旅の魅力は百聞一見そして温故知新


91. トーマス・ジェファーソンの夢


米国独立宣言書の起草者であり、第3代大統領でもあるジェファーソンは、自作農に根ざした民主主義国家をつくると
いう夢がありました。

ナポレオンは、英国やロシア侵略を果たすために1500万ドルの現金が必要でした。そして、1803年にルイジアナ・
パーチャス協定がフランスとアメリカの間に成立します。結果として、アメリカの国土は一気に倍になりました。1エーカ
ー(0.6ヘクタール)あたり3セントという歴史上もっとも大きな、そして安い不動産取引でした。ミシシッピー河とロッキ
ー山脈の間の広大な中西部の大平原です。
ジェファーソンは、中西部への農民の移住が終わるまでには、1000年かかると見ました。実際には100年もかかりま
せんでした。1869年には、大陸横断鉄道が完成しましたし、1890年には、国土庁長官が未開発地(フロンティアー)
はもう無いといいました。

1804年5月から863日掛けてルイスとクラーク両大尉による、ミズーリ河の上流への探検が使命を帯びて行われまし
た。西に向かって流れる河と東に向かって流れる河をつなぐ、可能な道を探すのが使命でした。結果として、それは存
在しませんでした。34人の構成員には、子供や犬もおり、1万3千キロメートルを旅し、地図をつくり、克明な報告書を
作成しました。コヨーテやグリズリー熊、プレアリー犬などの事が、初めて書かれましたし、ノースダコタ州のマンダン砦
での越冬、先住民からの親切、ミズーリ河上流の大滝での困難、ロッキー山脈のロロ峠での難渋もありました。食糧難
から連れてきた馬を食べたりしますが、コロンビア河に泳ぐシャケには、食指が動いていません。そして、ついに太平洋
に達しました。
同時代のフンボルトやクック船長、あるいはダーウィンの発見ほどではないにしても、ジェファーソン大統領の理想の実
現の為、果たした重要な旅でした。
2004年は、丁度探検から200年目を向かえます。米国では、記念コインを発行したり、探検ルートの一部を体験する
企画があります。
コロンブスの新大陸発見500年記念(1992年)よりも盛大に祝されることになります。


92. 国境警備にあたった古代ローマ兵の生活


コントバーニアム(10人余りからなる最小の構成ユニット)は、セントエリオン(ユニットの長)によって束ねられていまし
た。セントエリオンが60集結したものが、レジオン(部隊)で4500人から7000人規模でした。
ローマ兵(市民)と補助部隊(外人部隊)でつくられていました。
大切な事は、兵に充分な食糧を与えることでした。生肉、果物、野菜、麦パン、油などは欠かさないように、配慮されま
した。
後世の英雄ナポレオンも兵への食糧支給の大切さを述べています。

そして、25年勤務すれば退役して、金か土地を与えられました。外人兵も退役後は、その子ども達も含めて市民権を
与えられました。これはアメリカ軍が、ベトナム戦争で永住権者に兵役後、市民権や教育を受ける資格を与えたのに似
ています。

このようにして紀元後3世紀において、500キロに及ぶ中央ヨーロッパにつくられたライムスと呼ばれる壁は守られまし
た。
ライン河とドナウ河に沿って、今も所々に物見櫓や柵が残っています。


 93. シベリア経由で飛ぶ日本とヨーロッパの距離は地球の1/4円周


紀元前276年にアテネで生まれたエラトステネスは、棒を使って地球の寸法(円周)を計った人です。
数学者で天体学者であったこの人は、エジプトのアレキサンドリアに住みました。
そして紀元前200年頃、地中海に面したアレキサンドリアとナイル河のほとりリビアとの国境近くにある町アスワンの夏
の初日の正中時(正午)の陰の長さを棒で同時に計りました。
計測の結果、地球がほぼ丸いことを知っていました
彼の予測した地球の円周は、20世紀末になり北極点から南極点までを、空から観測して計った長さとほぼ一致してい
ます。
地球は、4万キロメートルの円周を持つ球体です。
東京とヨーロッパとの距離はおよそ1万キロメートルほどです。。
いつも1万メートルの上空から飛行機の窓越しに見える、シベリアの大平原に感動しています。




 94. トーレ(ものみの塔)は、うだつが上がること?


昔、日本では商家の連なる表通りで、隣近所の屋根の接触する部分に火事よけの防火壁を立てました。この防火壁の
ことをうだつと呼び、その壁が高く頑丈につくられている商家ほど、商売が盛んであろうという意味であの商家は、うだ
つが上がったと云ったそうです。

イタリアの古い町を歩きますと、かって安全確保の為につくった石造りの頑丈な上へ上へと伸びる塔を見かけます。街
の外から攻められることもあれば、街に住む人同士による争いも結構ありました。自衛手段として、立てこもれるよう
に、あるいは仲間同士が塔越しに行き来出来るようになっていた街もあります。財力のある家であって初めてこのよう
な塔が出来たことでしょう。

今もサン・ジミニアーノ、ボローニャ、あるいはあのフィレンツェの街にはトーレが残っています。


95. 鹿に用心、マントヒヒに用心


そこでは、主役は野生の生き物、そして大自然です。
人は、その営みの中に観客として参加するだけです。カナダのバンフ国立公園は、1885年に出来た世界で3番目に
古いものです。人口1万人に満たない山間の集落、それがバンフの街です。どんどん公園近くの街の開発が進む中、
バンフの街は以前と変わらず、静かにゆっくりと動いています。鹿が街中に出現したり、川沿いで集団で憩っているの
を見るのもそんなに珍しくはありません。
国立公園法に、人間が守る3つのきまりがあります。
ゴミを捨てない。捨てるゴミはゴミ箱に。
動物に餌を与えない。
公園内のものは、持ち出さない。小さな石や植物に至るまで。
規則を破った場合には、2千ドル(約14万円)以下の罰金が科せられる。

ゴミ箱も頑丈につくられており、力の強い熊でも開けられない工夫がしてあります。また、公園内の高速道路にも動物
が安全に行き来出来るように、生き物用の地下道や橋が出来ています。公園レンジャーが、自然の保護育成の重要な
役目をしています。
今では、周辺の3つの国立公園と3つの州立公園を合わせて、カネディアン・ロッキー、マウンティン・パークスという一
大保護地区となっています。

一方、アフリカのケニアに行きますと、キリマンジェロの雄大な山が真っ正面に大きく広がる、アンボセリ自然保護区に
到着時に宿泊ロッジでの注意の中で、寝泊りする'コテッジの出入り口のドアは開けっ放しにしないこと'と云われました。
なんと、マントヒヒが部屋に入り、手荷物などを持ち去ることがあるそうです。




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