旅の魅力は百聞一見そして温故知新



96. ベトナムへの思い  


1990年頃だったと思います。家族でハワイに行き、帰りにホテルからホノルル空港まで運んでくれたタクシーの運転
手が、中年のベトナム人でした。
彼の話によると、1980年頃才女だった奥さんと手を携えて、希望に満ちた自由の国アメリカへとやってきました。フロ
リダに住み、奥さんは大学で教鞭をとる仕事を得ましたが並みの男であるこの人は差別視され、決して楽しいアメリカ
生活ではありませんでした。今は、奥さんも亡くなり、生まれ育った故郷ベトナムへ帰ろうと、西へ旅してきてホノルルで
タクシーの運転手をしていますが、ベトナムでの生活がどんなに苦しかろうと、なつかしい国へ帰る意志を、語っていま
した。

ピート・ラムというロスアンゼルス・タイムス社の初代ハノイ駐在所長が、書いた記事をナショナル・ジオグラフィックの中
に見つけました。
10年に及ぶ泥沼化したベトナム戦争でしたから、さぞアメリカ人に対する感情が悪かろうと危惧しながら、1997年に
ハノイに行ったそうです。ところが、行く先々で歓迎され、恨み、つらみの声は無かったそうです。ベトナムのある詩人
は、この国は過去千年に近い中国との軋轢や百年に近いフランスとの葛藤、第二次大戦では日本との戦いがあった
ので、アメリカへの悪感情はないと言います。

1945年9月2日、抗日戦争でジャングルの中から出てきて日の浅い衰弱した55歳の老戦士、ホーチミンが行った独
立を祝う演説の中で、人は平等につくられており、神によって与えられた、生きる、自由、幸福を追求する権利は誰も
奪うことは出来ないと述べました。
しかし、時のアメリカ大統領トルーマンからは、なんらのサポートもありませんでした。そして、1965年から1975年ま
でのアメリカ戦争(ベトナムではそう呼ぶ)中も、アメリカ政府は憎いがアメリカ人は命令されて闘っているだけなので、
アメリカ人を恨んではいけないと諭したそうです。戦後も一貫して徳の、あるいは愛の教えを貫いているそうです。
とはいえ、1986年の経済自由化への政策の転換までは、ベトナムの人達の生活は本当に大変だったようです。

11世紀にまで遡る歴史あるハノイの街は、旧市街地区は曲がりくねった通りが今も残り、通りの名前も棺桶通り、絹通
り、木綿通り、焼き魚通り、金通りなどと商いの名がそのまま残っているようです。
マンデラという偉大な指導者を得て、アパルトヘイトという黒人を蔑視した白人優先の国から平和に推移した南ア連邦
のように、ホー叔父さんの徳教育のお陰で、日本人だろうがアメリカ人だろうが、あたたかくもてなしてくれ、安心して訪
れる事が出来る国がベトナムのようです。

機会があれば、是非行ってみたいところです。


 97. 人力車はリキシャ、そしてサイクロスに


明治になり車引きが、後部座席に1〜2人乗せて走る2輪の人力車が日本で生まれました。

その後日本の発展と共に、アジアにも同様のものが走るようになりました。
そして自転車の尻に2人乗りの座席をつなげて、トライセクル(3輪車)を考え、ペダルをこぐことで新しい運送手段がつ
くられました。リキシャと呼ばれました。日本名が、そのままアジア世界で使われました。
インドに行きますと、カルカッタなどの大都会でもリキシャが、未だ主要な交通機関として使われています。
バンコックやハノイでは、リキシャの改良車とも云えるサイクロスが盛んに走っています。庶民の足として、近場へ行くの
には安くて便利な乗り物です。


 98. 生姜(ジンジャー)の美味しい国


インドの歴史は、西北にあたるアフガニスタンやパキスタンの国境あたりにあるカイバル峠を下ってきた民族が、入れ
替わり立ち替わり支配したかに見えます。
古くは、インダス河流域にあった古代都市国家文明を破壊したアーリア民族、カニシカ王に代表される中央アジアの騎
馬民族、7〜8世紀から始まるイスラム教勢力の東進、13〜15世紀にかけてのモンゴル族の攻勢、16〜17世紀に
はその末裔がムーガル帝国を築きました。その他、一時的な支配はアフガニスタンやイランなどからありました。

