旅の魅力は百聞一見そして温故知新



1. それでも地球はまわっている



マルコ・ポーロ(13世紀後半、ベネチア出身)が東方への憧れの火をつけ、コロンブス(15世紀末、ジェノバ出身)が西
周りでインド、中国をめざし、アメリゴ・ベスプッチ(16世紀初頭、フィレンツェ出身)がアメリカ新大陸の名前の栄誉をう
けます。
彼は南米大陸を探検し、裸で自由に宗教も知らず恵まれた自然環境の中で、縄張りもなく所有欲もなく生きる人々につ
いて報告をしました。
宗教裁判の結果、"否"とされましたが、"それでも地球はまわっている"ともらした
ガリレオ・ガリレイ(16世紀後半、ピサ出身)は、自分でつくった望遠鏡で実験観察の末、近代の科学合理精神の扉を
開きました。
 
そして、彼らは21世紀の空の玄関口をそれぞれの出身地で、受け持っています。
ベネチアには、マルコ・ポーロ空港が、フィレンツェにはアメリゴ・ベスプッチ空港、ピサにはガリレオ・ガリレイ空港があ
ります。
永遠の都ローマには、なんとルネッサンス期の万能の天才と謳われたレオナルド・ダ・ヴィンチ空港があります。
まばいいばかりの時代だったことが分かります。


 
2. 公共広場(フォーロ)とは柵の外



歴史の中で最も有名な魅力に満ちた広場はフォーロ・ロマーノ(ローマ広場)と云えましょう。

丘のふもとに広がる低地にたまる濁水をテベレ河に吐き出すことで、それまで七つの丘の上の柵の中で細々と生活し
ていた部族が、柵の外(フォーロ)の低地に出て交流、交易を始めたのが、フォロ・ロマーノ公共広場の誕生でした。

その一角に紀元81年完成のティトス帝の凱旋門があります。
紀元70年ユダヤ民族の聖地エルサレム(神の住まい)が陥落、凱旋して帰るティトス将軍の兵士達のレリーフ彫刻に
は神殿に安置されていた燭台などが描かれています。ユダヤ民族のディアスポラ(イスラエルの地を去り離散する)の
始まりです。結束の固いこの民族を商業にどのように生かし使えるかが、後世の権力者の評価を左右するほどでた。
そして近くには、コロッセオがあります。誰もが認めるローマの顔で紀元81年につくられました。そこでは、ローマ市民
の為の、"パンとサーカス"が1年の半分も行われれ、やがてゆるやかに衰退への道を演出したシビル・エンジニアリン
グ(土木工学)の粋の建造物といえます。
一方、ナポリ近郊ではベスビオ山が紀元79年に大噴火します。スパッカ・ナポリの側に 16世紀に王家騎馬隊の宿舎
として、17世紀から19世紀後半まではナポリ大学校舎として使われた国立考古学博物館があります。ポンペイなどの
遺跡からの発掘品のほかにファルネーゼ家(ローマの名門貴族)蒐集になる古代ギリシャ彫刻家リシパス、フィディア
ス、ポリクレイトスの古代ローマ時代につくられたコピーがあります。神々を完全な理想の人間の姿で表現したギリシャ
彫刻です。

神童モーツアルトを伴った父レオポルドは、発掘が始まって間がないポンペイの遺跡を見学し、夢中になりました。17
70代初めのことです。

百聞一見そして温故知新は旅の魅力です。



3. 故郷は遠きにありて想うもの



若者2人がワーキングホリデーを利用してアデレード(南オーストラリア州の都)へ行きました。1年の滞在でしたが、手
に抱えきれないほどの土産話を持ち帰りました。
数ヶ月居候してお世話になったイタリアから移民してきた家庭、そしてその仲間達の生態を観察して、次のように総括し
ました。

ローマ帝国の末裔であるせいかプライドが高く、イタリア語は世界でー番と想っており見栄っ張り、おしゃれ好き、内心
は神経質だがおもしろいと思われたいのか人の笑いをとる話しが好き、勿論人の噂をするのは大好き、感情に走りや
すいが総じてかわいい、憎めない人達である。
結婚式はでっかくやり、血の絆がつよい。イタリアの北と南では人種も音楽も違い、互いに関心を示さない。
清潔好きで、掃除をこまめにする。
そして、庭には花よりも野菜を植え、台所は神聖な場所、そこはマンマ(ママ)が支配。1週間に1度は、子供達が集ま
ってきて親と語らいの時を持ち、勿論その中心は食べること。マンマは、その日は朝から準備に忙しく、パスタにかける
トマトソースは1年分まとめて仕込んであるそうだ。(日本の味噌の仕込みに似ている)

さて、本家のイタリアが今もそういう習慣や考えをしているのでしょうか?



