドラ・ラーマン1世は、単身でアフリカ北海岸を西に旅して、地中海を渡りスペインの
古都コルドバにコルドバ王朝を打ち立てました。勇気と才知に溢れた指導力のある人物だったのでしょう。
コルドバに都した西イスラム王朝(後ウマイア朝)は、13世紀の半ばまで栄えました。この王朝下、イスラム教徒、キリ
スト教徒そしてユダヤ教徒が共に力を合わせて、政治、経済、文化、歴史、医学、哲学など多岐に渡り優れた業績を残
しています。

今は、僅かにグアダラキビル河のほとりに残るメスキータ(回教寺院)を通じて、盛時を偲ぶだけです。東ローマ帝国
(ビザンチン帝国)とも親交が厚く、ガラスのモザイクで飾ったミヒラブの天井壁画は、コンスタンチノープルからやってき
たキリスト教徒の職人たちの匠の業を今に伝えています。


110. 第二次大戦前からセスナ機で籾(もみ)を空中散布したアメリカの農業


日本では農家は、0.5ヘクタールの農地を持つことが条件ですが、アメリカは60エーカー(24ヘクタール)から農家と
呼ぶそうです。1エーカーは0.4ヘクタールに当たります。

第二次大戦前、福島県で高校の校長をしておられたコウダさんは、移住されてカルフォルニアに住むようになり、米作
をサクラメント近くで始めました。太平洋戦争中は収容所に入れられました。後を任されたデービスは、事業を拡大し、
現在では2800ヘクタールの土地に精米所も持ち40名のスタッフで経営しているそうです。これだけの土地を日本の
米作農家が行うとすれば、6000人が必要になるそうです。

カルフォルニアの農業と日本の違いは、アメリカでは人件費を節約して数名で、大型農業機械(トラクター、コンバイン、
セスナ機など)を使い、種まきから除虫、除草、刈り取りに至るまで一手に行っていて、こういった機械の修理、調整、
整備は自分達で行っています。
日本では、5月は五月女が苗床で成長した苗を、本田に移し替える姿がかってありましたが、カルフォルニアではこの
時期、水が平らに張られた日本の何十倍もある一枚水田が連なり、上空から戦前と同様セスナ機がもみを空中散布し
ています。
日本の品種改良された種などへの関心も強く、さらに後継者が育っていて、嫁の来てがない嫁不足はないようです。
サクラメントからサンフランシスコへと帰る高速道路には、3人以上が乗っていればダイアモンド印の路線が優先して使
え渋滞を少しでも緩和し,あわせて燃料も節約しようという意図が見られるなど、合理性に満ちています。



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