旅の魅力は百聞一見そして温故知新



51. 地元で人気のなかったイエスと、人気の上がったフランチ  ェスコ


モーゼがシナイ山で、十戒と共にカナンの地を神から約束された時に、カナンの替わりにカナダの地をお願いしていて
くれていたら………。とジョークを言って笑わせたのが、エルサレムの英語ガイドでした。
育った故郷ナザレでは、イエスはパッとしていないようです。むしろ離れたガリラヤ湖付近で活動しました。このガリラヤ
湖でとれるエラの張った骨太のペテロという魚が、名物となっています。この湖で漁師をしていたのがペテロで、イエス
の弟子となりました。雷のような大きな声をしていました。
ペテロの後継者であるローマ法王が、イタリアのアッシジで生まれ、清貧をモットーに活躍したフランチェスコ(1182〜
1226)の始めた修道会を、公認しました。
第2のイエスと呼ばれた聖フランチェスコは、故郷アッシジでみんなの前で(親や友人)全てを捨てて、修道の道を選び
ました。
そして、地元は勿論のこと遠くまで、彼の名声は轟きました。
亡くなると、ほどなくして当世の一流の芸術家が集い、棺を納めるバシリカ・サンフランシスコ教会を建て、内部をフレス
コ画で飾りました。やがて、この芸術家達の始めた流れは、ルネッサンスとなって華開きました。


 52. 赤と黒の社会


長男は家督を継ぎ、次男は聖職者に、そして三男は騎士に、というのが中世ヨーロッパの貴族階級の出世パターンで
した。
女性も似たようなもので、結婚によって家の名をあげて縄張りを広げるのに貢献するか、献身して修道女になったよう
です。従い、王候、貴族とカトリックの高位聖職者との関係は深く強く結びついていました。
ローマ法王と神聖ローマ帝国皇帝の綱引き(縄張り争い)という面から見ると、ヨーロッパの中世の歴史は、分かりやす
いと思います。。

一方平民、労働者階級は、権力争いとは関係なく、学問も武力も必要としないで生きてきました。200年も前に書かれ
た本に、スタンダールの名作"赤と黒"があります。
名も金もコネもない平民の若者が世に出るには、兵士(赤の軍服)か僧侶(黒い僧服)以外に手だてはない、と言うほど
のタイトルです。
現在のヨーロッパを、階級社会の伝統の点から見てみるのも一興かと思います


 53. 似たもの同士


古からオスの孔雀の見事な羽は、古代ギリシャ、ローマ、インドなどで賞賛されました。
特に羽を大きく広げて、音を擦り出しながら反り返る様は、メスの関心を引きつけます。

ケニアやタンザニアで遊牧生活を送るマサイ族の踊りを、キリマンジェロ山の麓にある自然保護区内、宿泊施設で見ま
した。十人余りの若者が舞台に登場し、数回輪になって踊ります。そのうち、一人がうずくまって呻き声を上げます。そ
の後一人一人がその場で高くジャンプしました。それが終わると静かに舞台を去りました。
あまりにも淡泊な踊りで唐突なことでしたので、支配人に説明をしてもらいました。
マサイ族の若者は、大人の仲間入りの儀式としてライオンを射止めなければなりません。うずくまった若者は射止めら
れたライオンを演じています。ライオンに勝利した村の若者達は、自分こそ一番勇気のある勇者であることを、村娘達
にアピールする為に高くジャンプして見せたのだそうです。
人といい、孔雀といい似た行為をするものですね。


 54. インド亜大陸の夜は踊りの鑑賞


ヒマラヤ連峰ほ世界一で、平均身長は六千米もあります。
カトマンズ空港から一時間ほどの遊覧飛行があり、東西に連なる七、八千米級の名峰をつぶさに見ることも出来ます。
カトマンズの夜は、名家(ラナ家)の広間で伝統舞踊を鑑賞します。クジャクの舞いは、人が縫いぐるみの中に入ってク
ジャクの動きそっくりに行動します。そして地方には未だいるという祈祷師(シャーマン)の厄払いの実演は、迫力満点
です。

南インドの都マドラスで見たバラタナティアムの踊りも、忘れられないものです。
舞台から50米は離れた席だったのですが、神を称えて舞い、インド太鼓(タブラー)やインドギター(シタール)の楽器、
それに語り部歌手の言い回しに合わせて手、足、腰、眼を魅力いっぱいに作動させ、表情をつくり感情を表現します。
ヒンズー教の三大神は、ブラフマ(創造)、ビシュヌー(育成、維持)、シバ(破壊)といいます。
シバ神は、ダイナミックで庶民に最も人気があり、踊りの神様でもあります。
踊り子の眼は、遠く離れて舞台を見ている私達を見つめているようで、自然に引き込まれて行くのです。