4. オベリスクは巡礼者の道しるべ



古代ローマ時代、エジプトを支配した皇帝達はアスワンの石切り場で切り出した花崗岩を使い、先端が正四角形で側
面には多く象形文字が刻まれた巨大な1本柱のオベリスクをローマへと持ち帰りました。エジプトでは各地の神殿(ルク
ソール、ヘリオポリスなど)に奉納されていたものでしょう。

時は過ぎ、16世紀のローマ法王シスト5世は、サン・ジョバンニ・ラテラーノ教会、サンタ・マリア・マジョーレ教会、トリニ
タ・デイ・モンティ教会、サンタ・マリア・ポポロ教会そしてサン・ピエトロ教会の前の広場にこれらのオベリスクを置きまし
た。
反宗教改革運動(プロテスタント運動に対してカトリック旧教を支持する流れ。17世紀にバロック芸術として開花)の最
中、ヨーロッパ中から聖地ローマへと巡礼者がやってきました。これら信仰者のために、バシリカ教会を中心に迷わな
いで聖地を回れるようにほぼ直線で結ばれた道のそばに立っています。

トリニタ・ディ・モンティ教会は、フランス人のための教会で、有名なスペイン階段を登った所にあります。巡礼者のため
にフランスが金を出し18世紀にこの階段を造りました。しかし、階段をおりた側には昔からスペイン大使館があり今も
あります。そんなわけでフランス階段とは呼ばれず今に至っています。
そして近くのポポロ広場には、ポポロ門、フラミニア街道(北へと始まるローマ街道)、サンタ・マリア・ポポロ教会があり
ます。その中には、カラバッジオの絵がおかれています。

命がけで巡礼して来る者にとっては、さぞオベリスクを眺めてほっとしたことでしょう。勿論、発案者のシスト5世も巡礼
者達も、エジプトからはるばる旅してきたオベリスクへの歴史的価値にまで思いをかけてやることはなかったでしょう。

旅の魅力は百聞は一見、そして温故知新です。



5. 三巨人に愛された20世紀のポルトガル



背後に強国スペインを背負い前面にはアトランチスの海(荒れ狂う大西洋)という条件のもとで、14世紀末から16世紀
末までのおよそ200年、自信に満ちあふれチャレンジする勇気をもって世界へ雄飛したのが、ポルトガルです。

しかし20世紀には静かなヨーロッパの辺境地として余生を送っているかに見えました。 一方、20世紀ほどヨーロッパ
が荒々しく揺れ動いたことはありませんでした。
第一次世界大戦の最中、平和の大切さを伝える為に聖母マリアは、3人の羊飼いの子供達のまえに現れました。巡礼
の聖地となったファティマです。

作家壇一雄の愛したサンタクルス。"落日を拾いにゆかむ海の果て"大西洋に沈みゆく太陽を歌いました。

そして、ミスター5%と呼ばれたアルメニア系外交官グルベンキアンは安住の地として、この国を愛しました。第一次大
戦後、オスマントルコ帝国領であった中央アジアの地から沸き出る石油の発掘権を斡旋した功績により、石油メジャー
会社より利益の5%をもらいました。その莫大な財力で収集した6000点のアートコレクション(イスラム陶器イズミック
や中央アジアの数々の収集は必見)グルゲキアン美術館は、時間をつくって是非、リスボンで訪れてみたいところで
す。