しかし興味深いのは、ほとんどの侵入者たちは時間と共にインド化された現象です。インドの風土が持つ独特の雰囲
気、文化に吸収され、より大きなインドが生まれ続けたました。

英国だけは違いました。200年近くインドは英国に支配されました。
全国に散在するマハラジャ(大土候)を使い、間接支配をしましたので、インドの文化や風土に呑み込まれませんでし
た。むしろ逆にインド人の方が、英国の習慣や文化を必要にせまれれて取り入れた様に見えます。インドには、数知れ
ず言語があります。公用語だけでも15を越えるほどです。しかし、誰もが意志疎通するためには英語が使われていま
す。あるいは紅茶を飲む習慣は、英国以上に浸透しています。
州を越えてトラックが行き交う主要幹線道路沿いのチャイハナ(運転手が休息し、食事や洗濯まで出来る所)で休んで
いると、実にインドらしい体験を思いがけずすることになります。
ミルクと水を半々に入れた鍋をコークスの火で沸騰させます。次に砂糖をたっぷり入れ、最後にジンジャーを加えると、
あまい乳白色のジンジャーの香りの漂う紅茶の出来上がりです。冬の少し冷える頃は、これほど美味しくくつろげる、安
価な飲み物はありません。
今はどうか知りませんが、以前は素焼きの小さな茶碗に入れて飲みました。飲み終えると、この茶碗は地面に投げて
壊し、元の土に返してやりました。
ある時などは、煎茶の茶碗として日本で使えるし、紅茶の液が器の表面にしみ出てつくる模様が楽しいと言われ、新聞
紙に大切に包んで持ち帰る人もいました。

日本でも生姜をちょっと足すだけで豆腐や鮪の刺身など美味しく頂ける知恵があります。


99. 新札ユーロのデザインの評価は?


ユーロの新札には窓、門、橋、などが描かれていて、数多くの応募作品の中から、オーストリアのロバート・カリーナの
デザインが選ばれました。
ヨーロッパ市民が、違いを越えて互いに固く結びつくように願い、古代から今に至るまでの建造物を参考にして、デザイ
ナーの夢を付加して生まれました。
窓、門、橋はいづれも人が出会う所にあります。出会いにより新しい何かが生まれ、理解が深まるのを願っているよう
です。

一般公募により決められたそうですが、寄せられた作品の中には、海の藻、イモリ、抽象画もあったそうです。さて、選
ばれたデザインは、ギリシャ・ローマ以来のマテイアル(物)重視のマッチョマン的な攻撃的な生き方を肯定しようとする
意志を、含んでいるように思えて一抹の不安を感じるという意見もあります。

例えば、生物の細胞とか、炭酸ガスを吸って酸素を出す木とか花や雑草、老人と子供が手をつなぐデザインであれば、
平和な未来を目指すメッセイジを伝えられ、新生ヨーロッパのシンボルになったのではないかと思っています。


100. '香炉峰の雪やいかに'と洒落てみた人達


楽しかったヨーロッパ旅行の旅を終えて成田空港の近くまで飛んで帰りますと、突然数時間前から降り出した雪の為、
滑走路が閉鎖中とのことで、そのまま札幌郊外の千歳空港に飛びました。
ターミナルビルでくつろぐことも許されず、機内でただ待つことになりました。
機内では、食料、飲料は底をつき、外部からの補給も一切ありません。札幌ではもうじき恒例の雪祭りも開かれます。
そうなると、非常食を持っている人や、機内で出された食事のパン、ジャム、サラダ、ジュースなどセロファン紙で覆いし
てある物を大切に取っていた人や、あるいはウィスキー、ワインなどを土産に買って帰る人の所に集まり、酒宴が始ま
ります。
そして清少納言の枕の草子の一節の簾(すだれ)ならぬ、飛行機の小さな窓のブラインダーをかき上げて、遠方の雪を
被った山を見渡して'香炉峰の雪やいかに'と洒落て爆笑しました。
普通であればケチという言葉で片づけられる人達も、皆さんから有り難がられた6時間でした。
成田空港に再び飛んで戻ったのは、真夜中を回った2時頃でした。雲助タクシーは、都心まで5万円を要求し、バスも
列車も6時近くにならないとありません。
そこで再び、空港内で旅の仲間が集い酒宴をした次第です。
海外での楽しい思いでにも増して、雪に閉ざされやっと釈放されて帰るのを待つ一時の思い出が、楽しく長く尾を引い
て行きました。


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