 55. 剥製文化のヨーロッパ


剥製業者の大会がアメリカであり、数人の業界の人を案内して大会に行ったことがあります。
大変に盛況で、地を這い、空を飛び、あるいは水の中を泳ぐ生き物を剥製にする技術が紹介されていました。剥製制
作料金も、日本とは比較にならないほど安く、また依頼件数も比ではありません。
剥製は、外皮をそのまま残し、中身は全く別のもので満たし、ありし日の雄姿を残しておくものです。
ヨーロッパでは王城や貴族の館、あるいは一流レストランに剥製や鹿などの角が、飾られているのを、よく眼にします。
王侯、貴族、騎士階級の人々は森に集団で狩猟に出掛け、収穫した獲物を食料として食べましたし、あるいは狩りをす
ることが、戦争の訓練にもなったと聞いています。
今でも冬になるとヨーロッパでは、ハンティングが盛んですし、レストランでは野生のウサギや鹿などを調理して、その
日の特別メニューを出しています。

日本では、7世紀に天皇が仏教徒として率先して殺生を禁じて以来、明治に至るまでは、血生臭い四足の生き物は、
基本的には口にしませんでした。

さて、ヨーロッパの歴史ある街で特に旧市街地区(かって壁で囲まれていた所)は、昔ながらの街風景を残そうと家の
外壁(外皮)はそのままにして、しかし家の中は21世紀に生活するのに適した生活空間をつくっています。
これは正に換骨奪胎、剥製文化そのもののように私には思えます


 56. 一番の幸せ(至福)とは?


恐縮するのですが、高校の学期末試験が終わって、観た映画"泥だらけの純情"の中で、良家のお嬢さんを演じる吉永
小百合と不良青年役の浜田光男の会話で、幸せとは‥ちゃぶ台代わりにみかん箱、そして茶碗、箸が一組だけあれ
ば と言っていました。
おそらく若さが言わせた愛する者の、謙虚な表現でしょう。
歳を経て、歯の緩んだ鰐のようになりつつある今の私は、時により場所により幸せ感は、違ってきました。
今夜の私は、CDから流れ出るモーツアルトの音楽を聞きながら、スペインで安く買ったリザーブワインを飲みつつ、パ
ルミジャーノのチーズや鶏肉の中に梅干しの入った揚げ物をおかずとして過ごす一時を至福に感じています。


 57. プラタナスこそノーベル平和賞


自動車の激しく行き交う大通りで、白と鼠色のぶちになった太い幹をすくーと立ち上げ、排気ガスを吸い込み、かわりに
酸素を放出し続けるプラタナスの街路樹は、どれほど人を助けていることでしょう。
カスタニア(マロニエの木)や菩提樹、ニレの木などもヨーロッパで多く大道りに植えられています。
いずれの樹も夏はたわわに葉を茂らせて、強い陽の光をさえぎり、涼を与えてくれます。そして冬は、葉は落ちて弱い
陽の光が直接、私達に降り注ぐのを助けてくれます。
マロニエなどは冬は丸見えの樹と改名してやりたくなるほど愛を感じます。
また晩秋の頃、落ち葉を踏みしめながら公園や道を歩くのも楽しいし、市の清掃員が落ち葉を集めて処理しているのを
眺めるのも風情があります。


 58. 7月と8月の名前に割って入った著名なローマ人


将軍としてあるいはガリア戦記を書いた作家として優れたジュリアス・シーザーは、ジュリアスの月として7月に、そして
シーザーの養子でローマ帝国初代皇帝となったアウグストゥスは、オウガストの8月になりました。
本来7月になるはずだったセプティマス(7番目という意味)は9月に、そして8月になるはずだったオクトは、10月にず
れ込みました。海の奇形児タコ(英語ではオクトパス)は、確かに八つの足からなるという意味です。
ローマのスーパーヒーロー達(シーザーやアウグストゥス)が夏の最もいい席を占めたという印象です。
地中海世界へ7月、8月ともなると、バカンスを楽しむべく民族の大移動がヨーロッパでは起こりますが、2千年前のス
ーパーヒーロー達はむしろ、冬の時期に避寒の為に、地中海に出向いたのではなかったかと思えます。