6. 時を越えた画家ボッシュ



ヒエロニムスボッシュは500年前オランダで神父であったと思えます。
聖書を題材にした絵が何点か残っています。代表作は、マドリッドのプラド美術館にある"悦楽の園"と題される観音開
きの絵です。
向かって左に楽園、中央が現在、右がその結果行くべき苦しみの世界となっています。
中央は明るい色で、右は暗い色ですが、両方とも生物(動物、植物、昆虫、魚など)と人間があやしく絡み合い、そして
おとぎの国のファンタジイな建物が描かれています。
一方、楽園にはカナリア諸島(モロッコの西の沖合100キロメートルに浮かぶ)にしか育たない竜血樹(ドラゴニアン)の
下で憩う男女(アダムとイブ)がいます。

スペイン帝国皇帝フィリッペ2世(16世紀後半)は、寝室にこの絵を飾っていました。古代ギリシャ人が幻の大陸(理想
の国)が海底に突如沈んだことを述べて以来、今に至るまでその地がどこであったのか興味を喚起しています。
さて、カナリア諸島は幻の大陸(楽園)の一部でしょうか?

1400年代の初め、カナリア諸島はスペインの支配するところとなりました。
情報としてボッシュは、この島が楽園かも知れない、そして異形の植物ドラコニアンについて聞いていたのでしょう。

リアリズムな眼を持った天才画家が未来、空想的な環境の中に刹那的に生きる人間を
描くことで一層厳しいメッセイジをつきつけているようです。

ボッシュの絵はリスボンの国立古美術博物館やベネチアのドュカーレ宮殿にもあります。



 7. 正装の踊りはエロティク裸の踊りはサバサバ



ブエノスアイレスの街は大河プラターに面しており、下町は港です。
港には酒場や宿が出来、船員や怪しげな風体のヨーロッパあたりからの流れ者が出入りするなか、タンゴは生まれ
た。男同士で踊ったのが始まりらしいが、酒場の女給などを誘って踊るうち、あの独特のセクシーなリズムが成立したと
いう。
船舶王と言われたギリシャのオナシスも若い頃、この下町に住んでいました、

サンバは、アフリカから連れてこられた黒人奴隷達の護身、あるいは反抗の中から生まれた。夜は手枷をされる中、足
を使って闘うことを考え、それがあの踊りを生んだという。
観ていて面白いのは、正装に身を包み踊るタンゴが異常に性を感じさせる一方、全裸に近い姿で舞うサンバはまこと
にサバサバしています。

更に宗家筋にあたるスペインにフラメンコ、ポルトガルにファドがありますが、いずれも人の喜怒哀楽を表現したもので
共通している。またファドはもともとアフリカか連れてこられた黒人たちがリスボンの下町あたりで歌った慕情であったと
いいます。
以上述べた歌や踊りが宗教と関係がないことも共通しています。

アルゼンチンとブラジルを旅しての印象です。



8. ワーズワースのころ



ウイリアムワーズワース(1770〜1850)は、晩年ビクトリア女王により桂冠詩人になりました。当代随一ということでし
ょう。
コッツワルド地方のバイブリイ村にある古い貴族の館のサロンで彼のころを想っていました。テーブルにはアフタヌーン
ティとスコーンやサンドイッチが皿に盛られ、ゆったりとしたソファーに腰をおろすと、室内の装飾の上品さが眼に入りま
す。外は広々とした英国式庭園で、その中を川が流れマスが泳いでいます。

幸福に満たされたワーズワースは、夜明けのひとときに悦楽を見いだし、また若いことこそ楽園であると述べています。
時はフランス革命(1789年)のころでした。
KING COTTON(綿の全盛期)の時代でもありました。米国南部で採れる棉がランカシャー、マンチェスターへと運ば
れハーグリーブスやアークライトが発明した糸紡ぎ機を使い、工場では女性や子供が一日12時間も労働していまし
た。

湖水地方のグラスミアには、ダブコテージ(鳩の家)があります。
若く創作活動盛んなころ住んでいました。石造りで天井の低い二層の古い借家です。見学して楽しいのは、ロウソク
は、羊などの脂肪を固めてつくり、粗悪品ですがネズミに食べられないため使用しないときは、天井から吊していまし
た。あるいは、水が貴重でしたので洗面用の水はなんども使えるように洗面器の底は開閉式です。
紅茶には税金が高くかけられていましたので、戸棚の奥に閉まってあり扉に鍵をかけていました。すこし悲しいのです
が、ワーズワースの妹は40才で歯が全部ありませんでした。遠く旅をした時に、身分証明書として使った用紙(今のパ
スポートにあたる)などあります。

自然を愛しロマン時代に生きた人ですが、紅茶の積み荷をボストン港の海中に投げ込み、紅茶への高税と英国議会
への代表権の振り代わりを求めて始まったアメリカの独立戦争でしたが、なんと英国は、自国民にも紅茶に高く税金を
賭けていたことを、ワーズワースは教えてくれます。

旅の魅力は、温故知新でもあります。



9. 太平洋ひとりぼっちでなかったハワイ



英国人クック船長(18世紀後半)によりハワイ諸島は発見され、サンドイッチ諸島とも呼ばれます。友人であり、食事中
もギャンブルをする為に考案した食べ物、サンドイッチの名の由来の主、サンドイッチ卿の名をつけたそうです。クック
船長は、15世紀以来ヨーロッパ人により始まった大航海時代の締めくくりをしたひとです。

勿論、それ以前にポリネシア諸島から海流や季節風を巧みに使いやってきた先住民のカナカ人が住んでいました。

18世紀から19世紀は、鯨の油を高品質のローソクやランプオイルに使用、あるいは髭をコルセットに加工し、ヨーロッ
パやアメリカの上、中流階層の夜を明るくし女性をより美しくするために、捕鯨船が大西洋へそして太平洋へと活躍し
た時代です。
そんな中、マウイ島のラハイナやオアフ島のホノルルが捕鯨基地として使われました。

日本へペリー提督が開港(1853年)を迫ったのも、捕鯨船の立ち寄り基地としての価値を観ていたようです。しかし、
1860年代後半にペンシルバニア(アメリカの東海岸にある)で油田が見つかり、ガス燈や電球の時代が始まりまし
た。その結果、捕鯨時代が終わり次は、メキシコ原産のパイナップルやサトウキビがハワイの土地に合っていたので、
プランテーション時代の幕開けでした。
日本からハワイ移民の多くがプランテーションで働きました。

20世紀になりますと海軍の基地として軍事価値が高まります。
兵士が家族と休暇を過ごす場所としてワイキキが開発されました。もともとのワイキキあたりは米が植えられていたと言
います。
そして、戦後はプレスリー(ブルーハワイの映画)などの後押しもあって一大リゾート地ハワイが生まれました。

1860年に条約の批准書を携えてワシントンへと向かう際、幕府の代表団が立ち寄りハワイ王朝主催の晩餐会に招か
れました。
"ご亭主はたすき掛けなり、奥様はもろ肌脱いで、珍客に会いけり"と軽妙に団長は詩をつくっています。今でも正式の
セレモニーでは、よく主賓の国王がモーニングに肩からたすきに似た色布を着けますし、女王は両肩を露わにしたイブ
ニングドレスをおめしになります。
勿論、日本側団長は、ちょんまげ、和装、脇差しぐらいは着けていたでしょう。
異文化接触のクライマックスシーンを彷彿させます。

ホノルルではビショプ博物館、ラハイナでは捕鯨博物館があります。
ちょっと立ち寄ってみてはいかがでしょうか?



10. 私の旅の神様たち



中世の時代(14世紀)何十万キロも歩いて、あるいはラクダや馬に乗って旅をした人が、アラブ人旅行家イブンバトゥ
ータです。
アフリカ、中近東、インド、中央アジア、中国、ヨーロッパなど当時のイスラム世界を網羅しています。今は、ジブラルタ
ル海峡のほとりタンジェの街の丘の一角の墓地に静かに眠っています。

モーツアルト(18世紀後半)は、創作の仕事をする人は人生の3分の1は、旅に過ごすべきだと語ったひとです。実に
その通りに生きた人でした。

長嶋茂雄は、どんなピンボールまがいの球にもバットの芯に当てることができた希有な人だと聞いています。人呼んで"
動物的カン"といいました。まさに旅は予期しないことが起こります。どんな状況にも臨機応変に対応する柔軟な心の構
えが大切です。

わたしのモットーとする旅の神様たちです。 



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