 59. 内陸の若者が大洋にチャレンジ


15〜16世紀は大航海時代と呼ばれ、ヨーロッパではポルトガルやスペインが未知の大海原へと雄飛しました。
1494年には、ローマ法王の仲介で大西洋を南北に線を引き、以後発見される土地はカトリック教を布教する前提の
もとに、ポルトガルは東、スペインは西を縄張りとして良いことになります。トリニシアス協定と呼ばれました。
元々スペインでは、地中海に面したバルセロナ、バレンシアの人達あるいは大西洋に面した北のガリシアの人達は、
商人や船乗りとして活躍していました。

1492年にカトリック両国王によるスペイン統一は、長い歳月(800年近い)をかけての、北から南へとキリスト教の縄
張りを回教勢力から取り戻す運動(レコンキスタ)でした。その際汗を流した人達の多くは、スペインの内陸地方(カステ
ィリヤやエキストレマドゥーラ)出身の兵士でした。1492年10月にコロンブスにより偶然見つかったアメリカ新大陸は、
1500年代を通じてスペインの入植する所となりました。
メキシコのアステカ帝国を滅ぼしたコルテスや、南米のインカ帝国の支配者となったペサロは、地中海と比べると文化
レベルの低い田舎で無骨な内陸のエキストレマドゥーレ出身です。
結果として、新大陸アメリカは大変な略奪に会い、素晴らしい文明を破壊されました。
またスペインの近世の歴史は内陸に住む人達が、地中海やビスケー湾のほとりに住むいち早く文明を築いた誇り高い
人達への対応を間違えた混乱が今に至るまで、尾をひいているように思えます。


 60. 早朝のパリを走る


芸術家になり損ねた独裁者ヒトラーは、第二次世界大戦が始まり陥落間もないパリの街を数時間秘密裏に車で走らせ
た後、急ぎ飛行機でベルリンに帰っています。

冬の朝5時から8時までの3時間、人気や車の走っていないパリの街中を車で走りました。
夜行便で日本を出発して、早朝ド・ゴール空港に着き午前10時の便でアイルランドへ向かう、つかの間の時間を利用
しての事でした。
クリッシイの門からパリの旧市街に入り、モンマルトルの丘の麓を地上に出ているメトロ(地下鉄線)と並行して走って、
その後国鉄サン・ラザール駅、旧オペラ座、オペラ通りを通り、ルーブル宮殿の中庭で下車しました。側にはナポレオ
ンの造らせたカルセールの凱旋門やベルニーニ作のルイ14世騎馬像があります。中国系アメリカ人ペー氏の設計し
たガラスで造られた正四角錐のピラミッドが、吐き出す白い息の向こうにぼんやりと見えていました。
その後セーヌ河沿いに左岸を走り、ブルボン宮殿(下院議事堂)を左手に見て後、アレキサンダー3世橋(ニコライ2世
の寄贈で、最も美しい橋と云われる)を渡り、右岸に出てコンコルド広場を一周して後、右岸沿いに800米も続くルーブ
ル美術館を横目に見ながら下り、シテ島(パリ発祥の地)を横切って、セーヌ河の右岸に出、ラテンクオーター(かってラ
テン語を話した文教地区)の一角にあるパン屋へバスを横づけします。そこでは、朝6時45分から評判の出来立ての
パンの販売をします。暖かいパンを口に頬張り再びバスに乗り、3200年もの昔エジプトのファラオ、ラムセス2世がル
クソール神殿に奉納したオベリスクの立つコンコルド広場へ行き、休憩しました。未だ暗い静かなこの広場は、昼間は
車の流れがひきも切らない所です。
そしていよいよ2キロ弱の世界一有名な通り、幅90米のシャンゼリーゼ(極楽浄土)通りを進み、フランスの栄光のた
めに死んだ兵士を祀る高さ50米のナポレオンのつくらせた凱旋門を目指します。凱旋門の周りを1周してからトロカデ
ロ広場で下車しました。
ようやく白見かけた中で、展望台からパリのお嬢さんエッフェル塔に見とれました。
トロカデロ広場では、カフェがオープンし出します。少々寒いですが外の椅子に座り、夜明けのコーヒーを注文しまし
た。
そしてマイヨール門からペリフェリック(36キロに及ぶ環状線、パリの街を囲む壁があったところ)に乗り、ド・ゴール空
港に帰りました。
なんとスリルに満たされ、充実した3時間だったことでしょう。
パリ(お嬢さん)の寝顔を覗いた思いです。

夢を計画し、生徒さん達に旅の醍醐味を与え続ける明治学院、巖谷国士教授のお陰でした。



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